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何しろ少年は――“ミスター杉野”は、今まで出会った誰とも違う。
「初戦、あんたは“
上原に「どうして?」と訊かれた。だからイツキは外していた眼帯を付け直し、静かに語っていた。
チップを三枚、“
「それはきっと――あんたの正確性の問題だ、“
まだ、出目の確定まで時間があった。それまで上原の思考能力を少しでも削いでいたかった。
上原の思考はイツキの思惑通り、“狙いを看破された理由”へと惹かれてしまっていた。状況打開の為の策を、考えつかない。
「だが“
(ミスター杉野は、きっともう不正を見逃してはくれない……“回転に影響を与える行為”を見逃しては……)
だから願わくば――
「ほんの少しでも指がブレていたのなら、落ちる場所はズレる筈。“
雨。
雨粒一つで、回転は変わる。
風でもいい。
煙でも――
有り得ない。スプリンクラーもシーリングファンもない。なれば自然現象は神が作り出すもの。
だがこの地下室に、神はいない。
「あんただって人間だから、100%の正確性を持っていない。だけど恐らくは――調子の悪い時でも50%くらいの精度はあるんだろう? 俺は三戦目のあの時、手元にあった2000万全額を賭けていた。だからあんたは集中していた」
ノーモアベット――の宣言すら上原は放棄した。小さな縁起を担ぐ行為が、もう無意味だと悟っていた。
ボールは回転の力を失い、落下を始めていた。
「俺が“0”に賭けるなら、あんたは真逆の“
上原の希望は。最後に残った希望は、煙草の煙。しかし――
「案の定、同じだった。同じ条件で、同じ動き。七戦目のあんたの動きは、俺の記憶の中にある三戦目の指の動きと完全に一致していた。ホイールの回転速度も、投げ入れるタイミングも、全てが」
――ミスター杉野は、何かおかしい。
「温度も、湿度も、空気の停滞も……」
時間も、空間も、呼吸も。
ホイールの廻る音も、チップの重さも、交わした言葉も。
精神も、心も、魂も。
――とすれば
と、上原は思う。
七戦行ったルーレットのゲーム、その全てを正確に、精緻に記憶し続けているというのなら――そんな些細で膨大なファクターまで記憶に刻み続けているというのなら。やがて脳は、傷だらけになる。
「だから、同じ結果が出る……」
「いや、まだ」
口を開いた上原の言葉はしかし、弱々しい。
ボールは二度三度跳ね、確かに“
「まだ、わからない……思い出してくれー、モーターの回路を燃やしただろー? 電磁石だから回らなくなってもホイールの回転には影響を与えない。けど、さ」
「……」
声は、だんだんと弱く、小さくなっていく。
「……燃やした時に、煙が出ただろー? あの煙がまだ、少し、絡んでるかもしれないからさー……」
上原が言い終わるより先に、ボールは“
煙などもうとっくに消え去っていた。
(敗因は、100%を求めた事……)
上原に後悔はない。そうするしかなかった。しかし、知っていた筈だった。
(37箇所の穴があるのだから、ミスター杉野がチップをどう賭けても、適当に放り込めば8割は勝利出来た……だけど私は絶対的な勝利を求めた。人間には、100%などないと知っていた筈なのに……」
上原は椅子に座り込んだ。
変わりに、イツキは立ち上がった。
モデレーターはイツキを指し示し。
「勝者、No.169」
と、事務的に宣言した。
イツキはそんなモデレーターを一瞥し、舞台右袖の拷問室へと帰ろうと一歩を踏み出した。
「誰もが」
上原が言った。
イツキは、踏み出したばかりの足を止めた。
「忘れていく。不要だと信じた過去を。簡単な理由さー、脳の容量が追い付かない。全てを記憶し続けるなんて……」
だったらどうして、妻と娘を今でも覚えているのだろう――上原の中で唐突にその二人が遠ざかっていった。言語化すれば矛盾と虚無が心に溢れると知っていながら、致命的な敗北をした今、上原の精神の堰は強度を失っていた。
娘の不幸な今後を思えば、それを齎したのが今日の自分の博打の敗けだと思えば、上原には重すぎた。
「いや……」
イツキの視線は上原には向けられず、床に落とされていた。
「俺は、それしか出来ない。覚えている事しか……忘れずにいる、それだけしか。それで守りたいものが守れるのなら……」
「違う」
言葉を遮られイツキは黙ったが、視線は落としたままだった。
「君は守ったんじゃない、奪ったんだ……」
これから先――いや既にもう、常人では耐え切れない程の痛ましい記憶を負っているのなら、その上でまだなお社会的な“少年”を演じ続けているのなら。
――自身の脳を灼く事も切り刻む事も、奪う為ならなんとも思わないのだろう。精神をすり減らす事も心を売る事だって。ならば身体への自傷だって何でもないのだろう。
残る片眼を自ら抉る事だって。
(だけど人間だ。“勝利”の為にそこまでするのなら、君は、何処かで)
――狂うだろうね。
止めていた足をまた踏み出し、イツキは歩いた。
「ミスター杉野」
上原を背にして、また足を止めた。
上原は、左手の人差し指を掲げていた。
「ノー、モア、ベッツ」
言葉は、それだけだった。
拷問室へと入ると、数人のモデレーターと燕尾服の男が一人。
モデレーターの一人からイツキは紙袋を受け取った。
中には確かに、札束が入っていた。
「……あまり……勝った気がしないな……」
「その場で奪いたかったですか?」
燕尾服の男が言った。
「それは贅沢に過ぎますよ」
そう言いながら、イツキと入れ違いに舞台上へと向かう。
不自然なくらいに焦っていた。だから、イツキはその男を目で追った。
舞台上。スポットライトの下。
テーブルに突っ伏している上原の右手にはカッターナイフが握られ、頸からは、血が流れていた。
“奪ったんだ”という上原の言葉が、イツキの中で大きくなっていた。
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