3

 ミスター杉野、と声に出して、“杉野”という名の別の博徒を思い出していた。

 あの日あの男は“先攻”を選び、煙草を吹かしながら、“偶数”に賭けた。


 ――うまいね。今まで見た中で、一番うまいよ。


 そう言う彼の手はいつも少し震えていた。

 自分を落ち着かせる為に、ニコチンを過剰なまでに摂っているようだった。


(“0”は狙えない……一番自信のある、“0”は。“26”と“32”、偶数に挟まれている)


 自分を信じきれないまま、“ルージュの7”を狙った。

 ボールを弾くその刹那、煙草の煙が、指に絡んだ。




 その敗戦の後、上原はホイールにモーターを仕込むようになった。確実に勝てるように。


“回転に影響を与える行為の禁止”


 取るに足らないプライドが、その一文を残し続けた。






 ホイールを回し、ボールをホイールに乗せ、


「チップを置かないのかい?」


 上原がイツキに訊いた。


「……」


 まともにやれば、いつかディーラーが勝つのがカジノゲーム。

 だが数戦程度なら客が勝つ事もある。

 現在4000万あるのだから、“ノアール”か“ルージュ”に賭けてニ連勝すればいい。

 それは有り得ない確率ではないが、迷わず賭けられる程の勝算もない。


「……ルージュ……」


 イツキは1000万円分のチップを“ルージュ”に置いた。


 上原から見て、その手は震えていない。

 あの“杉野”とは同じ苗字でちょうど親と子くらいの歳の差だが、親子とは思えない程に似ていない。

 しかし迷いのあるその動きは、他人とは思えない程に似ていた。


 ボールを投げ入れた。


「その賭け方では連勝が必要になるねー。ミスター杉野」


「……」


 イツキはチップを持ち、一度“ノアール”に移動させた。

 まだベット時間内。上原はそれに何の反応も示さない。動揺も、焦りも。

 怖れも。


 それからまた“ルージュ”にしたりもしたが、最終的には“ノアール”に落ち着いた。

 20秒ギリギリまで迷い続けた。


「ノーモアベッツ」


 言いながら、上原はもうベルに触れる事はない。


(次は、スイッチは靴の中に仕込もうかー)


 などと、ベルを見ながら思っていた。




 ボールは、“0”に落ちた。


「全ツッパしなくてよかったねー」


 チップを回収しながら上原が言う。

 イツキは、ゲームが一層複雑化した事を知った。

 ボールの軌道を思い出せる。


(ボールは最後……“0”と“ルージュの32”の間に落ちて、最後は“0”に収まった……)


 狙ったのだろう。イツキは確信している。ボールを投げ入れる上原の、指の動きは洗練されていた。

 “0”の左側は“ノアールの26”、右側は“ルージュの32”。つまりそこは、“黒・0・赤”と“三色”が並んでいる。

 “ノアール”を外すにしても、“ルージュ”を外すにしても狙いやすい位置。


(ベット時間20秒は……罠だ)


 第五戦。

 まずは1000万を“ノアール”に置いた。

 上原がボールを投げ入れると、イツキはそれを全て手元に戻し、今度は200万ずつを“ノアールの26”、“0”、“ルージュの32”へ置いた。


 最終的にボールが落ちたのは、“ノアールの10”。“0”のほぼ真逆の位置。


「……いい感じだね―……」


 上原の声は、落ち着いていた。

 静かで、穏やかで、冷えていた。

 集中力が増しているようだった。

 それはイツキに、勝負師としての地力の差を感じさせた。


(……きっと次も負ける、俺は)


 ボールを投げ入れてから20秒、それはボールの落下が始まるギリギリの時間。

 だからその瞬間を見れば、落ちる位置が見極められるかもしれない――と、考えたら負ける。


 第ニ戦まではそれに嵌っていた。

 落ちそうな位置に厚く張れば、上原はモーターでそこを僅かに越えさせて、「惜しい」と思わせ次戦に同じ戦略を使わせる。回収の効率がいい。

 モーターのなくなった今、


(上原は、俺の心理を読み切っている……)


 20秒もの間ボールの軌道を見てしまえば、その分の思考時間が奪われる。




 すぐに次戦が始まる。

 上原はホイールに手を置き、


「なー、少年」


 静かに、語り始めた。


「私が離婚した時、なんだけどねー。虐待していたのは妻だったのに親権は彼女のものになったんだよ。私が非合法の闇カジノのディーラーだったって、相手の弁護士が突いてきてねー、私の主張は何も通らなかったよ」


 イツキは、チップを数えていた。200万のチップがあと12枚。2400万。

 まだ、何処にも置いていない。


「慰謝料やら養育費やら法外な値段だったけど払いに払って、ここであと5000万円払えば、さー……それだけ払えば、妻は娘に会わせてくれると言ってる。なぁ、君なら信じるかいー?」


「俺なら」


 チップを4枚、持った。

 イツキは他人の心理など読めない。だから上原が何処に落とすか、などわかりそうにもない。

 37個の数字に12枚のチップは心許ない。

 イツキは自分の運も、勘も、ましてや天から与えられるべき僥倖など。何も信じられない。


「信じるさ――……金の力を」


 イツキがそう言うと、上原は少し笑った。


「……気が合うね―、ミスター杉野」


 5000万。娘に会わせるだけで、それだけの金が得られるのなら。

 娘にそれだけの価値があるのなら。


(あの女も、娘を少しは大切にするだろうさ)


 だから。

 今日のゲームは、負けられない。


 ホイールを回した。


 調子も良かった。

 “100%”の精度ではないルーレットの目。だが今日は、特に目の前の相手を“プレイヤー”と認めた今は、異常に調子がいい。ホイールの回転速度も安定している。

 そしてこの“杉野イツキ”の心理、それも手に取るように分かる。


(次は四箇所に、バラけさせるのだろうー?)


 ギラつく闇カジノで、金に飢えた亡者達を何千と見てきた。

 店に多額の損害を出せば、命すら危うい非合法の鉄火場。客の心理を読むのは必須技術ですらある。


 上原の予想通り、イツキはチップを四枚バラけて置いた。


 “0”、“ルージュの34”、“ルージュの5”、“ノアールの22”。


 ホイールを丁度四等分するように。


 そして置いてすぐチップから手を離し、気怠そうに座って、またホイールに視線を向けている。

 上原の指を見て投げ入れるのを待っているが、


(それでは、“ベット位置は変えない”とバレバレじゃないかー)


 とすれば狙いは簡単だった。賭けられた目の隙間でいい。

 ボールを投げ入れた。

 イツキは、動かなかった。体も、視線も。


 何も――上原が見るに、心すらも。動いていない。

 日本のよく聞く慣用句で言うならば、まな板の上の鯉のように。


 ボールは、“ノアールの11”に落ちた。


「次を」


 イツキの声。

 上原が聞く限り、連敗に精神的なショックは感じない声。


「次のゲームを」


「……そーだねー」


 言われずとも上原はボールを手に持つ。


 イツキは既にまた、四枚のチップを持っていた。


 あと1200万。


(ミスター杉野、君には何も出来ない)


 ――次は“六枚”だろう? ミスター杉野。


 上原は完全に読み切った。


(君は今こう考えている。“一度賭けられた場所には落とさない”と、“思っている”……と、“思わせたい”)


 “ミスター杉野”は、罠を張っているつもりでいる。


(今までにミスター杉野が賭けた場所は、“0”、“5”、“15”、“19”、“22”、“26”、“32”、“34”。だから次はその隙間に君は賭けるんだろー? 例外は“0”だが……)


 イツキが、チップを持つ手を伸ばした。


(君は、“ノアールの2”に置く……)


 それは“19”と“34”の丁度中間。

 上原の予想通り、イツキはそこにチップを一枚置いた。


(次は“ルージュの36”……だがそこには一度落ちている。だから、“ルージュの30”……)


 イツキの動きはわかりやすく、一度“36”に置きかけて、隣の“11”に賭けようとし、そしてそこも先刻出た目と気付いたように、またチップを動かし“30”に落ち着いた。


(次は……“5”と“22”の間、“ノアールの20”か“ルージュの1”だが、後者だろうな―……赤と黒を半々にしたいだろうから……意味はないのになー)


 それはまるで上原の思考をなぞるように、イツキのチップを持つ手は“1”へと向かい、迷いすらなくそこへ置かれた。


(そして、“ノアールの28”……これで赤と黒が半々、そして……)


 イツキはやはり、“28”にチップを置き、そして、


(“0”……“0”だけは例外、君が賭けた後に私は一度落とした……だから君は賭ける……だから、“0”は……)


 また、一枚、チップを持った。

 と同時に上原もホイールに手を置き、


(“0”は使えない……一番自信のある、“0”は……)


 集中していた。

 頭は冷えていた。

 確率を90ではなく、99ではなく、100に出来る気がした。


 イツキは確かに、上原の眼の前で、“0”に、チップを置いた。

 それはまるで頭の中の思考が現実になるような――願いが、想いが、未来を変えるような感覚――

 ――祈りが、届くような。


 そしてイツキはまた気怠そうに座り直し、ホイールへと視線を戻した。

 上原がホイールを回しボールを縁に置くと、その手を凝視していた。


 最後に残る問題は、


(あと三枚のチップ……)


 手元に“三枚”、600万分のチップをイツキは残している。

 インサイドベッド一点賭けで配当は36倍、チップを“ニ枚”賭ければ勝利条件の一億に届く。


(だから最終戦に希望を繋ぐ為に、ミスター杉野はチップを“ニ枚”手元に残す)


 つまりこの一戦、遊びチップが“一枚”ある。


(隙間に賭けて、“一度賭けられた場所には落とさないと思っている”自分をミスター杉野は演じる。だからあえてなお、その一枚は、今まで賭けた中から選ぶ……そうだろうー?)


 それが何処かまではわからないが、要はそこを外せばいい。

 要は、一切の狂いなく。


(“0”の次に、自信があるのはー……)


 気温も、湿度も。空気の流れも。

 何一つ変わらない、同じ条件の地下室で。


 上原は、絶対の自信を持ってボールを投げ入れた。


「“ノアールの13”」


 イツキが静かにそう呟いた時。


「…………どうして……?」


 上原は視線を上げ、青褪めた顔でその一言を絞り出した。


 “祈る”ように――

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