27. 幸せにしてあげたい

 アンラートが自室の扉から顔を出したときだった。

 1階の大広間から、叫び声や鎧の音がして、何人もが倒れた気配がした。

 大広間にいる大多数の者ではなく、主に階段を守っていた精鋭部隊の者たちが倒されたのだろうとロヴィーはすぐに勘付いた。

 ロヴィーが1階の大広間からつながる大きな階段を振り返った。

 そのときには、ロヴィーに付いてきた兵士候補生が階段を掛け降りていた。


「が…っ」

 小さな叫び声

 階段を転がり落ちたであろう鎧の音


 ロヴィーが階段を向いて剣を構える。

「部屋に戻って下さい」

 ロヴィーの指示に反応して、侍女のセレーサがアンラートを庇うように部屋に戻す。アンラートは何事かと部屋の中から階段を覗こうとしてたが、多分、何も見えなかっただろう。 

  

 階段を上る足音が聞こえてきた。

 アンラートの部屋のあるフロアに上がってきた者がいた。

 

 壁に映る影は一人


 その影の形も、その影の発する気配がよく知っているものであることにロヴィーは既に気付いていた。

 この3年間、学院でも戦場でも背中を預けてきた。

 誰よりも信頼し、尊敬してもいる。

 これからも一緒に戦いたいと思っている。

 思っている


「…マリーン…」


 ロヴィーが絞り出すように、その名を呼ぶと、

「やあ、久しぶり」

 マリーンがいつもと変わらない、にたにたっとした笑顔を見せる。

 せっかくの整った顔をを台無しにする笑い方だと昔から思っていたが、底知れないと思ったのは初めてだった。

 

 ロヴィーは後ずさった。

 戦略以外で、恐怖で、後ろに下がったのは子供の頃以来だった。

 4年前、出会ったばかりのときに、マリーンと決闘して死にかけたことがあるが、その時もその後もマリーンが怖いと思ったことはなかったのに。

 見た目は何も変わっていない。

 でも、何かが決定的に違ってしまっている。自分の知っているマリーンとは違うとしか感じられない。

 ロヴィーは頭を振って、アンラートを守らなければと思い直し、剣を握り直す。


 アンラートの部屋の前に立ったロヴィーは、階段を上ったマリーンと対峙する。幅の広い廊下であるため、二人の間には両手を広げた大人10人分の距離がある。

 ロヴィーは、マリーンに剣を向ける。剣先がかすかに震えていた。


「マリーンなの?」

 アンラートが扉の内側から声を出す。


 その声はマリーンにも聞こえていた。

「そうだよ」

 マリーンはアンラートに敬語を使わなかった。

「大丈夫、アンラートを殺したりしないよ。部屋から出てきなよ」

 さらに、アンラートを呼び捨てにした。

「……誰もいないんだし、子供のときみたいに話したっていいよね」


 少しだけ扉が開き、アンラートが部屋から出ようとすると、セレーサがそれを押し止めようとしていた。

「姫様、いけません!」


 マリーンの左腕が上がる。

 ごうっと激しい風が起きて、扉が弾かれるように開き、いきおい飛び出してしまったセレーサを風が襲い、吹き飛ばす。

 セレーサがもんどりうって転がる。何回か床に体を打ち付けた。

「うぅ…っ」

 うめき声がする。死んではいないが、動けなくなったようだった。

「セレーサ!!」

 アンラートが部屋から飛び出してセレーサに駆け寄り、しゃがみこんで何度も名を呼ぶ。

「…ひ…め…さま、お逃げくだ……」

 セレーサは意識を失った。

 

 倒れたセレーサの前にしゃがみこむアンラート。

 その前にロヴィーは立った。

 マリーンは階段から少しアンラートに近付いていたが、セレーサが吹き飛ばされた分、マリーンとロヴィーの距離は倍に広がっている。

 マリーンは、アンラートを傷つけないと言ってはいるが、この状況で、その言葉を丸々信じることは難しい。

 ロヴィーはマリーンとの距離を図る。

 走って間合いを詰めるには遠い。剣を思い切り投げ付けることはできるが、それより先にマリーンが自分ごとアンラートを簡単に魔法でほふることができる。

 ロヴィーの背中を冷たい汗が伝う。

 マリーンに隙ができない限り、距離は変えられない。


「マリーン、あなたは何がしたいの?」

 

 マリーンに向けられたアンラートの声は落ち着いていた。さすが王族だ、とロヴィーは思い、少しだけ安心する。

 

 その声にマリーンのにたにた笑顔が消えた。少しだけ目を細めて、マリーンはアンラートを見詰める。


「あなたを自由にしたい」


 ?

 アンラートもロヴィーも困惑する。


「幸せになりなよ」


「もうすぐ、エスファが来る」


「そうしたら、二人で王国を捨てなよ」


「エスファの力があれば、どこに行っても大丈夫」


「こんな国のために生きて死ぬなんてやめて」


「アンラートもエスファも自分の幸せのためだけに生きて」


 マリーンが穏やかに笑った。

 その笑顔が現状には不釣り合いだった。


「…あなたの言っていることが理解できないわ、マリーン」

 アンラートの声は怒り混じりだったが、いつものように優雅で、少しゆっくりで、はっきりしている。

 ロヴィーも我に返ったかのように、剣をマリーンに向ける。


「マリーン!」

 アンラートがその名を強く呼ぶ。

 マリーンは肩をすくめる。

「難しいことは何も言ってないさ。アンラート。エスファと二人でこの国を出て、幸せに暮らすといい、それだけだよ」


「…幸せに、ですって……」

 アンラートが苦しそうに眉をひそめた。


 アンラートはエスファに口づけた瞬間を思い出した。

 それを幸せというのなら、その時が最も幸せな時間だった。

 ずっとエスファとこうしていたい

 それは、かなわないと知っている、夢でしかない夢。

 やっとエスファを抱き締められたばかりなのに、もうすぐ、離ればなれになる。

 そうすると決めていた。


 王女としての覚悟が初めて震えるのをアンラートは感じたが、しかし、その覚悟は揺らがなかった。アンラートはマリーンを見詰め返す。


「あり得ない」

 アンラートはマリーンの言葉を毅然として否定する。


「そう言うと思った。だから、真面目な王女様が決断しやすくしてあげるよ」

 マリーンが再び、にたっと笑った。

 マリーンが両腕を翼を広げるようにばっと広げた。


 どおんっという轟音が響き、建物全体が揺れた

 マリーンの後ろに大きな火柱が立っていた。 

 その火柱によって尖塔につながる高い天井に穴が空き、瓦礫が落ちてきた。

 マリーンの後ろの炎の柱が壁と屋根の一部を破壊したのだ。


「大広間にいる学生たちがみんな焼け死ぬよ。学院も崩壊させる」

 

 アンラートは、マリーンが戦場で作り出す炎の柱を初めて間近で見た。とてつもない熱が頬に当たるのを感じた。


「アンラート、あなたがエスファと逃げれば、彼らを殺したりはしない。あなたは幸せになるし、彼らは生き残る。少し壊しちゃたけど、学院も無事。ね、何も問題はないじゃない」

 

 マリーンの声は、不思議なくらい優しかった。


「アンラート、あなたには幸せになってほしい」  

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