「基本世界」はじまりの物語

第1話 引退〜いつかくるその時

 それはあまりにも突然の知らせだった。


「重要なおしらせ」


普段なら、楽曲のPVができたときや地上波の出演が決まったときくらいしか投稿をしない運営事務局の堅苦しい投稿。


 その瞬間、少しだけ、嫌な予感はした。

 したけれど、どこかでは「とはいえあり得ないけどね」と鼻で笑っている自分もおり、だとしたらどんなおしらせなのだろうかと半ば楽しみにすらして添付されていた文書に目を通した。


「日頃より『ポートガールズ』を応援いただき誠にありがとうございます。この度、メンバーである愛甲美颯みはやが事務局から離れることになりましたことをご報告致します。

 大学生となり、学業とアイドル活動の両立をしていく中で、本人よりここからは学業に専念したいとの申し出があり、メンバーを交えた話し合いの末、このような結果となってしまいました。

ファンの皆様におかれましては、突然の発表となってしまったことを心よりお詫び申し上げます。

予定していたライブへの出演ですが、見送りとさせていただき、本日をもって引退とさせていただきます。

 また、残りのメンバーは予定通り出演させて頂きますので、新体制となるポートガールズを引き続き応援宜しくお願いいたします」


 『ポートガールズ』、〝みはや〟、離れる、学業、このような結果、ライブ出演見送り、引退……。


 目で文字を追い、頭の中でそれを読んでいるのだが、断片的なことばだけが頭に嫌な重さと冷たさを伴って残っただけで、それらがうまく繋がって意味を為さない。



 『ポートガールズ』は俺が推しているアイドルだ。その名の通り、横浜や横須賀、小田原といった神奈川県の沿岸部を中心に活躍しているいわゆるご当地アイドルなので、大手プロダクションやCDレーベルとの契約はしておらず、活動はライブやイベント出演がメインだ。


 そして〝みはや〟。ポートガールズのサブリーダーで、青色担当。ライブ配信で俺のコメントにも熱心にレスを返してくれたのをきっかけに推しになった。ファンからの呼び名は「みーちゃん」で、これは〝みはや〟が家族内で自分のことを呼ぶときに使っている呼び名でもあった。


 そんな『ポートガールズ』の「みーちゃん」が「学業」……彼女はこの春大学生になったばかりで、明確には言っていないがおそらく横浜の郊外にキャンパスのある大学の文学部に通っていると噂されていた。


 ああ、だめだ。

 一つずつ頭の中で整理していき、ようやくそれらがはっきりとした意味のある文章として頭に入ってくる。〝みーちゃん〟が学業に専念するために、引退。引退。引退。引退。

 だけど、心ではそれを微塵も受け入れられていない自分がいた。まるで他所の国の知らない男が財布を落としてしまったと聞いたような、それくらい今目の前にある現実と剥離した実感のない事柄としてしか認識できない。


 なんなんだ、これは。


「もしもし?」


 気がついたら俺は江口さんと電話をしていた。

 自分から電話をしたのか、かかってきたのかもわからないが、彼は電話口で父親のように優しく話しかけてくれた。

 江口さんは同じポートガールズのファンなのだが、俺は今年で二十三になるのに対して、彼は四十七で二回りも上の頼り甲斐のある古参ファンだ。


「大丈夫かい? 昨日、あんなに楽しそうだったのに……本当に驚いたな」


「えっ? 昨日? あっ……」


 そうだ。昨日は撮影会があったのだ。横浜の山手にあるハウススタジオが併設された公園で各メンバーの撮影をするという人気のイベント。全部で三部制になっており、俺は一部と三部でそれぞれワンピース姿の〝みーちゃん〟と制服の〝みーちゃん〟を撮影した。ちなみに、二部は〝みーちゃん〟は休憩で出ていなかったため、江口さんの推しである〝ちなりちゃん〟を撮影した。


「あっ、写真……あとでSD送ります」


 そんな撮影会では仲のいいファン同士で推しのベストショットを交換しあうのが通例になっていた。



「それはいつでもいいよ。それより、みーちゃん……」


 ああ、そうだった。みーちゃんは学業に専念するために引退するらしい。そうだった。


「ど、どうすれば……」


「落ち着いて。とにかく、冷静に考えてみよう。わかるかい」


 いいや、わからない。どうしたって冷静にはなれない。冷静になってしまえば、きっとこのことが紛れもない事実になってしまう。何かの間違いだと、その可能性を少しでも残しておきたかった。


「すいません、あの……また電話します」


「ちょっと!」


 そう聞こえるか、聞こえないかのところで俺の指は勝手に電話を切っていた。俺が最初にライブに行ったときから優しくしてくれていた江口さんには本当に申し訳ないが、今はもう電話をすることは困難だった。



 次の瞬間。

 いや、実際にはかなりの時間が経過しており、記憶と認識がぶつ切りになっているせいで一瞬に感じられただけなのだろうが、とにかく俺はポートガールズのロゴ入りのパーカーを羽織っており、玄関に立っていた。


 川崎の県境に近いエリアに学生時代から住んでいる俺にとって、横浜まで出るのは容易だ。もちろん、そこで誰かが待っているわけではない。だが、もしかすると事務局にメンバーがいて、引き止めることもできるかもしれない。

 あるいは事務の方に聞いてそれが誤配信だったと判明するかもしれない。


 そんな可能性が微塵もないとは言い切れない以上、もう家にいるわけにはいかなかった。

 それに、そのまま家に閉じこもってこの悲報を見続けていたら、俺はどうなってしまうかわからない。



 誰かを推すことは……とてつもなく素敵で、とてつもなく儚い。

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