1-2 始まることがない世界

「……大丈夫ですか?」

 声をかけられると同時に青年が目を覚ます。首が千切れんばかりの勢いで声の方向に振り向くと、青年と同じくらいの年齢の女性がいた。

 その女性はベージュのキャスケットを被っており、そこから長い黒髪が伸びている。顔を隠すように伸びている前髪のせいで表情はあまり見えないが、隙間から見える目元や声の雰囲気で、どうやら青年を心配しているようだった。

「すいません、小さくでしたけど唸っていたので」

「……ああ。そうでしたか」

 額に浮かぶ脂汗を手で拭いながら青年は浅く頭を下げる。目頭を指で抑え、深く息を吐く青年を見ながら女性は持っていた鞄からハンカチを取り出し、青年へと差し出した。

「これ、良ければ使ってください」

 差し出されたハンカチと女性の顔を交互に青年は見る。初対面の人間にここまで親切にするものだろうかと疑ったが、浮かぶ脂汗をそのままにしておく不快感もあり青年は素直にハンカチを受け取った。

「……ありがとうございます」

 もらったハンカチで顔を拭く。脂汗は完全に拭き取られ、青年からは不快感が消え去った。もっとも、一番消し去りたい夢見の悪さは未だ残ったままだが。

「あー……」

 用が済んだハンカチを見て青年がバツが悪そうな声を出す。普通ならば洗って返すのが礼儀だが、返すとなるともう一度会うことになる。知り合い同士ならば問題はないが、二人は初対面。お互いの名前も知らなければ連絡先も知らない。

 他意はないといえ、初対面の女性に連絡先を聞くのはナンパまがいのような気がして、青年は口に出せずにいた。

 相手の女性も青年の意図を汲み取ったのか、「いいですよ、一〇〇均で買った安物なので返さなくても」と、答えてくれた。

「……申し訳ない」

 社交辞令かもしないが、初対面の、それも女性とたかだかハンカチ一枚でやり取りを続けるの面倒だったので青年は言葉を額面通りに受け取ることにした。

 青年はハンカチをポケットに仕舞うと、そこで会話が途切れる。ふと、壁に掛けられた時計に目をやると針はもうすぐ一二時を差そうとしていた。

 白い壁紙に包まれ、いくつかのソファが置かれている待合室には青年と女性の二人しかいない。部屋には穏やかな雰囲気の音楽と、壁にかけられたテレビから平坦な声でニュースを読むアナウンサーの声が流れていた。

「……不眠症、ですか?」

 再び女性に話しかけられ青年は横を向く。少し考えたあと、「はい」と、短く答えた。

「よく分かりましたね」

「目のクマ、すごいですから。私じゃなくても分かっちゃいますよ」

 女性の言う通り、青年の顔には大きなクマがある。

「そんなにですか……」

 青年は無意識に腕を目元に伸ばす。ここしばらくは鏡で自分の顔を確認していないので、どれほど大きくなっているのか青年自身で把握できていなかった。

「いつからですか?」

 それはどちらの意味だろうか。

 青年は考えた結果、両方を言うことにした。

「悩まされるようになったのは大体一年前くらいからですね。で、治療を受けるようになったのは……ええと、年明けくらいから、だったかな」

 青年は不眠症の治療で半年ほど前から自宅から車で一〇分ほどのところにある心療内科に通うようになっていた。

 不眠症に青年が悩まされるようになったのは突然のことだった。

 ある日を境に、青年は奇妙な夢を見るようになった。夢の内容は詳しく覚えてはいないが、誰かを探しているということだけは漠然と分かっている。それだけの夢のはずなのだが、決まって寝起きは最悪だった。

 この夢のせいで夜中に目をさますことが多くなり、加えてその後の寝付きが悪くなる。まとまった睡眠が取れなくなって、日中もうたた寝をしてしまうことが多くなった。そして、そのうたた寝の短い時間でも奇妙な夢は必ず見てしまう。

 寝不足になる悪循環が、見事に完成していた。

 ただでさえ他に悩んでいることがあるのに、更に増えた頭痛の種。一番解決したい悩みは別にあったが、それには治療法がない。そのため、具体的な治療法がある不眠症の治療を青年は優先することにした。

「一年前って……結構放置してたんですね」

「最初はそこまで問題視してなかったですから。それに、当時は他に悩んでいることに目を向けてましたし」

「他のこと?」

 青年はそこまで言って自身が喋りすぎたことに気づく。

 この場所にいるということが女性の方も心や精神に何らかの問題を抱えていることは言うに及ばない。つまりは同属意識。妙な仲間意識が芽生えてしまっていたせいで余計なことまで青年は話そうとしてしまっていた。

「あぁ、いや……何でもないです」

 初対面の人間に話すことではない。

 青年はそう自分強く言い聞かせる。意図せずして想定以上の回転をしようとする口車にストッパーをかけた。

 女性の方もこれ以上は踏み込み過ぎだと感じたのか素直に、「すいません。無遠慮が過ぎました」と、言い引き下がった。

「いや、そんなことは――」

 自分が含みのある言い回しをしてしまっただけ。女性の方には何の罪もない。

 そう伝えればいいだけのことであったが、青年はそれ以上言葉を続けることができなかった。

 脳裏に浮かぶ今までの記憶。そのどれもが苦くて辛い。青年自身の考えすぎが引き起こしたことであり、他者に何の思惑がなかったことは理解しているつもりだったが、それで自分が納得できるかどうかは別の話だった。

「…………」

「…………」

 二人の間に訪れる沈黙。

 互いに気まずさを感じていると、診察室から一人の患者が出てくる。その後すぐに青年の名前を呼び、入れ替わるように診察室へ入るよう促された。

 ソファから立ち上がり、女性に軽く会釈をして診察室へと青年が向かう。女性の方も返すように会釈をしてくれたが、それ以上のコミュニケーションが起きることはなかった。

 ソファの間を縫うように歩き診察室へと青年が向かう。中へ入ると同時に扉は閉められ、待合室の音は聞こえなくなった。

「お願いします」

「はい、そこ座ってね」

 椅子に座り机の上に置かれたパソコンをかじりつくように見ている医師に促されるまま、青年は椅子に腰掛けた。

 診察室も待合室同様、白を基調とした壁紙で包まれていた。部屋の中にあるのは二つの椅子とパソコンが置かれた机のみ。殺風景な部屋ではあるが、患者に余計な刺激を与えないよう病院の配慮だろうか。

 医師はパソコンから目を離さずに、「どうですか?」と、だけ短く青年に尋ねた。

「相変わらずですね。良くも悪くもなっていないって感じです」

 青年も聞かれたことだけ答える。

「そうですか。処方した薬の方は飲んでいますか?」

「はい。飲めばそれなりには眠れますけど、やっぱり途中で起きてしまいますね」

「なるほど。どうします? 量を増やすこともできますが」

 それは睡眠薬の量を増やす提案だった。

「うーん……それは大丈夫です」

 青年自身に睡眠薬に対しての抵抗感はなかったが、申し出を断る。確かに飲めば普段よりかは寝付きが良くなるが、効果はそれだけ。青年を悩ませている夢を見ないほどの深い眠りにはつくことができず、結果として深夜の中途半端な時間に起きてしまうことがほとんど。

 量を増やしたり、処方されている睡眠薬を強いものに変えればもしかしたら夢を見ずに快眠することも可能かもしれないが、青年の本能がその可能性を否定した。

 あの夢を見ないようにすること以外の根本的な解決はない。

 不眠症の治療のためにここに通ってはいるが、実際はこの睡眠薬をもらうために通っているようなものだった。

「そうですか、でしたら薬は今まで通りにしておきますね。他には変わったことはありませんか?」

「いえ、特にないです」

 治療とは程遠いただの現状報告。完治を望んでここに来る患者はこの医師の対応に憤慨するだろうが、この淡白すぎるやり取りが青年にとっては都合が良かった。

「分かりました――では、次回の予約、されていきますか?」

 医師からこの言葉が出たということは、今日の診察が終わることを意味していた。

「いつもどおりに二週間後で。空いてますか?」

「午後の三時からだったら大丈夫ですよ」

「じゃあそこでお願いします」

「では……次回も二週間後ということで」

 医師がマウスとキーボードで操作をし、予約のシステムに青年の名前を入力する。医師は結局、最後まで青年へと顔を向けることはなく、「お疲れさまでした」と、告げた。

「ありがとうございました」

 青年は何の感情もこもっていない声で謝意を述べ、扉の方へと歩いていく。扉へと腕を伸ばした瞬間、医師は青年に声をかけた。

「良ければなんですが」

「……はい?」

 最後に呼び止められたことは初めてだったので、青年は困惑した様子で答える。

「私の知り合いに占い師をやってる奴がいましてね」

 医師がそう言うとパソコンを操作し始め、何やら印刷し始めた。静かな部屋にプリンターが出す音は若干耳障りなものだったが、すぐに音は止み一枚のプリントが排出された。

 そのプリントを手に取ると、椅子から動かずに青年へと差し出す。

 傲慢とも呼べるほどの姿勢だが、青年はそんなことを気にしている様子はない。再び医師のもとまで近寄ると、差し出されたプリントを受け取った。

 そのプリントにはどこかの住所が記載された地図が印刷されていた。そこは青年が住む家からは少し離れた場所にあり、車で三〇分ほどかかる場所。奇しくも、青年が通う大学の近くだった。

「そこでよく見てるっていう夢について相談してみてもいいかもしれません」

「はぁ……」

「私も脳科学に基づいて色々と治療の手段を模索していますが、中にはそれだけじゃどうにもならない患者さんもいます。そういう人にね、ここを教えてるんですよ。私は占いなんて信じちゃいませんが、教えた患者さんからは好評でね」

 医師の口ぶりはどこか不満げな様子。彼なりに精神医療に携わる人間としてのプライドがあるのだろう。

「もちろん、ここに行ったからといって貴方の不眠症も治るとは限りません。ただ、何の手助けにならないっていうこともありません。私からの紹介だって言えば初回は無料で占ってくれると思いますし、行くだけ行ってみてください」

 一方的にそこまでまくしたてると医師は再びカタカタとキーボードを打ち初め、通常業務に戻った。

「……ありがとうございます」

 事態をうまく飲むことができていない青年は戸惑いを隠せない。渡されたプリントを四つ折りにし、ポケットに仕舞うとぎこちなく頭を下げて、今度こそ診察室を後にした。

 待合室に戻り、呼ばれるまで自分が座っていたソファを確認してみる。そこにあの女性の姿もなく、残っている患者は青年のみになっていた。

「お会計、もうできますよ」

 受付にいる若い事務員の女性に声をかけられ青年はそのまま受付の方へと向かう。

「二〇〇〇円になります」

 来院したときに出した保険証や診察券と一緒に、今日の診察代が記載された数枚の用紙を差し出される。

 ポケットから財布を取り出しきっかり二〇〇〇円をトレーの上に置くと、「丁度頂きます」と、事務員がレジに料金を仕舞った。

「……お知り合いですか?」

「えっ?」

 返ってきた諸々を財布やポケットに仕舞っている最中に事務員に話しかけられ、青年は素っ頓狂な声を出す。

「さっき話しているのがここから見えたので」

「あぁ……あの人ですか」

 おそらくあのハンカチをくれた女性のことを言っているのだろう。

「知り合いじゃないですよ。会ったのは今日が初めてですし、話してたのもたまたまです」

「なら……いいんですけど」

 そう言う事務員の表情は芳しくない。

 そこまで大きな声で話をした覚えはないが、最低限の音しか流れていない静かな場所ではある。マナーに反していたか心配になった青年は、「うるさかったですか?」と尋ねた。

「いえ、そんなことはなかったんですけど、その……」

 事務員が言い淀み口をモゴモゴさせている。

 言うべきか否か。

 何かを言おうか迷っていた事務員だったが、やがて言葉を選ぶよう、慎重に話し始めた。

「来てくれてる患者さんにこんなことを言うのは失礼なことは十分承知なんですけど――今日話してたあの女の人、なんというか……少し、厄介なんですよ」

「厄介?」

「プライベートな部分はお話できないんですけど……現実と妄想が入り乱れるっていうか。今ではあまり見ることが少なくなりましたけど、ここに来始めた頃は急に取り乱すことがたまにあったりしたんです」

「…………」

 取り乱す? 誰が? あの女性が?

 青年の頭の中に幾つもの疑問符が浮かぶ。

 今日話した限りでは事務員が話すような印象は全く受けなかった。むしろその逆。まとう雰囲気は穏やかそのもので、とてもではないが人目を憚らずに取り乱すような人物には青年に映っていない。

「私がここで働き出したのと、あの人がここに来るようにったのがほぼ同じ時期なんですよ。だから今があんなに穏やかなのが正直信じられなくて……。快復に向かってるってことですから喜ばしいことなんですけど、私にはそう映らないんですよね。たまたま不発が続いているだけっていうか――」

 事務員はそこまで話すと、慌てたように口を閉じる。

 自分が話したことを誤魔化すように作り笑いを浮かべ、「すいません。今聞いたことは忘れてください。それと、できれば他言無用でお願いしたいです……」と、言いながら深々と頭を下げた。

 個人情報の漏洩も甚だしいところでもあるが、この事務員が自身を案じて忠告してくれたことも青年は理解している。

 そう理解はしていても事務員が話す姿と、今日見た姿がどうやっても重ね合わせることができず、「……分かりました」と、苦虫を潰したような表情で答えることが精一杯だった。

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