篠塚の沈黙

村岡真介

嘘のIR

「部長、これはいくらなんでも……」


 総務部広報課の主任、篠塚忍しのづかしのぶは広告宣伝部部長、河原田良孝かわはらだよしたかCMO(チーフ・マーケティング・オフィサー)から手渡された書類を見つめてうめくようにつぶやいた。


「業績予想だ。予想だよ、予想。予想なんだからある程度の幅があったって法律に触れやしない。とにかくお前は言われた通りに本決算発表と同時に、この期初予想(来期の業績予想)をプレスリリースすればいいんだ。分かったな!」


 各企業は普通、本決算の発表と同時に来期(来年)の業績予想を求められる。投資家達はそれを見て来年もその企業に投資をするかどうか決める大事な情報なのだ。


「これを発表するのはさすがに反対いたします」


 篠塚の必死の抵抗に河原田は語気を荒げる。


「とにかく取締役会で決まったことなんだ。お前の意見なんかどうでもいい。業務命令だ。いいな!」


「そ、そんなあ……」


 河原田は、すたすたと出ていった。


 篠塚は力なくまた書類に目を落とした。夜遅く、がらんとしたオフィスの中で。




 2020年、実業界に激震が走った。


 2022年の4月から、東証の上場区分が変わると発表されたのだ。


 これまでの東証1部、東証2部、マザーズ、ジャスダックという区分から、「プライム市場」「スタンダード市場」「グロース市場」へと一新されるのだ。


 プライム市場の上場維持基準は、株主数800人以上、流通株式数2万単位以上、流通株式時価総額100億円以上、流通株式比率35%以上、純資産がプラス、などなどとなっている。加えて、社外取締役の割合や取締役会の多様性、気候変動対策に対する情報開示などについて、従来よりも厳しい注文が付く方向だ。


 篠塚が務める会社「システム・ギア」は今現在東証1部に上場している大企業だが、経理部が様々な数値を検討した結果、他の基準は全てなんとかクリアしているのだが、時価総額だけが、全く基準に届いていないという。時価総額というのは、「株価×発行済株式数」で計算されるもので、その企業の規模を示している数値といえる。プライム市場に上場できないと一大事だ。東証1部から転落したと同等な意味を持つであろう。


 システム・ギアの発行済み株式数は、41,636,240株。流通株式比率35%以上というのは、つい一月前「立会外分売 (立会外分売とは、取引所における取引時間外に、上場株式のまとまった売り注文を小口に分けて、不特定多数の投資家に売り出す売買方法のことをいう)」を行使してなんとかクリアしたのだが、いかんせん株価が低い。万年150円株と揶揄されている低迷二流システム企業なのである。




(経常利益3億円の会社がいきなり73億円企業に化けるわけがない……)


 篠塚は自宅で風呂に入りながら頭を抱えていた。部長の命令は絶対だ。あらがうことはできない。


 確かにこの業績予想を出せば、ストップ高につぐストップ高は間違いない。株価はおそらく1000円を軽く超えてくるだろう。時価総額も一気にアップし、プライム市場の基準を満たすことだろう。


 しかし明らかな嘘の業績予想を出す罪悪感が篠塚を突き刺す。


 鏡で自分の顔を見てみた。目尻には小皺が目立ち始め、口元も全体的に垂れ下がった印象だ。53歳で万年主任。同期はもっと出世しているのにと自分を笑う。


「あなたー、まだあがらないのー?」


 妻ののぶえが声をかけてくる。


 篠塚は、風呂からあがり部屋着を着た。台所に行くとたっぷりのホイコーローが大皿に盛られていた。あとはサラダと、漬け物が少々。


「どうしたの?顔色が悪いわよ」


「会社でな……いや、なんでもない」


 気がかりなことがあっても腹は減る。妻のお手製のホイコーローを頬張る。少し辛めの飯によく合う味だ。


 今日はビールはなしだ。疲れていたので早く寝たかったのだ。


「旨かったよ」


 そう言うと、のぶえは嬉しそうな顔をした。


 篠塚はそのまま寝室に行き、ベッドに倒れこんだ。




 会社内の自動販売機でコーヒーを買う。ふと横を見てみると同期の嵐山圭介あらしやまけいすけがこちらに歩いてくる。


「よう」


 嵐山は屈託くったくもなくあいさつをしてくる。


「ああ」


 なんとなくそんな返事をする。しかし嵐山は、いまや第一営業部部長である。同期の出世組だ。しかし二人きりで話す時にはフランクにしゃべる間柄だ。


「なんか問題抱えている顔してんな」


 こういうところは鋭い。営業でつちかったスキルであろうか。


「大問題だ」


 篠塚は、書類を嵐山に見せる。


 嵐山は書類を見ながらくぐもった声を出す。


「こ、これは……」


「大問題だろう?決算発表は3日後に迫っている。しかし明らかな嘘のIRを出すと、最悪株価操縦になりかねない。その責任者は、IRを出した俺ということになる。へたすりゃお縄だ。ギリギリのところに追い込まれているって訳さ」


「これよりもう少しだけ低い数値を出したらどうなんだ。そうすればおそらく来期の10月までに7万社には届くだろうから、あるていど現実的なところだと思うんだか」


「いや、株価がどの程度になるか分からない。どうせやるんなら余裕を持たせるためにも圧倒的な予想数値を出してプライム基準を満たさなきゃならない」


 嵐山が篠塚の肩に手を置き静かに問う。


「腹はくくってんのか」


「そのつもりだ」


「じゃあ思った通りにやるだけだ。俺がバックアップできることがあればなんでも言ってこい。できる限りのことはしてやる」


「ああ、ありがとう。しかし変だな。前はそんなこと言うやつじゃなかったのに」


 嵐山は笑いながらのたまう。


「余裕ができたんだよ。部長の位置からでしか見えない景色がある。万年主任のおまえには見えないものだ」


 篠塚は、少し悔しく思いながら同意をする。


「そんなもんか……な」


「世の中は不平等だ。肩書きや役職によって見える景色はすべて違う。これも運命でしかない。頑張れよ」


 そう言うと嵐山は缶コーヒーを飲み終え、去って行った。




「さっきからため息ばかりついているわよ、あなた」


「うん。そうか……?」


「会社でなにかあったんでしょう?私に話してみてよ」


 妻とは、会社で知り合い結婚した仲だ。会社内のことも仕事のこともある程度は知っている。篠塚は思いきって妻に話すことにした。


「……という訳だ。明らかな株価操縦だ。もうどうしようもない」


 篠塚は頭をかきむしる。


「でも新しいそのDXなんとかっていうプロジェクトは、凄い利益を生むんでしょう?」


「まあな、ストック型ビジネスだから、入会企業が多ければ多いほど莫大な利益を生む。しかしな、だからこそ新規参入も多くてな、特に二番手を走っているBCテクノロジーズのシステムは侮れない。囲い込んでいる企業数はおよそ2万社だ。最後はこことの決戦となるだろう」


 のぶえは篠塚の胸をポンポンと叩いた。


「よく寝るのよ」


「ああ、おやすみ」


 しばらくしてのぶえが何かを考えついたようだった。


「ねぇあなた。73億って数字はどこから引っ張り出してきたの?」


「さあ、適当にこれぐらいにしとけって河原田部長が決めた数値なんじゃないかな」


「その数字に、何か意味があるはずよ!例えば何かのシミュレーションの数値だったり……そこらへん徹底的に調べてみたら?」


 だが篠塚はくるりと後ろを向いた。


「俺の仕事の範疇はんちゅうを超えてるよ」


 だがのぶえはあきらめない。


「その数値の根拠が分かればあなたも納得してIRを出せるんじゃないの」


「考えとくよ。おやすみ」


「もう!……おやすみなさい」


 しかしこののぶえの意見が篠塚の頭に残った。



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