A-1

 結構な上流であったが、そこからさらに奥へ上ること二十分、それは突然現れた。今にも自然の苗床として呑み込まれようとしている、横半里はあろう広大な施設群だ。

「霧……いや靄か」

 レースのように、一帯を靄が覆っている。いかにもフォトジェニックだ。離れるなよ。言って車を降り、工場の門をくぐる。

人間じんかんの光たれ』

 アーチ形の門にそう彫られている。なんと趣味の悪いオマージュであろう。さらにはこの時世、人の世の熱も人間の光も失われて久しい。廃墟というのは、いつだって現代にそぐわないのだ。そぐわないから、現代に廃墟として打ち捨てられている。

「たぶん、ここが……事務所だな。案内図があるはず」

 ゴマ豆腐に窓枠をはめたような、鉄筋コンクリートむき出しの建物だ。自動ドアだったらしい枠を越える。受付の先に廊下が突き出ていて、そこから生える部屋はまるで人だけがいなくなったように、デスクも書庫も、何もかもそのままのようだった。

「ねぇ、これ。なんだろう」

 零花がデスクの一つからファイルを抜き出し中を見ている。何と言われても中にあるものといえばA4サイズの中性紙だろうが……

 A4の中性紙だった。

『此度はまっこと、五一分平均律について村の外では単位円にございました。やはり早計といいますか、さて次のニュースです。こころにKは必要ないとの意見から、内容はそのままに、題名を「おおろ」とする怒りの代案が夏目漱石氏本人から提案されたとの情報が――』

 これ、……なんだろう。でたらめだ。夏目漱石「こころ」は連載からずっと「こころ」のままだ。もしかして……

 もしかした。他の紙という紙に、同じようにでたらめの文章が連ねられている。ところどころひらがなだったり、トナーインクで印刷されているにもかかわらず部首が曖昧だったりする。

「変だ。それ以外わからない。何も」

 意図も経緯も見当がつかない。廃墟たらしめられるその時にもとの書類を持ち出したにしても、こんなことをする意味がない。しかし意味がなければ、金と手間をかけるはずがない。

 なんの前触れもなく、また脈絡もなく、部屋に残されたコンピュータに繋がるモニターが煌々と光を放ち始めた。

「今度はなんだ」

『美しい方はより美しく、そうでない方はそれなりに……ふっくらつやつや……大本営陸海軍部発表!本日は晴天なり!今日も元気にいってらっしゃーい!……あまたつー!……ピアノ売ってちょうだい……イ……赤マムシ……若い男……キチガイの顔ですよ……失礼しました、熱盛と出てしまいました……きれいなきんたま……』

 全てのモニターが一斉に、であった。おそらく昔の、……自分が忌み嫌ってきたテレビの番組やコマーシャルの一節を怒涛の勢いで再生している。大本営陸海軍部発表(これはラジオだが)、イ、きれいなきんたまはわかる。辛うじて維持されているインターネットの日本人網で丁寧に受け継がれてきたミームだ。

 気味の悪さよりも興味が勝っていた。この廃墟には電気が来ている。管理者がいて、近くのコンピュータはついていないから、それらとモニターは繋がっていない。

 汚いDVIのケーブルをたどればまたイレギュラーに出会えるだろう。送信元や、はたまた送信者に。

 しかし期待は裏切られ、また別の期待を生むこととなった。モニターのケーブルは、動く気配のない、埃を被ったコンピュータに繋がっていた。であれば何がモニターにこのふざけた情報を送っているのか?

「ねえ久、霧が」

 袖をつままれて窓枠の外を見やる。山を上るでも下るでもなく、深い霧が、この一帯に腰を据えていた。それはもう深く、他の建物も見えないほどとなっている。

「あー、一回車に戻ろうか。移動でお腹も空いたろ」

 白飯一杯を朝食としてきたので弁当を作ったのだ。

 霧が窓から木の根のように進み、床を舐める。季節と場所柄、いやらしく冷える。コートも持ってこなかったことを後悔しながら慌てて車へ向かう。

「離れるなって言ったのは誰だっけ?」

「ん、何の話だ」

 零花が顎を落とした。眉を八の字にして顎を拾って悪態をつく。

「ほんとに覚えてないの?怖くってあんたにぴったりくっついてたのに、そんなのお構いなしでパソコン漁り始めるんだもん、どうなってんの」

「はは、ほんとに覚えてないな。さあ存分に抱きつきたまえよ子猫ちゃん」

「にゃんにゃん!」

 裏腹に、だ。正面から飛びついた彼女の腕は俺の首をとらえていた。

「おやおやどうしたのかな、ねずみちゃん?逃げないとそのうまそうな血を吸いつくしちゃうよ?」

 後ろに倒れ込む。首を締め上げるその柔い腕を引きはがそうとするとあの「瞬間的な強い力」で喉仏をやられる。どうしようもない。

「いただきまーす」

 やばい、今牙を立てられているのは頸動脈――

 辞世の句・KはK動脈を切って死んだ。(自由律)

 鋭い刃とはわけが違う。肉を切るというよりも引き裂くといった感覚で、涙がちょちょ切れるくらいに痛い。

 子猫改め猛虎ちゃんは腕を緩め、食事に専念している。

 同時に、嬉しくもあった。誰もが、もちろん零花自身も持っている加害性を認め、自ら行使し始めている。吸血鬼の面々は過激すぎるにしても、彼女が生き物として生きるために必要な分だけ、まずは取り戻せているような気がしていた。

「あっあの、もうそろそろいいんじゃないですか……?」

 満足したようで口を離し、傷をひと舐めすると、だくだくと血があふれていたそこは瞬時に閉じられた。

 吸血鬼の異様な回復力の秘密は血液にある。他の生物に見られない細胞が循環器を使って全身を巡り複数のRNAを同時参照、少数派となった情報を次々に訂正した後、なんと実際の形質まで見比べて補修を始めるという。これはあくまで観察の結果に過ぎず、これをどう実現しているのかまではわかっていないとか。HISOの所長がヲタク特有の早口で教えてくれた。

「他人にも効くのか」

「みたい。お父さんが言ってた」

「あいつが?変なことされなかったよな」

 頷いた。自分の中にある奴のイメージは最悪なのだ。まさか実の娘に手は出すまいと…… 最悪とはいえ、吸血鬼のさがとして野蛮な行動に出がちというのはあるから、多少の暴虐には目を瞑るべきなのかもしれないが。

 いやしかし、人の傷を舐めるおじさんのインパクトは強烈だ。

「あーくらくらする……お前どんだけ吸った?」

「がぶ飲みした。子猫ちゃんは存分に抱きつきたもうたよ」

「それはようござんした。……あれ」

 あれ。

 車がない。門の前に停めた車が。

 サイドブレーキは確認するし、車がひとりでに走っていくような音もせず、湿った砂に轍もない。

 そう、轍もない。ひとりでのそれどころか自分が作ったのも、きれいに消えていた。消える瞬間は見ておらず、轍がもともとあったかさえ知らないので、この車は轍を作ったことがあるという事実からの帰納的な考えで、轍はあったと思う。

「……つまりご飯は抜きってことね」

「どんな怪奇現象よりも迷惑で有害だな」

 こんなときどうすればいいか、知っている。現実離れした事象は現実から離れたところで起きているのだから、異界の観察者たるあいつを頼るのだ。

 天を仰ぎ、靄を吸い、

「獏改め天の声ちゃーん!」

 頭上の霧が揺らぎ、ずんぐりした四足歩行の動物をかたどり始める。いつぞやのマレーバクだろうと高をくくっていたが、それはシロサイとして目の前に立った。

「今日はサイの気分か。なんでもいいが、俺達が今いる場所、現実じゃないよな。どこなんだ」

「まったく……少しも自分で考えようとしないで私を呼んで。説教なんてニンゲンに合わないから教えるけれど、この世の主、あなたの後ろにいるわよ。それじゃ」

 振り向いた。向いて、その字面の恐ろしさに気がついた。あなたの後ろに、いる。

 いた。

 赤い、人。赤い背広を着た女性だった。淡い茶色の髪を肩まで下ろして、こちらを向き棒立ちしている。表情は読み取れない。いや、感情を読み取れない表情をしている。

「え、と」

「人間だ」

 「人間だ」。自己紹介として言ったのではないらしい。こちらを見て、呟いた。そんな感じだった。

「ついてきてほしい。嬢ちゃんは、……ここで待っていてくれるかな」

「何言ってる、めちゃくちゃだ。こんなところに子供一人置いていけるわけないだろ」

 右の脇腹に鈍痛が根を下ろす。零花が渾身の正拳突きを見舞っていた。否、彼女にとってあの勢いはジャブでしかない。

「って……どうしたんだよ、血ならあげたろ、!!」

 とっさに女の隣まで退く。放たれた零花のローキックは、人体から聞いたこともないような風切りを携え紙一重で空を切った。

「な」

 笑っている。この序破急の序の急とでも言うべきアブノーマルの中で、この女の頬は緩んでいる。しかしそこについての驚嘆ではない。彼女は、こちらに見せびらかすように、肘から下ほどもあろう手槍を握りしめていた。

 これ以上の反応を見せる余裕もない。零花の体勢がすでに整いかけている。地を蹴り、痩せオタクによる精一杯のタックルをその零花に見舞う。

 吹っ飛んだところを組み伏せた。押さえつけてしまえば力も出まい。

 こんなにも近くで得体の知れぬ感情を受け取っているというのに、彼女の目は自分を見ていないようだった。

「どうしたんだよ」

 女が砂利を踏みしめ近づいてくる。その足取りは場にそぐわず、優雅でさえあった。

「これ。

 あの顔のまま。槍の柄を俺に握らせ、両手で包む。

「おいよせ、何やってる!」

 暴れる人を押さえながら長い手槍をどこかに下ろさないなんて、できるはずもない。なす術もなく、きりをそのまま大きくしたような槍が、零花の左胸郭をすり抜けた。

 慌てて抜こうにも彼女の狂乱が止まらない。自らその傷を広げるようなものだ。

「嘘だ、そんな、」

 引き抜いた。傷は一向に塞がらず、いつの間にかバケツ一杯分ひっくり返したような出血になっている。当の本人も暴れる体力を失いつつあり、無情にもこの腕の中で着実に、その体温を下げていた。

 力の抜けた首を抱き寄せる。もう視線も動かない。血を浴びながら、あえなくも看取ってやることしかできなかった。

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