4
雨はなおも降っていた。陽の光を暫く見ていない。そんな気がした。
イツキは、もう10日以上学校に行っていない。
学校に行く事に抵抗がある訳ではない。
ただ父の死後から今まで、状況が落ち着いていない。
行かない事にも抵抗はない。
仲のいい友人も居なければ、教師達から好かれていないと知っている。
根暗で、無口。必要以上のコミュニケーションを避ける。一部の高圧的な教師相手にも静かに視線を向けるイツキは、気味悪がられてもいた。
「唯花ちゃん」
小学校の下校口、雨空を見上げている唯花に、イツキは声をかけた。
「お兄ちゃん!」
唯花は嬉しそうな声を上げ、イツキから傘を受け取った。
「急な雨だね」
「うん、でもお兄ちゃんが……あ」
傘を広げた唯花はすぐ、傘に穴がある事に気付いた。
もう何年も使い古したピンクの傘は、骨も錆びついている。ずっと使っている唯花のお気に入りだが、これでは用をなさない。
「……ごめん、うっかりしてたよ」
そう言って、イツキは唯花に自分の傘を差し出した。
「大丈夫だよ」
唯花は差し出された傘を押し返し、イツキと一緒にその傘の下に入った。
それからイツキを見上げ、笑顔を見せた。
雨の中を、一つの傘の下で二人で歩いた。
「……本当は」
「?」
「知ってたんだよね? 自分の傘に穴が空いていたって。だから、持って行かなかった」
イツキがそう言った時、唯花の笑顔は作り笑顔になった。
「……そんな事、ないよ。本当に忘れて……」
「傘は人数分しかないから、他の子供、俺にすら遠慮して、別の傘を持って行かなかった」
「ち、違う……よ」
「新しい傘を買っていこうか」
俯いた唯花が、途端に顔を上げた。
「え? い、いいよ、大丈夫だよ?」
唯花は遠慮をしているようだった。
貧しい孤児院で育った唯花には、遠慮する癖というものがついてしまっている。それは美徳でもあるが、時には単純な卑屈さにも思えた。
“欲しい”筈だ。“欲しくない”は、いつだって嘘だ。
少し、肌寒い。
通り過ぎる車もフォグランプを点け、雨溜まりをゆっくり走る。
「今日は、特別だから……傘がいらないのなら、お菓子でもおもちゃでもいい。今日だけは、俺が何でも買ってあげるから」
「でも……」
「唯花ちゃん」
イツキは立ち止まった。唯花も立ち止まる。
「遠慮なんか、しなくていい……無駄遣いしたい気分なんだ」
あんな目に遭ったのに、
(遭わせたのは、俺なのに)
唯花は、何も責めはしない。
あのすぐ翌日から、いつものように明るく振る舞っていた。昔からそういう娘だった。
ただでさえ質素な食事のおかずを他の子供に取られても何も言わない。掃除や洗濯だって率先して行っていた。不平一つ言わず。
だからイツキは、取り立てて気にかけていた。
放っておけば全てを誰かに分け与え、いつか何もかもを失ってしまうような、そんな少女に見えた。
思えば父は、孤児達に何もしてやれない事をよく悔やんでいた。
誕生日も、クリスマスも、正月も、貰えるものはせいぜいが数十円の安い駄菓子。高価なおもちゃやスポーツ用品、ブランドの服や靴などは望むべくもない。
父を何よりも傷つけたのは、子供たちがその境遇を受け入れてしまっている事だった。
我侭言って、あれが欲しいとねだって、泣いて騒いで、買ってやれない自分に反発するくらいの事を、父は望んでいた。
自分の至らなさで、孤児たちを卑屈に育ててしまったという想いを抱えていた。
「……いくらくらいまでなら……いいの?」
唯花が小さくそう言った。どうやら欲しいものがあるらしい。
「そうだね……五千万円まで、かな」
彼女が望むのなら、家でも、土地でも、宝石でも。
―――――――
“コインフリッピング”
同志№167から№169へ
五月三十一日午後四時より開始
賭け金一億円
一勝負全額の一回勝負
権力者の用意したコインを使用
表裏の定義は別紙参照
コインは権力者がトスをする、その際、トス地点より最低三十センチ以上高く上げなければならない
トス後のコインはキャッチせず、そのまま自由落下させる
トスを妨害する行為の一切を禁止、また、同志はトス後のコインに故意に触れてはいけない
革命者がトス前に表・裏のどちらかを宣言し、宣言した面が出なかった場合のみ革命者の敗北(但し、表裏の判別が不可能な状態に陥った場合革命者の勝利)
表裏の判別はルール書面の定義に則りモデレーターが行う
トス後に、表・裏の選択を変更することは禁止
トスは一回
―――――――
「本当によろしいのですか? イツキ様」
などと若葉は言う。
蓮谷から渡されたゲームのルールは、
「確かに、明らかな欠陥があるが……」
ゲームになり得ない可能性がある。
しかし運営部はこれを通している。このルールで、ゲームは行われる。
別紙には、コインの表と裏の写真が載せられていた。
コインは五百円玉と似た大きさであり、絵柄は天使と悪魔。天使の面が表、悪魔の面が裏と定義されている。
(本当にいいのだろうか? “均等な勝利の可能性”はやはり曖昧だ……)
「運営部の人間、リッターやマエストロにゲームのルールを相談すれば答えます故、イツキ様も気兼ねなく」
「……この“コインフリッピング”のルール……地下でやるゲームとして運営部はおそらく……いや十中八九、意図的に欠陥を見逃してる、ように見えるが……」
「“もし真っ当なルールに直すとしたら”、という相談なら乗りますが」
「そうだな……じゃあ」
「しかし、イツキ様」
イツキの言葉を遮った若葉は少し、表情を曇らせていた。
おそらくは“リッター”は運営方針、そして同志規約にも精通しているのだろうから、イツキの知らない事実も若葉は知っているのだろう。
「よろしいのですか? もしこのゲームにイツキ様が“勝利”するとして……」
「……? 何が言いたい?」
「……」
しかし若葉は、全てを語る訳でもない。
それがリッターとしての規約故ではなく、若葉の個人的な判断であるとイツキは知らない。
「若葉?」
「……いえ、勝利を祈っております。ルールについて話をしましょう」
若葉は何かを知っていた。
――夜。
夕食後、食堂。
食料の備蓄を見て、
「……はぁ」
と、琴乃は一人溜息を吐いた。
いよいよ食料が尽きる。
「琴乃」
「ぅわッッ! ……って、イツキ……」
突然声をかけられ驚き振り返ると、背後にイツキがいた。気が付いていなかった。
「イツキ、悪いけどデザートなんかないよ」
「違う、用事はそれじゃない」
「……ジュースもないけど」
「いや違う、俺を何だと思ってる」
(甘党……)
などと考えている琴乃の前に、イツキは紙袋を差し出した。
中身を覗くと、札束。
「え……」
それはあまりに唐突過ぎ、かつ現実離れしていた為に琴乃は夢かと錯覚すらした。
しかし食堂の調理場奥の若干薄暗い中にあっても、はっきりと確かにそれは札束だった。
「イツキ、それ……」
「とりあえず、5000万ある。これでしばらく持つだろう」
「持つ……というか! このお金、ど、どこから!? ……まさかイツキ、あんた体を売って……」
「ち、違……!」
と言うが思い返せば、確かに体は張っている。右眼を5000万で売ったとも言える。
「……くも、ないかもしれないけど……」
「や、やっぱり!? イツキ、あんたホントに……」
「いや違う! ……いや違くないけど、でも違う! 琴乃が思ってるようなアレじゃない!」
「じゃあこのお金どうやって!」
ぐいっと詰め寄る琴乃から、精神的に逃げるようにイツキは目を逸らした。
「……もらったんだよ。寄付、って形で……」
「誰から?」
「…………誰って…………し、神父……」
「……ふーん」
疑われている。琴乃の目は不信の色で染まっている。
咄嗟に“神父”と口に出したが、あまりにも嘘っぽい。あの水沢とかいう同志を恨めしくすら思う。
だがこれで良かった。イツキは知っている、琴乃は人の隠し事を詮索しない。
「……まぁいいよそれで。今日はそれを信じるから」
琴乃は紙袋から札束を一つだけとって、その札束からさらにお札を数枚だけとって残りをまた紙袋に戻した。
「残りはイツキが管理してて。一応、あんたがこの施設の所長なんだからさ」
「え、いや、琴乃が持ってていいよ。食料の買い出しするだろうし……」
「その時にまたもらうから」
そう言って食堂を出ていった。
イツキは残った金を見て、軽く溜息。
(もう少し、上手く渡せたら良かったな……)
琴乃とのやり取りを思い出して後悔が募る。しかしどうするのが正解かもわからない。
何も心配もかけないように、不安など何一つもないように思わせるには、どう行動しどんな言葉で語れば良かったのか。少なくとも金額の問題ではなかったらしい。
もっとスマートに、かっこよく彼女と接する事が出来たなら――と、イツキは思い悩む。今夜、眠りにつくまでずっと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます