3
霧とも靄とも思えるような、小さな雨粒だった。
右眼から流れる血を洗い流せもしない。
路地裏、ペレストロイカ近くの小さな開業医。
寂れて他に客はいない。裏口のようなアルミのドアに、医院である事を示す看板が貼り付けてある。
そこでイツキは右眼の治療を受けた。治療後に闇医者と聞いて、法外な請求を覚悟したが、
「タダでいい」
その女医は不満そうにそう言って、領収書を書き殴った。
「杉野イツキ君、だっけ? 君の父親から治療費はもらっている……何年も前にね」
メモ書きの紙を差し出されたイツキ。右眼に眼帯を付けて、遠近感が掴めず取り損ねた。
文字は読めた。治療費は法外どころか、ゼロに等しい。支払い済みになっていた。
「絆創膏代くらいのつもりだったが……まぁ約束は約束さ」
再度手を伸ばし、イツキはメモ書きを手にした。
「……」
「……ミハイルと勝負をしたんだね。父親の代わりに」
「……知っているのか?」
「お抱えだからね。だからこの医院は、表通りからは見えないが“同志”とやらの帰り道からは見つけやすい場所にある。情報も入るよ」
「だけど父は……」
「きっと想定済みさ、敗北も。なにしろミハイルは“ペレストロイカ”の創立者にして、運営部の最高指導者なんだから。あの場所がどういう場所か、一番知っている男さ。誰かを陥れる事を哲学の範疇の外に置いている」
“最高指導者”というのなら、全てを捻じ曲げられる。あの地下はミハイルの胃の中とも言える。
もし現況からこの後の全てを予測の上で、最終的に孤児院施設が残る為の最善の策として、父があえて死を選んだのだとしたら――ミハイルやこの女医の話を聞く限り、そう思える。
しかし、とすれば。
(何故父の死体は、涙を流していたのだろう)
論理的に辻褄の合わない事がある。
例えばそれがもっと内面的で不可視の事象に於ける、人間でなければ持ちえない逸脱性を――
「痛ッ……」
右眼を抑えた。
痛み止めを打たれた筈なのに、傷口の痛みが消えない。
帰路、唯花はずっと泣いていた。
涙を止めるにはミハイルの死体が必要だと思った。
銀の皿にミハイルの首をのせて差し出せば、彼女はまた笑って舞えるのかもしれない。
ミハイルに対する殺意がイツキの中で正当化されていく。右眼の痛みが何よりの証拠だとすら思えた。
黒場潤はあの男に殺された。
汚れなき魂の尊厳の為には、報復が必要だった。
午前零時。右眼の傷口の痛みに耐えながら、やっとの思いで施設まで辿り着いた。
「イツキ!?」
ロビーのソファーに座っていた琴乃は、イツキの顔を見るなり立ち上がった。
琴乃は慌てて駆け寄ってきた。
「どうしたのその眼!? 真っ赤じゃない!」
「え?」
言われてイツキは右眼につけられた眼帯、その下を指で触れた。赤い血がまだ流れ出ている。眼帯の下部は、真っ赤に染まっていた。
「…………治療したんだけどな……」
「ほらイツキ座って! 血拭くから! ほら早く!」
半ば強引に、琴乃はイツキをソファーに座らせる。泣き止んでいた唯花も心配そうに見ている。唯花もイツキの出血には気付いていたが、ずっとどうすればいいかわからずにいた。
琴乃は救急箱を持ってきた。だが、薬も包帯もろく入っていない。琴乃はその現状に苛立ちながら、ティッシュで血を拭いとった。
イツキはその間、ただ呆っと、何も無いロビーの空間を眺めていた。
――執着なんてしていない場所だと思っていた。
無くなろうが、奪われようが、何も感じない場所だと思っていた。
決して綺麗だとは言えない、便利だとも言えない、ただ、数十人の孤児が雨風を凌げるだけの古い建物。
それを誰の物にもしたくないと。
なれば自分が“支配”し続けていたいと。
「そうだ、ここは……俺が貰ったんだ……」
「え?」
イツキの呟きを、琴乃は聞き取れなかった。
「父さんが俺にくれたんだ……だから、俺の物だ。誰にも譲らない…………」
何一つ、他人になんか渡したくなくなった。
ロビーも個室も、このソファーもこのティッシュも、止められた水道も空の救急箱も、唯花も琴乃も。
手放さなければ失わない。
数日前までここで笑い、走り回って生きていた子を想う。
たった一つだけ手放して後悔した経験は強烈なトラウマになり、それは支配欲と独占欲へと変わり、イツキは憑り付かれた。
「イツキ! あんたまた血が……!」
出血が酷くなっていた。だが、イツキは気に留めない。
「琴乃……」
「何?!」
「お前はずっと、俺が守るから……」
「え……」
琴乃が頬を赤く染めた。
「な、な、何、あんた急にそんな……」
そんな琴乃を見て、漸くイツキの殺意は和いだ。
やがて、血も止まった。
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