Teeming down

 空気が年齢不相応な四十肩に重たくのしかかるのは、湿気のせいだけでも、差した傘を肩に立て掛けてるからだけでもないのは言わずもがな、まことがわたしの手を深く引っ張り下げるのも全部、あのひげのお医者さんの一言の起こしたもの。前置きとかない方がつらくないっていう配慮なんだろうね。でもわたしは情がないのかなって思ってしまう。文句、言いたくなる。お医者さんにじゃないよ。何にだろう。絶対、わたしは泣かないよ。泣き虫な空め。


 家のドアも重い。気が利かないドア。静電気でパチッと何か変えてくれないの。重い腕と頭。無駄なことばかり考えてるよ、わたし。ごめんねまこと。


 じゃぶじゃぶ手を洗う音が響く。手洗いうがい。終えた後にリビングへ歩く途中も、がらがらと水を転がした喉からは、もう音沙汰なし。ふたりとも座り込んでもソファーは広い。やっぱり静寂。わたし、まことのこと分かってなかったのかな。まことはすぐ割り切れると思ってた。ずっと、こんなに長く、心をしまっちゃうなんて。呼吸音だけ聴こえる。息を吸うのを意識しちゃって、空気の匂い。変わらないよ。いつもと変わらない今日は特別な日。そうだよ、隣にいるのに遠いのは雨のせいなんだよ。零した涙の川が隔ててしまうんだ。なら、わたしが天の川を渡るよ。何を言われても構わない。わたしが受け止めなきゃ。ずっと一緒にいるんだから。


 そっと抱きしめる。


「あさぎは、、やさしい、ね」


嗚咽交じりのほとんど嗚咽。


「まことはいつもそう言う」


「ほんとうだから、だよ、だってあさぎ、」


「うん、」


「、別れ、ようって、思わないでしょ、」


ハンカチでずっと目を押さえながら漏らす。感情を鎮めるように、息を整える。


「別れるって、なんで、」


考えたことも。


「いまこのときから、私は私じゃなくなっちゃう」


「わたしだってそうだよ、毎日何かを忘れてる。それに、病気で忘れるのはまことのせいじゃないよ」


「、でも、忘れるのは私……いつか、あさぎのことだって、いまのことだって、忘れちゃう。永い約束を交わしても、それを忘れた私が、ずっとずっと、迷惑をかけ続けるなんて、私、耐えられない……」


畳まれたダメージジーンズめちゃくちゃに握りしめて咽ぶ。


「でも、そんな、わたしまことを捨てるなんてこと、」


「……私、死んでもいいって、」


「ダメだよ……ダメ、、」


不意打ち。涙が出てこない私は偽善者かなって、そんなことなかったよ。肩を離して、瞳を見つめなおして、目をそらさないで涙も放っぽった一言は届いたけれど。


「結婚、なんてできない、夫婦にも、なれない。どうして、責任なんて何も、ないんだよ」


「わたしたちがそんなこと、言っちゃダメだよ。何年も一緒にいるでしょ。わたし、まことが好き。あたりまえでしょ」


「でも、未来の私はあさぎのこと、」


「好きに決まってるよ。わたし、かわいいでしょ?好きにさせる、絶対」


わたしも自信なんかないけど、胸を張るのはこういう時だ。


「そしたら、」


一拍。


「結婚しよう。」


「できないよ」


「渋谷行こう。アメリカ行こう。カナダ行こう。式だけでもいい。お祝いしてもらえればいい。そしたら不安なんてなくなるよ、きっと……そうだよ」


ぎゅっと抱きしめる。さっきとは違う静寂が、わたしたちを包む。

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