28. 誘惑

「エスファ!!」


 森の中から走り続けて、ようやく学院の校舎が見えてきて、北の門が見えてきた。北の森からやっと抜けられる。北の門の向こう側に何人かの女子学生がいるようで、近付くと、私の名前を呼ぶ声で、その中の一人がヴィセだと分かった。

 なんでヴィセが待っててくれたのかな?

 私はそう思いながら、門をくぐり、そのままヴィセに抱き付いた。ヴィセも私を抱き締める。ゴール!

 

「治癒師サマ、顔、アザだらけじゃない」

 色っぽい声にちょっとドキっとして顔をあげると、こないだ、ヴィセを助けてくれたきれいなお姉さんたちがいた。

 その声に、ヴィセが気付いて、ぱっと私から離れて私の顔を見て、くしゃっと顔を歪める。

「何よ、その顔!?」

「そんなのいいよ、ちょっと蹴られただけだから。学院はどうなってる?!」


 私の顔を心配するヴィセを抑えて、今の状況を尋ねた。





 ーーーーー





「お姉さんたちが、ヴィセたちを連れて、北の辺境の街に行ってくれるなら安心」

 私はほっとして、お姉さんたちに頭を下げる。

「そうよ、だから安心して、治癒師サマは学院の大広間に向かえばいいわ」

「おっけ、頼んだからね」

「私、行かないから!」

 ヴィセが私とお姉さんたちの話の腰を折った。

「お姉さまたちは、先輩方を連れていって下さい。私はエスファに付いていきます!」

 最近のヴィセ、ちょっと強気すぎる。

「ちょい、ヴィセ、何言って」

「了解、気を付けて付いていくのよ、相棒ちゃん」

 お姉さんたちが、ヴィセを止めようとした私の邪魔をする。

「治癒師サマ、相棒ちゃんは自分の決めたことを押し通すわよ」

 お姉さんの笑顔がなんだか意味ありげだし、こうと決めたヴィセをひっくり返すのは難しそうだし。


 ああ、もう考えるのも、ヴィセを止めるのも面倒くさい。そんな暇なんてない!


「ヴィセ、私、先に走ってく。待たないから。勝手にしっかり付いてきて。転んでも知らないよ」

 ヴィセが笑顔でうなずいたのを見て、私は走り出した。

 私の方が圧倒的に足が速いので、ヴィセが簡単に付いてこれないことは分かってるけど、絶対、待たない。


「治癒師サマ、頑張ってね」

 後ろから聞こえたお姉さんたちの色っぽい応援が、なんか雰囲気に合ってなくて、私は走りながら笑ってしまった。


 


 ーーーーーー




 北側の門から北棟の校舎に飛び込み、廊下を走る。

 目指すのは、中央棟だ。


 校舎の中が予想外に静かで、少し驚く。

 人の気配が全くない。


 誰もいないのかな


 と思ったが、大広間が見えてくると、そこに大勢が集まっていることに気付いた。


 大広間に飛び込めば、たくさんの学生たちで広間は一杯だった。よく見ると、先生たちや用務員さんたちも混じっている。

 みんなうつろな顔をして立っているだけだ。

 声を掛けても反応がない。多分、叩いてもひっくり返しても反応しなさそうだ。

 

 アンラート様たちのいる上の階層に上がる広間の中央奥の大きな階段の周辺には、ロヴィーの部下の兵士候補生たちが倒れている。

 顔色が悪いので死んでいるかもと思って焦ったが、気を失っているだけのようだ。

 けがはない。


 ああ、これ、戦場で見た。

 風の魔法を使って、その周辺の空気を薄くして、酸欠にして気絶させるヤツだ。

 そんな魔法の使い方をする魔法師がマリーンの他にいるわけがない。


「…やっぱりマリーンなんだ」


 そうつぶやくと、ずんっと胸が重くなり、鼻がつんとして、泣きたくなった。

 けど、泣いてはいられない。

 私は、アンラート様の部屋がある上の階に続く階段に目を向けた。





 ーーーーー





 階段に駆け上がろうとした時だった。


 どんっという爆発音と強い振動があって、階段の上の方に真っ赤な炎の影が見えた。そしれから、瓦礫が崩れ落ちる音と振動も伝わってきた。

 炎の魔法が使われたのだとすぐに分かり、私は上をうかがいながら、そろそろと階段を登り始めた。




  

 ーーーーー




 王族専用のフロアは真っ赤な炎に照らされていて、熱風が顔に当たって熱かった。

 階段から少し離れたところにマリーンが立っていた。


 マリーンの背中側には炎の柱が立っていて、その上、天井に大穴が空いていた。

 そして、マリーンの視線の先には、剣を構えるロヴィーとしゃがみこんでいるアンラート様がいた。

 そこに倒れているのは侍女のセレーサさんだろう。


 なんだ、この状況?


「「エスファ!」」

 ロヴィーとアンラート様が私の名を呼ぶ。


 それに答える前に、私は、マリーンにつかつかと近寄った。

「マリーン!!わけわかんないんだけど!!」


 マリーンは振り返るようにちらっと私を見て、にたっといつものように笑った。

 本当に、いつもと何も変わらない笑顔だった。


「さっきはゴメンね。あの女、おとなしく操られてくれなくてさ。だいぶ顔腫れてるじゃん」

 あの女とはフリチェーサだろう。忘れていた顎の痛みを思い出して、顔をしかめてしまう。


「やっぱり、マリーンだったんだ」

「魔法を使ったのはね。蹴ったのは私じゃないよ。私は、ちょっと時間稼ぎ的に話をしたかったのに、あの女、エスファを殴りたくて仕方なかったみたいね」

「そんなのもうどうでもいいから、何がどうなってるのか教えてよ!」

 

 私がマリーンの腕を掴もうとすると、マリーンがすっとそれを避けて、私の腕をさばくようにして体勢を崩すと、そのまま私をロヴィーの方へ突き飛ばし、さらに風の魔法でロヴィーのところまで転がした。


「わっわわわあ」

 受け身を取ったものの、ごろんごろんと床を転がされた私はロヴィーの足元にみっともなく倒れ込んだ。

「ってええ」

 転がされた痛みに声をあげながら上半身を起こすと、顔に手が触れた。

 アンラート様だった。


「ひどい顔よ、エスファ」

 え?私、不細工になりましたか?じゃなくって、

「ああ、アザですか。さっきフリチェーサ様にさんざん蹴られましたからね」

「「フリチェーサ?」」

 アンラート様とロヴィーが驚いている。そうだよね、なんでフリチェーサ様に私はあんなに蹴られなきゃならなかったんだろう。


「エスファ、ややこしい話は後にして、私の話を聞いてよ」

 マリーンの声に、私たちはマリーンに視線を戻す。



「エスファ、アンラートを連れて、この国を出な」


 ?????


「アンラートと二人で幸せに暮らしなよ」


 マリーンの言葉に顔がかーっと熱くなる。

 アンラート様と?





 想像しなかったと言ったら嘘だ

 アンラート様がお輿入れを取り止めるとか

 アンラート様と二人でこの国から逃げるとか


 そうすれば、

 ずっと、この人を抱き締めていられるのだ


 この人を私が独り占めする


 誘惑


 私は、この言葉を初めて理解した。





「エスファ」


 アンラート様に呼ばれて、振り返って、その顔を見詰める。

 アンラート様は、悲しそうな顔でかぶりを振った。

 そうだよね、あり得ない。


 マリーンをもう一度見た。 

「私、そんなことしないよ、マリーン」

 私がそう言うと、マリーンが目を細める。 

「エスファ、あんたがこの国から逃げないなら」


 マリーンが両腕を広げて掌を天井に向ける。

 右手に氷の柱、左手に炎の柱。

 しゅうしゅうという音。 

 火柱に水柱が螺旋のように絡み、水蒸気がもうもうと上がり、先の火柱が空けた天井の穴に向かっていく。

 炎と水の螺旋 

 マリーンがよくやる手遊びだが、こんなに大きなのは初めて見た。


「逃げないなら、この学園をぶっ壊して、大広間の全員ぶっ殺す」

 マリーンが階段を顎で指す。階段の下の大広間には、大勢の学生や先生たちがいる。


「嘘じゃないよ」


 マリーンの左手がゆらっと揺れるように、私たちに向けられた。




 ーーーーー




 それは、一瞬。だから私は動けなかった。


 マリーンの左手の炎が迸るようにロヴィーに向かって細く長く延びた。

 ロヴィーでなければ、多分、体の真ん中を突き破っただろうが、とっさに避けたので、炎はしなりながらロヴィーの右肩を右腕ごと弾き飛ばした。

 信じられないというようにロヴィーが大きく目を見開いている。

 さらに、もう一本の炎が鞭のように延びてきた。ロヴィーはそれも完全には避け切れず、炎はロヴィーの右側の腰を深くえぐった。

 ロヴィーの右足ががくんと折れ、ロヴィーはそのまま、そこに崩れ落ち、セレーサの隣に倒れ込んだ。



「ロヴィー!!!」

 私は叫ぶ。     

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