第2話 彷徨うファン、耳元の推し

♪ ねぇ君と繋がりたいのよ

     断ち切っちゃってよ この鎖

  恋の修好通商条約 早くわたしと結んでよ



 イヤホンをあげたことがあった。

 CDアルバムの購入特典でチェキを撮るときにどんな音楽を聴くのかという話になり、ふいに〝みーちゃん〟がすぐにイヤホンを失くしてしまうと零したのだ。


 それで次のライブイベントの前に家電量販店に行った俺は店員に嘘偽りなく、「音楽関係の人間にプレゼントしたい」と告げると、手頃なものでこのくらいだとして三万円のワイヤレスイヤホンを勧められ、それを二つ買った(六万円のものを一つ買ってもよかったが、それだとあまりに高価で彼女を困らせてしまいそうなのでやめた)。



 つい一昨日、SNSに投稿していた「撮影会に向けてトレーニング中」という写真でも、〝みーちゃん〟のものすごく小さな顔の横のやはり小さな耳にはちゃんとそのイヤホンがつけられており、そして今、それとお揃いのおれのイヤホンからはポートガールズの『恋の修好通商条約』が流れていた。


 活動初期の頃から歌われているその楽曲はライブで必ず盛り上がるアップテンポの人気曲だ。恋をする男女になぞらえて面白おかしく可愛らしく、意外にもちゃんと歴史の勉強にもなる歌詞のため、ファンがポートガールズをまだよく知らない人に紹介する――いわゆる「布教」のときなどにもしばしば挙げられる。


 おれが好きな部分は二番のあとの大サビ前、メンバーのセリフが入るところだった。


『ねぇ、それってどこが不平等?』

『あなたに恋をしたわけじゃないやい

あなたを恋に落としたんだい』

『関税自主権? 認めませーん!』

『でも治外法権は認めてね?』


 このセリフの「あなたに恋を〜」のところから「落としたんだい」がみーちゃんの担当部分で、「だい」のところでちょっと首を傾けてマイクを持っていない方の指を客に向けるあの振付は(本人提案と聞いたことがあるが)、天才の発想だ。彼女がアイドルとして生まれるべくして生まれたと思わざるを得ない。

 もちろん、関税自主権を認めない担当の〝こなっちゃん〟も溌剌として可愛いし、治外法権を押し付けるリーダー〝れいら〟の大人の魅力たっぷりの声も大好きで、台詞の部分だけでももう何度繰り返し再生しているかわからない。


 そしてちょうどイヤホンから流れている曲もそんなセリフ部分に差し掛かったとき、俺は〝みーちゃん〟への想いが溢れるあまり、指を前に突き出してライブ中の彼女と同じポーズを決めていた。



 ふいに我に帰ると、俺は電車の中にいた。


 全く知らない電車。

 いや、もちろん、名前はわかる。わかるが、それはなんと横浜ではなく東京都下の山間部に向かう電車だ。自宅の最寄りよりも先など一度も行ったことがないのに。

 いつの間に間違えていたんだか。

 いや、それも仕方のないことなのかもしれない。


 何しろ、俺のさしてよくない頭は未だもって混乱状態にあるし、考えるべきことは山ほどあった。


 これからは誰が「落としたんだい」をやるのだろう。そもそも、残されたメンバーはどうするのだろうか。一体彼女になにがあったのだろう。昨日の写真を見れば何かわかるだろうか。もしかして彼氏が……いや、それはないだろう。そんなことよりも、メンバー紹介ソングのみーちゃん部分はどうなるのだろう。あの曲もよかったのにな……。




 そんなわけで、俺は電車が全く横浜に向かわないと気がついてからもしばらくその電車に乗っていた。もはや戻るために行き先を確認することができるほどの頭の処理能力さえ残っていなかった。

 きっと、おれは突然開国を迫られ、挙句にものすごく不平等な条約を結んでしまった江戸幕府と同じくらい困惑しているのだろう。



 それから、どれくらい時間が経ったのか分からない。おれは誰もいない車両のドア付近のシートにもたれてポートガールズの楽曲を聴きながら、スマホでそれまで数千枚と保存してきた推しの画像を眺めるでもなく眺めていた。

 ふと顔を上げるとそこはいつの間にかかなり長閑な景色になっていた。生い茂った緑にきらきらした清流、空の向こうには鳶が悠々と飛んでいる。

 降りよう。そう思った。

 頭の中の僅かな隙間から、まずは何でもいいので未知なる情報を流して一瞬でも彼女のことから離れないと、ともすれば帰ることさえ困難になってしまうかもしれない。そう直感した。


 駅の名前はわからない。イヤホンからは大音量でポートガールズの楽曲でほぼ唯一のミディアムバラードの名曲『港の見える丘でキスして』が流れておりそれどころではなかったし、あえて看板を確認しないでも戻ってきてこられるような、そんな気がしたのだ。

 なぜだかは知らないが、もう一度、いや何度も戻ってくるような、そんな気が。

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