希望的観測
篠塚は社員食堂で昼食を取っていた。
昨日ののぶえの言っていた言葉が気にかかっていた。
(シミュレーションかぁ、経常利益のシミュレーションとかしてるかな。経理部で)
後で経理部へ行って調べよう。結論が出て、箸の進みが速くなった。
確かに一筋の光明はある。DX(デジタルトランスフォーメーション)とSaaS関係の専門家をヘッドハンティングし、社長の肝いりで今年の1月から始まったこのSaaSクラウドシステムサービスの利用企業数は、みる間に増えていった。
営業などをかけずにSaaSの業務効率化、クラウドシステムの圧倒的な利便性や安全性などをオンラインセミナーという形をとって
これを不動産業者一件一件営業をかけていったらここまで膨らんでいまい。だいいち営業部員が圧倒的に足りないし、効率が悪すぎる。オンラインセミナーという形を取っているからこそのこの数値だ。ビジネスモデルの勝利である。
もちろん来期の4月まで無料という仕掛けも戦略的勝利ではある。この方法が
この戦略を取っているのには訳がある。不動産業界の圧倒的なシェアを確保することが目的なのだ。二番手ではだめなのだ。
覇権争いは、規格争いでもある。不動産業者も、安易に安いからといって他のシステムを導入すると、システム・ギアのSaaSと規格が合わず、取引き先と綿密な情報交換さえ難しくなり、最悪システムを総取っ替えしなければならなくなるかもしれない。なので業者のほうも覇権を握るのはどのシステム会社のサービスなのか、まだまだ様子見なのである。まるで一頃にあった「ビデオ戦争」のように。一社が優位に立つと皆がその規格になびいた商品を開発してくる。そして、覇権を握った企業は一人勝ちとなるのだ。
だからこそ追い討ちを仕掛けてきているBCテクノロジーズの存在が邪魔なのだ。
難しい局面に立っている。
が、オンラインセミナーを開けば、数万の業者が参加してくる。希望はある。今やこの分野では事実上のトップランナーと言ってもいい。SaaS利用企業数の爆発的な増加が、それを示している。
しかしそれでもまだ3万社。中間目標の5万社には程遠い。
「シミュレーションデータを見せてくれ」
篠塚は経理部へ行き、そこの女子社員のパソコンを借り、利用企業数ごとの来期の経常利益のデータは出るのか聞く。
「出ますよ。利益予想のたびにしてますから」
簡単に言ってのける。
3万社、4万社、5万社……
女子社員が篠塚の指示に従い、あわただしくパソコンのキーを叩く。
10万社……出た! 73億1千万円の経常利益。
篠塚は舌を巻いた。のぶえの的確な指摘にである。
全くのでたらめで73億円という数字を出してきたわけではないのだ。無料期間が終わる来年の4月までに、10万社の囲い込みに成功した場合の数字だったのだ。
ビッグプロジェクトである。売上高でなく経常利益ベースでこの数字だ。
しかしそれはあくまでも10万社を囲い込んだらという希望的観測に過ぎない。
日本には、およそ12万社の不動産業者があるという。そのうちの約8割強を囲い込むなど夢物語ではないのか。そうした不安が篠塚の胸に去来する。
他の会社のシステムをすでに導入している業者もあるだろうし、そもそもDXそのものに関心を示さないところもあるだろう。
紙の書類文化に慣れきっている業者は、腰が重いであろう。そうした業者にこそ売り込んでいかなければならない。厄介な仕事が広報課にものしかかる。
今年、政府で「デジタル庁」が開設された。DXの推進でペーパーレス化をなかば強引に推し進めている。社長の
右へならえの日本企業だ。我も我もとDX化を進めていった。もちろん不動産業界も例外ではない。この大波に乗らないと生き残れないと、まことしやかにささやかれている。
しかしやはり仮の予想でしかない。思い切り息を吸って、吐きながら肩を落とす。
決算発表は明後日だ。俺はこのプレッシャーに耐えきれるのか。しかしやるしかない。これは俺の使命だ。篠塚はそう自分に言い聞かせた。
篠塚は沈黙を守っている。何かを抱えているなと感じた広瀬課長が、声をかけてくる。
「篠塚さん、今日は飲みに行きませんか」
「いいですね、お供しますよ」
広瀬は、一世代下の上司だが、人当たりがよく腰もひくく、強いリーダーシップを取るタイプではないが、人のやる気を起こさせる天才である。若くして課長に抜擢されたのもうなずける人格者だ。
二人は新橋の焼き鳥屋でビールで乾杯する。空きっ腹にビールを流し込むと胃の腑にしみる。
二人は適当な会話で時を過ごす。焼き鳥がうまい。ビールが進む。広瀬に全てを明かしそうになるのをグッとこらえ、広瀬の人生観などを聞いている。
「なにか抱えていることがあるんじゃないんですか。よかったら相談に乗りますよ」
そう聞かれ思いだした。あの時なぜ河原田は、課長の広瀬ではなく自分に言ってきたのか。広報課の責任者は広瀬である。なのになぜ。
(もし顧客獲得に失敗したら、俺に全責任を取らせるつもりか!)
「篠塚さん、篠塚さん」
はっとした。広瀬が心配そうに肩をゆすっている。考えごとに没頭し一人の世界に入っていたようだ。
「あ、ああ」
思わずよろけ、椅子から転げ落ちそうになった。
広瀬は、笑いながら肩を押さえる。
「大丈夫ですか?」
「ちょっと酔ったかな、はは」
「何か隠しているでしょう。私でよかったらいつでも相談に乗りますよ」
「ありがとうございます」
広瀬は勘定を頼んでいる。
「割り勘でいきましょうよ」
「いいんですよ。篠塚さん、高校生のお子さんがいるんでしよ? 一番お金がいる時じゃないですか。お金は、その子に使ってやってください」
篠塚は、頭を下げる。
「ありがとうございます。ご馳走さまでした」
二人はそこで別れた。篠塚は、去っていく広瀬の背中をずっと見ていた。
ついに決算発表当日になった。後場が終わる午後3時ちょうどに発表される、パソコン上にある決算の数値を見てみる。やはり獲得顧客数は、3万社で計算された数字が並ぶ。
2時45分。篠塚は、添付資料の数値を知られることなく10万社をベースにしたシミュレーション結果の数字に置き換えていく。
だれもが別の仕事をしていて、期初予想が改ざんされているとは思ってもいない様子だ。
「今後の見通し」のページは、あらかじめ用意していた文章にさしかえる。もちろん10万社の顧客をいかにして囲い込むか、その手法までさらし、文章に説得力を持たせたものだ。
パソコンを操作する手が震える。なかなか書き換えが上手くいかない。篠塚は、深呼吸をし、最後の数値、経常利益、73億1千万円をやっとの思いで入力する。
オフィスは静かだ。この業績予想の全責任は自分にのしかかる。3時まであと3分。やたら長く感じる。
10、9、8……
……3、2、1、0。
市場の後場が終わったのを確認し、篠塚は、エンターキーを押した。
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