2

 イツキは“ノアール”に、残る2000万円分のチップを全て置いた。

 上原は、まだボールを投げ入れていない。


「……いいのかい? 後手を選んでいるのだろう?」


「置いただけだ。ただ、チップをそこに。賭けたわけじゃない。あんたがボールを投げ入れるまでは……」


 上原はモデレーターを見た。反応はない。ルール違反とはされていない。

 自身で作ったルールであり、上原もその判断に異議はない。




“ベット時間は、プレイヤー先手の場合ディーラーがベット開始を宣言してから60秒以内”


“プレイヤー後手の場合ディーラーがボールを投げ入れてから20秒以内”


“それ以降のベットの変更は禁止”




「うーんルールは言葉足らずだったかなー?」


 などと言いつつも、想定内。


「“ノアールの13”」


 一言発し、上原はボールを投げ入れた。

 先攻後攻どちらのタイミングで賭けられようが、同じ。


「左眼を賭けている」


 唐突なイツキの言葉。それは、上原の視線をホイールから正面へと戻すのに十分な力を持っていた。


「負けたら、俺は光を失う」


「…………本当なのかい?」


「……信じなくても、別にいい」


 イツキは気怠そうなまま、天井を見上げた。

 ボールの軌道に、興味を失ったかのように。


(……意味の無い行為ではない)


 上原は言葉よりも行為を見ていた。イカサマを何も仕掛けないのなら、ホイールを見る筈。この少年が信心深く“祈る”のなら。


(ギャンブラーは祈る時に天など見ない。必ず、廻るホイールを見る。神ではなく、ボールの軌道に、祈りを捧げる……)


 そうでないのなら、何かを仕掛けている。天井を見ているのなら、天井に何かがある。


(……スポットライトかー?)


 天井にはそれしかない。直視するには眩しすぎるライトだけしか。

 かつてはスプリンクラーもあったが、いつの間にか撤去されていた。


(きっと)


 上原は、暫く会えていない娘を思い出した。

 雨の日に、同じ傘の下にいた日を。


(地下室に、雨は振らない……)


 博打が、どれだけ身を灼こうとも。




 ――停電だろう。




 仕掛けるとするのなら。

 大凡のギャンブルにおいて古典的で効果的な手の一つ。雨が降らずとも太陽は消える。

 照明が消えると知っているのなら、目を閉じ暗闇に慣らしておくだろう。暗くなった中でボールの落ちた位置を変えればいい。


 上原はイツキの眼帯を見た。怪我に見せかけているのだと思った。


(明かりが消えるその瞬間、少年は眼帯を外す筈。その予備動作は必ずある)


 上原の考察。状況に対する誤謬を犯していた。イツキの右眼は本当にただの傷跡であるが、そう思えないでいる。17歳の少年が、残り一つの眼を賭けるなど上原の常識の外だった。


(上原は)


 イツキは思う。


(俺を、信じていない……)


 見上げた天井に、シーリングファンはなかった。換気扇も、窓も。

 空気の流れは、止まっている。


「ノーモアベッツ……」


 そしてベルは鳴らされた。


 イツキは姿勢を正し、上原を見た。上原の視線が自分の眼帯にあるのを感じた。ここまでは予定通り。イツキはゆっくりと、右眼の眼帯に左手を向かわせる。

 上原はその手を目で追う。ボールは落下を始めていた。

 眼帯に左手がかかり、ボールはホイール上で複雑に跳ねる。

 ランダムのようで指向性のあるボールが、慣性を失い始めた時。眼帯は静かに外された。

 そして上原は、その下にあるものがただの傷跡であると知った。


 静寂が、過ぎる。


(……マズい、少年は)


 深い闇――イツキの右眼の傷跡に一時持っていかれた意識を、強引に引き戻した。

 上原はすぐにホイールに視線を戻した。ボールは止まりかけている。向かう先は“ノアールの13”。

 出目の確定が目前になり、上原はベルに触れ――


(少年は照明ではなく、“私”を見ている!)


 見ているという事は、そこに何かある。

 だから上原は、ベルに触れたその手をすぐに離した。


 ボールは――“ノアールの13”を僅かに超え、一つ隣に落ちた。“ルージュの36”。




 ――何かおかしい。




 勝利した筈の上原に、その実感が湧かない。心に引っかかるものがあった。


(少年は私を見ていた。私を見て、何故、“右眼の眼帯”を“左手”で外したー?)


 疑問はそれだったが、


「……いつ気付いた?」


「……」


「“ホイールの仕掛け”にいつ気付いたー? 少年」


 口から出たのは、別の問いだった。


「……あんたが“ベル”に触れると、ホイールの回転音に僅かな雑音が入る……モーターのような、機械的な音が……」


「なるほどー確かにモーターだね。ホイールの回転を少し操ってるよ。正解だねー」


「……シンプルな仕掛けだ」


「そうだよ。なぁ考えてみなよ、ディーラーは“正確に狙った場所に入れる”必要なんてない。客が賭けた場所を“外す”だけでいい。当たりそうになったらちょっと回転をいじるだけ。しかし、たった二戦で気付くかー、あんな些細な音にねー」


「そのベルに触れる事が、モーターのスイッチになるんだろうが……確かに気付きにくいさ、だってあんたは“ある程度は”数字を狙える。誰もがそれを警戒する。心理戦だと思い込む。そして」


 イツキはホイールを見た。今は停止している。


「“ルーレット盤の回転に影響を与える行為の一切を禁止する”……わざわざルールに書いたんだろう? ディーラー自らが行っていると、疑われないように……」


「あんまりネタを喋らないでほしいなー、次に他の誰かとやる時も使う予定なんだからさー」


「次を考えるのはまだ早い」


 イツキにそう言われ、上原はまた同じ疑問を思い起こした。

 “右眼の眼帯”を、“左手”で――。


「何言ってる? 君が残り全額を賭けたのは……」


 言いながらレイアウトを見た。言葉とは裏腹に、上原には確信めいたものがあった。モデレーターはなお勝ち名乗りを上げていない。そして少年は、“何かおかしい”。

 果たして視線をそこにやれば、イツキのチップ2000万円分が、“ルージュ”に置かれていた。


「あぁ、パストポスティング、かー……」


 それはベット時間終了後に、ベット位置をズラす基本的なイカサマ。

 チップを“黒”から“赤”へ移すその動作をより円滑に行う為に、自由にしていた右手。

 

「なるほど、君もシンプルだねー……しかし君は、“何処まで”想定していた?」


 そして上原は素早く、ベルを三度連続で鳴らした。

 するとベルの下部、ホイールと繋がっている底板から煙と焦げ臭さが漂った。


「……何をしている?」


「証拠隠滅しないとねー……あー、もったいない……」


 ベルとホイールを繋げる電子回路基板は薄く短く、僅かに数秒で燃え尽きたようだった。


「……そうか、そんな用意まで……」


「いいや君は、こうなる可能性も考えてただろー? 機械的な仕掛けがあるのなら、機械的な破壊方法もあるって……でなければ、私の手を取って不正をモデレーターに申告、ってしてる筈だからねー。見事だよ、見事」


 上原は、そう言いながらも。

 

(経験、ただそれだけかな足りなかったのは……不正の申告、その判断基準に確信を持てなかっただけ。この少年はホイールの仕掛けを見抜いて、その不正申告までに証拠隠滅される可能性を想定し、私の目を盗んでパストポスティングする。そしてその為に予め右眼を……)


 少年が“何かおかしい”事を感じ続けていた。


(……右眼を自ら抉った? このゲームの為に? 違う、有り得ない……事故か、生まれつきか、或いはギャンブルで……ギャンブルの為に?)


 眼帯は医療用で、まだ新しく見えた。頻繁に取り替えているのなら、傷跡もまた新しい筈。

 右眼を失った痛みの記憶がまだ鮮明なままに左眼を賭けているのなら、


(どうかしている、としか言いようがない。だけど)


 上原は知っている。

 人間に絶対はなく、生物である限り“100%”の精度を保てない。


 しかし。


 大金の為なら、人はあらゆる努力を惜しまない。


(そうか。私は心の何処かで、少年の正常性を祈っていたんだなー)


 不可能と言われても。100%などないと思い知っても。僅かでもそれに近づく為に、ただボールを投げ入れ続けた。金の為に。

 眼を抉る事と、何万回もルーレットのホイールにボールを投げ入れる事。

 どちらがより“おかしい”のか、今の上原には判断がつかない。


 だから。


「しかし少年、私は今日負けられないんだよ」


 上原は、スラックスの後ろポケットからカッターナイフを取り出し、テーブルに置いた。


「君をボンボンだと思っていた。道楽だと思っていた。甘ったれた暇人のガキだと思っていた……思いたかった。失礼だったね、認識を改めるよ少年――いや」


 蝶ネクタイを締め直し裾も整え、ぱさついた髪をかき上げ後ろに縛った。そしてカッターナイフで、余った髪を切り捨てた。


「君を“プレイヤー”と認めよう、“ミスター杉野”」


 上原は深く頭を下げ、“礼”をした。


「――Welcome into my casino」


 イツキを、対等な博徒と認めた。

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