ゴールへ向かって
65億円……シミュレーションで出た、10月末日までの経常利益の数字だ。
「やはり下方修正か……」
広瀬が力なくなげく。
これくらいの数字になるとは分かっていたものの、現実に目の前に見せられると、篠塚も肩を落とす。
「いいように考えましょう。この騒動が始まった最初の頃は契約企業は何万社もありませんでした。しかし皆の奮闘があればこそ、ここまで登ってこれたんです。それを思えばたかが8億円のぶれです。来期は間違いなく73億円以上です。みんな前を向きましょうよ。経常利益なんて……まてよ経常利益?」
その時、篠塚は川崎のことを思い出した。あれから1ヶ月で100万円を180万円に増やして試験に合格し、利益剰余金から10億円を渡し、運用を任せていたのだった。篠塚は、席を外し川崎のところへとんでいく。
川崎のデスクにいくとにこにこして出迎える。
「やあ、久しぶり。今現在運用益はどうなっているんだ」
「10億円を22億円にまで増やしましたよ」
「何だってー!よかった。よく頑張った!」
篠塚は川崎の背中をバンバン叩いた。
「役にたったでしょうか?」
「たったもなにも、これで一気に経常利益73億突破だ!しかもおつりがきたよ。下方修正を出さなくてよくなった。ありがとう。そしておめでとう!君はこの会社になくてはならない人材になった」
「そう言われると嬉しいです!」
川崎がてれ笑いをした。
経常利益は、本業の儲けである営業利益に、投資の収益やその他もろもろの雑費を差し引きした数字だ。つまり65億円が一気に77億円に膨らんだ訳だ。
「臨時ボーナスで1000万円くらい出すように部長にかけあってみよう! 約束はできないがな」
「ありがとうございます!」
「ところでいまどの株を買ってんの?」
篠塚は、ひそひそ声になる。
「A社とB社と……C社を回転させてます。特にC社は、値幅が限られているので回転が簡単なんです。ボリンジャーバンドを使っているのですが……」
「あー分かった分かった。まねするのが無理だと分かった」
「簡単ですよ」
「いや、才能だよ。そのスキルに自信を持ちたまえ」
「はい!」
自分のスキルがある人間は強いな。篠塚は、川崎をまぶしい目で見ていた。自分には、積み上げてきたキャリアなどほとんどない。いろんな部署をたらい回しにされてきたが結局簡単な広報の万年主任に就いて、もう10年以上が経った。
(これで経営企画室に入れるかな……)
経営企画室の平均年収は1300万円と聞く。いま現在の篠塚の年収は730万円。未知の仕事に就きたいというのもあるが、やはりこの年収が欲しいというのが本音だ。
自分の売り込むところは何か。この一年ずっと
それから篠塚は、家に帰ってもテレビなど見ずに書斎にこもり、SaaS関係の本を買い込み勉強に明け暮れた。
のぶえが心配してお茶を持ってくる。
「何をそんなに勉強してるの?」
「んん? SaaSってやつについて体系的に勉強しているんだよ。もしかして昇進するかもしれないからな。必須のスキルだ」
「昇進!あなたからそんな言葉が出るなんて。でも無理はしないでね」
「ああ、分かってる。それよりラーメンが食いたいな。作ってくれないか」
「わかりました。にんにく入り?」
「もちろんだ」
たわいのない会話をして、篠塚はまた本を読み始めた。
人事異動の季節になった。社員達が掲示板に群がっている。篠塚はそれを掻き分けながら最前列に出た。
「◯月◯日をもって、総務部広報課課長、広瀬昇を経営企画室、室長代理に任ずる。」
(何だって……)
篠塚は息を飲んだ。やはり広瀬には実力ではかなわないのか……
がっくりと肩を落とし、その場を去ろうとしたその時。
「主任、主任!ありましたよー主任の名前が!」
少し離れたところにいる佐藤が篠塚を呼んでいる。
「なんだなんだ」
「◯月◯日をもって、総務部広報課主任、篠塚忍を広報課課長に任ずる。」
「やった。あった。出世した!わはは」
「御出世おめでとうございます!」
佐藤が頭を下げ、共に喜んでくれた。
次の日長野部長が他の総務部の栄転した二人と共に、ささやかながら祝賀会を催してくれた。
「まずは、最も花形の経営企画室室長代理に任ぜられた広瀬君に乾杯!」
皆がビールジョッキをガチガチ合わせる。
「次に広告宣伝部の課長になった池崎君だ」
またもや、ジョッキを合わせる。
「同じく第二営業部部長補佐になった美濃くんにエールを」
またまた、ジョッキを合わせる。
「そして最後にまさに名前の如く忍びに忍んできた、篠塚忍くんに乾杯だ!」
「おめでとうございます篠塚さん!」
ビールジョッキがひときわ大きく鳴らされた。
篠塚は、素直に喜んだ。
「次は万年課長を目指すよ」
自虐的なジョークで笑いをとった。
そしてそれぞれビールを口にした。
「ごくごく……んー、うまい!」
実は人事部に篠塚を課長に推したのは誰あろう長野部長その人だったのである。彼はこの一年の篠塚の奮闘を非常に評価していたのである。そして篠塚が経営企画室に配置替えを望んでいることも。
しかし優秀な人材がそろう経営企画室では使い物にならないだろうから、広瀬を経営企画室に、空いたポストに慣れた篠塚を配置するように進言したのだった。
そんなことはつゆ知らず、早くもご機嫌になった篠塚が「課長だぞ、課長」と佐藤に言うと、「俺も課長ですよ」「俺は部長補佐ですよ!」「わははは!」など、皆が
喜びも相まって会話も弾む。
「飲むのはこれくらいでいいから早くカラオケに行きましょう。ねぇ部長」
「ははは、美濃はカラオケが好きだなあ。よし俺も歌うぞー!」
人にはそれぞれ与えられた役割がある。嵐山はそれを運命と切り捨てた。しかし、本当にそうだろうか。生きる姿勢が運を呼びこむのではないのか。あの日河原田部長に嘘のIRが書かれた書類を手渡された時から、篠塚の停滞した運命が回り始めたのだ。その運命の歯車は、いつ、どこから飛んでくるか分からない。が、生きる姿勢を前向きにしていれば、どんな苦難でも乗り切っていける。篠塚は最近そう思うようになった。
篠塚の番が回ってきた。歌う歌は美空ひばりの「川の流れのように」だ。
完
篠塚の沈黙 村岡真介 @gacelous
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