B-1

 結構な上流であったが、そこからさらに奥へ上ること二十分、それは突然現れた。山の腹に横たわる民家の集まりだ。

「霧……いや靄か」

 レースのように、一帯を靄が覆っている。場所はここで間違っていないはずだが、工場らしい建物は一棟も見つからない。離れるなよ。車を降り、言われて腕にしがみつく。

「待てあんた誰だ、何しに来た」

 この朝に松明を持った親父がさっそく声をかけてきた。田舎の排他思想とはこうも顕著なのだろうか、いやそれに起因する態度ではない気がする。

「車で上ってきただけなんだが、道を間違えたみたいなんだ。すぐ戻るよ」

「……いや、来てくれ。ここの、一応の長に会わせる」

 言い終える前に踵を返し村の奥へ進み始めた。それに二人続く。いつの間にか山を飲み込んでしまった濃霧相手に松明など無力で、先を照らす力は発揮できていない。

「もうすぐだ」

 霧の中、暖色系の、きっと炎の出す光が集まっているように見える。それにだんだん近づいているようだから、きっとそこへ向かっているのだろう。

「絶対悪など偶像だ、我らの家族を侵し殺した奴らにも、妻子があり親がある。袂を分けた今、互いを裁く資格はない!」

 若く、しかし落ち着いた、〝もの知りぬべき〟女の声が響く。

「何を言ってるの」

「一部の奴らが過激な宗教観を持ち始めてな、とりあえず追放したんだ。仲間を傷つけられた奴の報復心をなだめてるところだな」

「隣人を愛せとは言わん。侵した者を、侵したそのときに殺せばよかろうに!」

 一カ所を見る人の塊が現れた。きっと女の方を向いているのだろう。その最後尾についたときだ。

「ん、誰か来たな。みなの後ろだ」

 霧の中でぼんやりと、壇上に立つ女の顔を認めたと同時だった。向こうもこちらを認めたようで、力強くも胡散臭い演説を止め、群衆の注目をこちらに向けた。モーセが海を割ったように群衆は割れ、自分と女の間に道ができる。

「二人……まったくのよそ者だ。大いに歓迎しよう!こちらへ来なさい」

 彼女の言葉とは裏腹に、群衆のほとんどは冷ややかな目でこちらを見つめている。面倒を増やされては困るのだろう。

 ふいに久が彼女の方へまっすぐ歩き出す。臆病な内心から腰の脇差しに手をかけんとしていた私の肩に手を当て、強引に押し出す形で一緒に進まされる。

 辺鄙な村にはとても似つかわしいとは言えない異様な出で立ちだ。肩を少し過ぎる茶色の髪、碧眼に高い鼻…… そして彩度の高い赤のスーツと真っ黒の革靴ときた。しかし立つ台はビールの箱だった。

 進むうち、彼女もそのビール箱から降り、柔らかく笑いかけた。それはたいそう不思議な笑みだった。それまで私たちを見つめていた顔は恐ろしく理知的で、聡明で、何もかもを見透かしたようであったのに、柔らかさだけでなく、ふつう内に秘めるような幼さ、良く言えば無垢な何かがあふれていた。

だ。内輪揉めは切り上げて話をしようじゃないか……うちへ来るといい。朝っぱらのビールは格別のことと心得ておろう?」

「朝っぱらから呑み交わせるほど互いを知らないし、俺は清酒派だ。すまないが、清酒と親交を用意してくれるかな」

 押しつぶされるようなアウェー感に負け、久がよくわからないことを言い始めた。

「はは、楽しい宴になりそうだ。いいかい、先立つ親交も大事だが、酒――ああ、ビールでも清酒でもいい――、とにかく酒で深まる親交を求めてはどうかな?そうだった、信仰ならここにある」

 仰々しく手を合わせお辞儀をしてみせた。そうだ、お嬢さん。君には温かいオレンジジュースがある。山は冷えるからね。

 久にわざとレベルを合わせたであろう微妙なギャグに困っていると、女が久の手を引いてどこか、きっと〝うち〟へ向かい始めた。

「自己紹介がまだだったな。私は……やめておこう。名前を言うとあの信者たちが怒る。……いろいろ呼ばれていてね、〝ミケツカミ〟なんて呼ばれたこともある。ここで農地をいじった後、外れにあるほこらの油揚げを盗んだときだった……ミケツカミは食神でな、きっと彼らにとっては『突然やってきた女が食糧自給問題を解決した後ミケツカミを祀るほこらの供物が消えた』と見えて、それから私をそうだと思い続けているのだろう。まあ、揚げを食うらしい狐は神でなくその使いだがね。信仰とは勝手なものだ」

 崇められているがその信心を突き放すような考えを持っている。

「私は神だなんて自覚はないし、言われて崇められるのはむずがゆかった。だから、毎晩、それぞれの家で抱かれてやったのさ。そしたらなんだ、今度はサキュバスなんて呼ばれてねえ、あっははは」

 君らの話も聞かせてもらおうか。こんな話の後ですまないね。第一印象の逆をゆくような落ちた話で勝手にひとしきり笑った後、そう言ってこちらを見やった。

「子供の前でそこまでかませるとは、あんたクソ田舎に住む素質は十分にあるんだな。後はおじ様方にあんたの肉質を聞いておくよ。……と、俺は越生久、こっちは飛驒零花。どう〝よろしく〟かはわかりかねるけど、とにかくよろしく」

 微妙な洒落にミケツカミだか売女だかが合わせていると思ったがこれはもともとどっちもどっちなのかもしれない。

「えっと、よろしくお願いします。とりあえずこりゃ神じゃないなというのはよくわかりました」

「ああ気に入った!温かい青汁も用意させよう!」

「いやほんとにいらないです」

 さあ着いた。彼女の地位からして、さぞ大きな家に住んでいるのだろうと思い込んでいたが、目の前にあるのはトタンに壁に瓦を乗っけた安っぽい家屋だった。この型を見るたびに疑問に思うのだが、これはいつどうやって建てられたのだろうか。どこのものを見ても劣化の具合が大体同じであることから、同じ年代に建てられたのは間違いないと思う。自分だったらこんなデザインでは建てたくない。

 そしてこの疑問を読み取ったように、女は次のように言う。

「よくもこんな家を私にあてがったものだ。いつか自分の城がほしい……奴ら、人では使い倒すくせに資材なんかをケチるのでな。新しい家など造りたがらんのだよ。市場原理は崩壊したも同然……この安っぽいデザインは昔の流行りだったと聞いた。まったく信じられんな」

 この家、まともなのは土間だけだった。一色のカーペットで覆われた床はなぜかでこぼこで、踏み込むほどひずむようなところもある。ところどころムカデが這っていたりするし、天井の隅には羽虫のビュッフェと化した蜘蛛の巣もある。まるで虫と暮らしているようだ。あの村人どもに人情など感じられない。私たちに向けていたあの目つきを、きっとこの人にも向けていたのだろう。使える人だからこの村に置いておく。そんな感じだろうか。

「こりゃひどい。掃除だけでも手伝おうか」

「いいんだよ。穴ぐらよりはましさ。まあ、穴ぐらが恋しいときもある」

 この人、何を言っているんだ?様々かわいそうな想像が膨らんでいくが、こんな時こそ、変な勘ぐりはやめて情報を随時整理していく必要がある。

「おーい経晴つねはる、鍋と酒、オレンジジュースを持ってきてくれぇ。ああ、経晴っつうのは土屋家の次男でな、厄介払いだろうが、ここで雑用をすることになってる。せめてもの同情として優しくしてやらんとな。そうだ、夜は私というじゃじゃ馬を乗りこなす最高のジョッキーでねぇ」

 にやつきながら両手を前に出し腰を振って見せた。こんな奴がミケツカミと信じられていたのが不思議でならない。本当に、それはもうテーゾクな奴だ。

 ともかく、居心地悪くはない。それどころか妙にアットホームな雰囲気さえ、今には漂っている。

 飲みの準備にかかる経晴という男は、顔は精悍、体格も良く、ここにいる四人の中で一番背が高い。雑用より用心棒にでも向いていそうな人だ。

「ここまでしてもらって本当にすまないが、経晴、君には席を外してもらいたい……申し訳ないな」

 仰せのままに。いつもこんなに恭しいのか、はたまたふざけているのか、そう言って居間から出て行ってしまった。

「さて、これで村の者は消えた。正直なところ、いい顔をするのはとにかく疲れるのだ」

 鍋の主役は鹿だった。真っ赤な肉で、さぞ臭かろうと決めてかかっていたが、それは覆された。脂は嫌いなので、これならいくらでも胃に入る。

「ようやく名乗れるな。私は焔……ミケツカミとか呼ばれる前は焔さんとか、村の者は呼んでおったが、決して人虎伝の官吏ではないぞ」

 でかいジョッキ一杯のビールを滝のように口に流し込む焔とは逆に、久は湯飲み半分の清酒をちびちび啜っている。

「そうだ久、百聞は一見に如かずと言うだろう、私の肉質なら村のおじ様方に聞かんでもわかるんじゃないかい?」

「……酔うの早すぎないか」

「そりゃまだ酔っとらんよ。もうすぐだろうがな」

 いや酒は秒で血管に入るはずだ。なんだか厄介なサケノミの片鱗をちょくちょく見せられる。

 母方の伯父がかつて厄介だった。母と違いいつもは柔和で優しかったが、いつぞや酒に酔ったとき、やたらベタベタとくっついてきたのだ。全力のカンチョー〝涅槃砲〟をお見舞いしたが、今思えば無余涅槃まで持っていっても良かったかもしれない。狭いコミュニティのオアシスだと思っていたのに、心底失望した。

 ……強くさえあれば。焔のように振る舞えるのだ。自分と彼女を対比してそう感じた。

 しかし一歩間違えば、自衛の他に力を使ってしまえば、自分も伯父やあの略奪者と変わらない。

「なあ、オレンジジュースはそんな顔して飲むもんじゃないだろう?」

 ちゃぶ台を隔てた向かいにいた焔が、いつの間にか隣へすり寄ってきていた。面倒くさい酔っ払いの典型みたいな絡み方だが何故か嫌な感じはしなかった。まして初対面の人物だ。

「む。」

「なんだ嫌か。焔は悲しいよぉ」

「そ、そうじゃなくて、えと」

「酔っ払いに絡まれたのに嫌と感じないことに驚いた、かな?そうだな、そういう絡み方というのがある」

 見た目にはできあがっているようだが、口調も言うことも前のそれと変わらない。つくづく不思議な人だ。

 そうだ。焔から感じる強大な力は、パワーでなくカリスマだ。話をリードして、いつでも腹を曝け出し、余裕を醸し出している。心を読んだように話すのは、決まったリアクションを期待して行動することがある、ということだろう。……考えすぎか?

「呑まんとやってられんのだ。ほれ肉を食え、白菜などどこでも食える」

 だん、と物騒な物音で土間が鳴く。焔の融けたような、気の抜けた顔がすっと居直った。

「クソ、面倒だ。演説は聞いておったろう、奴らが来た」

 分離した村人か。扉を叩き割るつもりらしい。

「奴らは人を攫う。君らのことをもう聞きつけおった!裏から逃げろ、捕まれば晩飯にされる!いや昼飯かもしれん!」

 むりやり縁側から追い出された。次いで焔が、扉を破りなだれ込んできた男たちに丸腰で応戦し叫ぶ。

「はは、鍋の具が増えた!シメは入らんな!」

 久と二人で闇雲に走り逃げる。

「このまま車まで戻ろう、あの姐ちゃんも胡散臭い」

 ひとまず身を隠した茂みは、ケシの畑だった。ばかげている。麻薬で信仰を買ったんじゃないのか。

 とにかく畑の奥へ向かう。なんだか焦げ臭い。畑の端が燃えているようだ。この霧の中で、だ。なんだか灯油っぽい。

 風で煙が地を舐める。まずい、と直感したときには遅かった。一瞬でほとんどの意識と視界を奪われる。久は既に昏倒していた。

「こっちに逃げた!息止めていけ!」

 向かってきている。ここにいたらきっと見つかってしまう。久はどのみち私がどうにかできる体格ではない。自分だけでも逃げよう。

 手も足も枷がついたように重い。這うようにして火のある方へ移動する。灯油は燃え尽き、火が今進んでいるのはケシの上部であろうと見た。

 力の尽きるまでに進めたのはほんの数メートルだったと思う。しかしそれでまずは十分だった。久に気をとられ、同じように視野の狭まっている男たちは自分に気がつかず、辛うじて立ちながらあれこれ言い合っている。

 いや気づかないことには別の理由があった。

「災難よのう……あんたさえいれば、まあよしとする」

 焔だ。堂々と踏み入れているにもかかわらず、誰にも気づかれないでこちらへ歩いてくる。まるで違うレイヤーにいるように。

 ケシの煙をものともせず、彼女は私を抱きかかえ、どこかへ歩いていく。そうしてすぐに、意識は諦めた。

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