4

 何しろ少年は――“ミスター杉野”は、今まで出会った誰とも違う。


「初戦、あんたは“ノアールの35”を宣言しボールは“ノアールの26”に落ちた。俺は“ルージュ”に賭けていた。次戦は“ルージュの3”を宣言し“ルージュの21”に落ちた。俺は“ノアール”に賭けていた。狙った通りに落ちたのなら結果は同じ筈なのに、あんたはモーターを作動させた」


 上原に「どうして?」と訊かれた。だからイツキは外していた眼帯を付け直し、静かに語っていた。

 チップを三枚、“ノアールの13”へと置いていきながら。


「それはきっと――あんたの正確性の問題だ、“ノアールの35”も“ルージュの3”も、狙いは完璧じゃなかったからだろう」


 まだ、出目の確定まで時間があった。それまで上原の思考能力を少しでも削いでいたかった。

 上原の思考はイツキの思惑通り、“狙いを看破された理由”へと惹かれてしまっていた。状況打開の為の策を、考えつかない。


「だが“ノアールの13”の時、あんたは極僅かな時間しかモーターのスイッチに触れていなかった。ほんの少し触れれば十分だった。それで隣の“ルージュの36”に落ちた。俺が“ノアール”に賭けたとあんたは思っていた」


(ミスター杉野は、きっともう不正を見逃してはくれない……“回転に影響を与える行為”を見逃しては……)


 だから願わくば――


「ほんの少しでも指がブレていたのなら、落ちる場所はズレる筈。“ノアールの13”に落ちる確信があったから、あんたはリスクを負ってでもモーターを作動させる必要があった」


 雨。

 雨粒一つで、回転は変わる。

 風でもいい。

 煙でも――


 有り得ない。スプリンクラーもシーリングファンもない。なれば自然現象は神が作り出すもの。

 だがこの地下室に、神はいない。


「あんただって人間だから、100%の正確性を持っていない。だけど恐らくは――調子の悪い時でも50%くらいの精度はあるんだろう? 俺は三戦目のあの時、手元にあった2000万全額を賭けていた。だからあんたは集中していた」


 ノーモアベット――の宣言すら上原は放棄した。小さな縁起を担ぐ行為が、もう無意味だと悟っていた。


 ボールは回転の力を失い、落下を始めていた。


「俺が“0”に賭けるなら、あんたは真逆の“ノアールの10”に落とす。俺が4箇所、“0”、“34”、“5”、“22”に賭けたなら、あんたは“34”と“5”の丁度中間、“ノアールの11”に落とした。だから最後は、“ノアールの13”が中間になるように賭けた。一度狙った箇所だ。自信はあっただろう?」


 上原の希望は。最後に残った希望は、煙草の煙。しかし――


「案の定、同じだった。同じ条件で、同じ動き。七戦目のあんたの動きは、俺の記憶の中にある三戦目の指の動きと完全に一致していた。ホイールの回転速度も、投げ入れるタイミングも、全てが」


 ――ミスター杉野は、何かおかしい。


「温度も、湿度も、空気の停滞も……」


 時間も、空間も、呼吸も。

 ホイールの廻る音も、チップの重さも、交わした言葉も。

 精神も、心も、魂も。


 ――とすれば


 と、上原は思う。

 七戦行ったルーレットのゲーム、その全てを正確に、精緻に記憶し続けているというのなら――そんな些細で膨大なファクターまで記憶に刻み続けているというのなら。やがて脳は、傷だらけになる。


「だから、同じ結果が出る……」


「いや、まだ」


 口を開いた上原の言葉はしかし、弱々しい。

 ボールは二度三度跳ね、確かに“ノアールの13”に向かっていた。


「まだ、わからない……思い出してくれー、モーターの回路を燃やしただろー? 電磁石だから回らなくなってもホイールの回転には影響を与えない。けど、さ」


「……」


 声は、だんだんと弱く、小さくなっていく。


「……燃やした時に、煙が出ただろー? あの煙がまだ、少し、絡んでるかもしれないからさー……」


 上原が言い終わるより先に、ボールは“ノアールの13”に落ち、イツキの勝利が確定した。

 煙などもうとっくに消え去っていた。


(敗因は、100%を求めた事……)


 上原に後悔はない。そうするしかなかった。しかし、知っていた筈だった。


(37箇所の穴があるのだから、ミスター杉野がチップをどう賭けても、適当に放り込めば8割は勝利出来た……だけど私は絶対的な勝利を求めた。人間には、100%などないと知っていた筈なのに……」


 上原は椅子に座り込んだ。

 変わりに、イツキは立ち上がった。


 モデレーターはイツキを指し示し。


「勝者、No.169」


 と、事務的に宣言した。


 イツキはそんなモデレーターを一瞥し、舞台右袖の拷問室へと帰ろうと一歩を踏み出した。


「誰もが」


 上原が言った。

 イツキは、踏み出したばかりの足を止めた。


「忘れていく。不要だと信じた過去を。簡単な理由さー、脳の容量が追い付かない。全てを記憶し続けるなんて……」


 だったらどうして、妻と娘を今でも覚えているのだろう――上原の中で唐突にその二人が遠ざかっていった。言語化すれば矛盾と虚無が心に溢れると知っていながら、致命的な敗北をした今、上原の精神の堰は強度を失っていた。

 娘の不幸な今後を思えば、それを齎したのが今日の自分の博打の敗けだと思えば、上原には重すぎた。


「いや……」


 イツキの視線は上原には向けられず、床に落とされていた。


「俺は、それしか出来ない。覚えている事しか……忘れずにいる、それだけしか。それで守りたいものが守れるのなら……」


「違う」


 言葉を遮られイツキは黙ったが、視線は落としたままだった。


「君は守ったんじゃない、奪ったんだ……」


 これから先――いや既にもう、常人では耐え切れない程の痛ましい記憶を負っているのなら、その上でまだなお社会的な“少年”を演じ続けているのなら。


 ――自身の脳を灼く事も切り刻む事も、奪う為ならなんとも思わないのだろう。精神をすり減らす事も心を売る事だって。ならば身体への自傷だって何でもないのだろう。

   残る片眼を自ら抉る事だって。


(だけど人間だ。“勝利”の為にそこまでするのなら、君は、何処かで)


 ――狂うだろうね。




 止めていた足をまた踏み出し、イツキは歩いた。


「ミスター杉野」


 上原を背にして、また足を止めた。

 上原は、左手の人差し指を掲げていた。


「ノー、モア、ベッツ」


 言葉は、それだけだった。






 拷問室へと入ると、数人のモデレーターと燕尾服の男が一人。

 モデレーターの一人からイツキは紙袋を受け取った。

 中には確かに、札束が入っていた。


「……あまり……勝った気がしないな……」


「その場で奪いたかったですか?」


 燕尾服の男が言った。


「それは贅沢に過ぎますよ」


 そう言いながら、イツキと入れ違いに舞台上へと向かう。

 不自然なくらいに焦っていた。だから、イツキはその男を目で追った。


 舞台上。スポットライトの下。

 テーブルに突っ伏している上原の右手にはカッターナイフが握られ、頸からは、血が流れていた。


 “奪ったんだ”という上原の言葉が、イツキの中で大きくなっていた。

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