第8話 大敗〜尊すぎた推し
「こんにちは、みーちゃん! アイドルやめないでね!」
「今日はチェキ券、全部みーちゃんに使うよ! 引退なんかしちゃだめだ!」
「アイドルはやめなかったら必ずいいことがあるよ」
他人の1分間は驚くほど長くて、自分の1分は悲しいほど短い。これはアイドルファンなら誰しもが思ったことがあるだろう。だが、一週間後になんらかの要因で引退を決意することになる推しを止めるための第一声を考えているときに限っては、他のファンはさっさと彼女とチェキを撮ってまた別の列に並び、あっという間におれの順番になっていた。
なんて言えばいいというのか。少なくとも先ほど考えていたように直接的なことばをかけるのは違うような気がする。むしろ、それが引退を考える一端になってしまえば元も子もない。
「あっ、ユウくん! 来てくれてありがと〜」
「え、あ、うん……! もちろん来るよ……」
目の前に〝みーちゃん〟がいる。
猫のような綺麗な瞳をしている。肌は特に何もしていない――なんてことはなく、ちゃんと努力してその透明感を維持しているのだといつかラジオで言っていた。天才であり、秀才。そんなのってずるい。見ているだけで、張り裂けそうだ。
「どうかしたの?」
「あっ、ううん……」
と、〝みーちゃん〟がおれの顔を覗き込みながらも、そっと隣にきてポーズを決める。錨をイメージしたハンドサインで、普段なら恥ずかしくておれはやらないのだが、気がついたら左手を〝みーちゃん〟と同じ形にしていた。
撮影してくれるスタッフは淡々とカメラを構え、シャッターを切る。
「やっとだね」
〝みーちゃん〟はメンバーの中で最年少の〝まいみー〟よりも身長が低いので、その距離でことばを交わすと必然的に上目遣いになる。
可愛いとか、美しいということばでは言い表せない満たされた感情がおれの身体に迸る。それはある種の電撃のように、頭を、身体を麻痺させる。
「なにが……?」
満たされたおれは返事に遅れる。
「やっと、ゆうくんもアンカーポーズしてくれたなあと思って」
そこで、少しでも頭が回っていたら、「次の定期公演でも絶対にこのポーズで写真を撮ろう」と提案ができたのかもしれない。だが、実際におれの口から出たことばは、
「そうだっけ?」
だった。
そうやって、一度目のチェキは終わってしまった。〝みーちゃん〟はさらさらと慣れた手つきでサインを書き、おれの名を書いて「来てくれてありがとう♡」と添えてくれた。
「ま、またくるね」
最後の最後に辛うじてそう言えたが、それはただもう一周並ぶという意味にしか聞こえなかっただろう。
というわけで、結果は、大敗だった。初めて彼女のことを知ったとき、初めてグロウライブでレスをもらったとき、初めて握手してもらったとき、初めて顔と名前を認知してもらったとき……。
あの引退の通告を前にして消えかけていた様々な胸の高鳴りがもう一度一気に押し寄せたような、そんな感覚に見舞われたおれに正常な判断なんてできるはずがなかった。
振り返るとたまたま次のファンと写真を撮り終えた〝みーちゃん〟がこちらをちらっと見た。
そんなのってずるい。
おれはもう一度心の中でそうつぶやくだけで精一杯だった。
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