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 孤児院のロビーのソファーに座り、イツキは本を読んでいた。


「右眼、傷まない?」


 声をかけられた。

 聞き慣れた声。琴乃の声だとすぐにわかるから、イツキは顔を上げようとしない。


「あんまり……痛みはないよ」


「嘘」


 言われて、イツキはようやく琴乃を見上げた。


「眼帯、血が滲んでる」


 イツキは右眼に、医療用の簡易な眼帯をしている。闇医者が言うにはこれ以上の処置は不要で、そして不可能だという。失われた眼球はどうやっても戻らない。

 しかし。


「……気付かなかった。取り替える」


 傷口は塞いである、筈。眼窩から出血は起こり得ない。


「傷まないの、って訊いてるんだけど」


 言いながら琴乃は、持っていた救急箱をソファーに置き、新しい眼帯を取り出している。取り替えてくれるのだろう。

 しかしそれは、イツキにとって少し煩わしい。断る理由を探さなければならない。


 なぜなら相手は同年代の少女で、それも琴乃で、処置してもらうのはなにか“子供的”で、弱いところを見せるような気分になる。

 特に琴乃相手には強がっていたい精神がイツキにはあり、頼られたいが頼りたくない。つまり意味もなく気恥ずかしい。

 だから、


「痛くない」


 と、拒むように答えた。

 イツキは救急箱から自分で眼帯をとって、琴乃に右眼を見せないよう背を向けて急いで取り替えた。

 「よし」、と小声で呟き安堵してまた見上げると、琴乃はイツキの本を読んでいた。


「イツキ、あんたカジノでも行くの?」


 本の表紙には“ルーレット入門”、とある。古びた薄い本だった。

 琴乃はパラパラと中身を見てみるが、興味はないのか熱心に読み込もうとはしない。


「いや……そういうわけじゃない、けど……」


 ルーレットのルールくらい、イツキは知っている。図書館からこの本を借りてきたのは、一応の確認くらいのつもりだった。


「こういうのに興味あるんだ」


「……少しだけ」


「わざわざ図書館まで行って。学校は休んでるのに」


「……」


「借金、さ……」


 琴乃の声が、少し弱くなった。


「ギャンブルで少し当てたくらいで返せる額じゃないって、私だって知ってるよ」


「……違、そういうつもりじゃ……」


 イツキは言い繕おうとしたが、そうすると琴乃の顔がうまく見られない。彼女に対して、嘘を吐くのが好きではない。


 琴乃は本をイツキに返し、ソファーに座った。


「責任感じてるんなら、そんな必要はないと思う」


「……責任じゃない、ただ、一応俺は今この施設の運営者だから……」


「あんたが全部一人で背負わなくてもさ。私だって、あと一年もすれば18歳になるんだから、そしたら、体でも使ってさ……」


「いや……!」


 強く否定したイツキに、琴乃は言葉を止めた。


「大丈夫。お金の事なら、なんとかなるから」


 その言葉は、真っ直ぐ琴乃を見据えて言えた。






 二日後、五月二十三日。

 午後九時半。


 イツキは、ペレストロイカ入り口のバーへ行った。


 前のゲームが長引いているという。

 バーの隅の席に座った。一応、バーの体裁の為かメニューもあったが何も頼まずに待った。

 上原は当初、午後二時を希望していたらしいが、珍しく予定が他のゲームと被ったという。よってゲーム開始は午後十時になった。バーのマスターはそう言っていた。


 少し、眠かった。


 アンティーク調の振り子時計の、内部の歯車の擦れ合う音を聞きながら、イツキは古い思い出に浸っていた。五月の連休に、施設の孤児達を連れてピクニックなどした記憶。あの頃は施設に、まだ何人かの職員もいた。

 はしゃいで転んで怪我した子供がいれば、職員達よりも率先して琴乃が治療した。

 その時の彼女の指先の形まで、今でも鮮明に思い出せていた。




 やがて地下から、ゲームを終えた男が一人上がってきて、イツキに気付かずバーを出ていった。

 入れ替わりにイツキは地下に降りた。

 拷問室に入ると、手術台の上に人間の残骸が一つ乗っていた。

 胴体から四肢は分かたれ、開かれた胸部と腹部から内臓器官は取り外されていた。

 数人のモデレーター達が、事務的にそれを片付けている。


(痛かったのだろうか……)


 イツキは思った。

 右眼の奥に続く鋭い脈動が、「痛み」という感覚である事を今ようやく思い出していた。

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