2
「――私を殺してくれる?」
そう、静かに呟いて。
チェーンソーを、床に落とした。
イツキを真っ直ぐ見据えていた。
イツキは膝をついたまま、ミハイルを睨みつけている。
そうしてしばらくそのまま、何も言葉を発せずにいた。
唯花はまだ、解放されていない。
「……なぁイツキ君。君の負債は五億だ。今日はね、一割でも利子を払ってもらわないと。唯花ちゃんはその五千万円分だ。代わりを差し出してほしい。ねぇ?」
「……」
このゲームでは二億が賭けられている。勝利しても借金は返しきれないが、直近の利子は払える。
敗北すれば全てを失う。だが査定が曖昧だった。唯花一人で五千万円だが、施設の孤児数十人合わせて二億円。
ミハイルの精神は歪んでいるが、唯花の評価額だけ不自然に高い。
「黒葉潤は……いくらだった?」
ミハイルの眼は、変わらずに淀んでいた。
その眼を逸らす事なく、拷問室を出て、ゆっくりと、イツキに歩み寄ってくる。
「二万円さ」
――父は。
「私が、そう査定した。だが誤解しないで欲しい。君の父がそう望んだ」
(父は全てを守ろうとした。ミハイルは全てを奪おうとした……)
「あの子供はね、本来は“私”のものだった……支払いが不能になった同志から金の代わりに頂いたものだ。君の父に一時的に預けていただけだよ。でも返せと言ったら渋るもんだから、ゲームに誘った」
(この地下室は“公平”じゃない。そして“平等”でもない。だから……)
「彼が二万円しか持っていないかったから、二万円でいいと言ったのさ。素敵な話だろう?」
「俺はいくらだ?」
ミハイルは既に、イツキの眼前にいる。
「あぁ。あの車内で私は、嘘は一つも言っていない……」
言いながら、その義手の右手でイツキの頭を掴んだ。
逃さないように、逃げられないように、強く。
同時に、消火を終えたモデレーターもイツキの肩を背後から掴み拘束した。
「リムジンの車内で言ったよね、『君の眼には一億の価値がある』と……つまり片眼あたり五千万だ」
「…………高いな……」
イツキが、静かに呟いた時。
ミハイルの左手人差し指が、イツキの右眼目頭に触れた。
「っ……!」
激痛が走る。
瞼は反射的に下がるが、異物の侵入を防げない。
「ミハ……イル……! 約束だ、唯花ちゃんを……」
「いいやイツキ君。まだ支払いは終わっていない」
ミハイルの指がイツキの右眼に沈んで行く。
「いっ…………あああああああああああ!」
苦しみ悶えるイツキを楽しむように、ミハイルは少しずつ、指を沈めて行く。
「ああああああああああああああああああああああああ!!」
「痛い? 痛いか。痛いよね。あぁ痛そうだ。とても痛そうだ…………そう、それでいいんだ。君は今“治療”されている。それが命だ。神様は……」
「ああああああああああああああああ!!!」
叫び声をあげながら激痛に耐えるように、イツキの右手はミハイルの上着を掴んでいた。
観客達からは、恍惚とした楽しげな声。
「一人の人間に一つずつ、命を与えた。生きる事は苦しむ事……そうだ、君は今確かに生きている……たった一つの、命。だからこそ……」
“光なんていらない”
そう思ったイツキは苦痛の中、尚も真新しい記憶に苛まれていた。
解体された黒葉潤を思い出す。僅かな金で失った。
「だからこそ、世界は美しい……」
指が第二関節まで沈んだところで、ミハイルは指を曲げ、そして引き抜く時は一瞬だった。
激痛は物理的損傷から数瞬遅れて倍増した。
世界の半分は暗闇に陥り、左半分だけが光を知覚する。
ミハイルの手には、血液と、体液と、イツキの右眼球。
イツキはその場で傷口を押さえ、蹲った。
出血が激しい。床に血溜まりが出来ていく。
「ミハ……イル……これで、五千万円の支払いは……」
「あぁ完了さ。ところでイツキ君」
イツキは顔を上げられない。
床に流れ落ち汚濁する血液を見ながら、意識だけは離さないよう必死で留めていた。
「君は、さっきのゲームで、負けたよね」
右眼の傷口を抑えながら、左眼で、ミハイルを見た。
「“二億”、負けたよね。払えるかい? 今、ここで」
「……」
――そうだ、ここは――
全て、謀られていた。
イツキはもう知っている。
あの車内にいたときからずっと感じていた。全てがミハイルの思い通りに進んでいる。
陥れられて、騙されて、奪われた。きっと、まだ足りない。
(“客”を呼んでいる。唯花ちゃんの解体は始めから決まっていた。施設の子供達を奪う事も……俺が抵抗したから、ついでに眼球摘出のショーも行った)
あの拷問を止める事すらも策謀の内で、更に負債を吹っかけ何もかもを強引に――
(俺の眼を一億としたのも、片眼を差し出せば唯花ちゃんを助けられると思わせる為……片眼を、差し出せば…………)
「払えないのなら、あの施設の子供達を貰おうか……唯花ちゃんもね。君は右手を焼き、そして右眼を差し出した。そうだ、それだけしてもまだ……」
「……まだ“左”がある……」
イツキの言葉に、ミハイルは少し――ただ少しだけ、戸惑いの色を見せた。
「……左? ……あぁそうだね、君の残った左眼と唯花ちゃんを差し出せばそれで一億になるから、半分は助けられ」
「小切手だ……」
「…………何だって?」
「あんたは、二億の小切手を持っていた……」
イツキは、左手に持っていたリボルバー拳銃をミハイルに見せた。
そのシリンダーとフレームの隙間。紙切れが一枚挟まっている。
ミハイルは慌てて上着のポケットを探った。それは演技ではなく、ミハイルがようやく見せた本気の狼狽。
そこに入れていた筈の小切手がなくなっていた。
「……盗ったのかい……? いつ……眼球摘出時ではない、私は二度も同じ手を許さない……」
「……」
「リボルバーを盗んだ時に、一緒に……? ならそれをすぐに見せれば君の右眼は……」
「それじゃ唯花ちゃんを救えない……」
「……」
ミハイルの表情から、余裕が消えた。
「そうだ、確かに……二億じゃ施設の子供達だけで、利子五千万円分は足りない……」
「先に二億払ったら、あんたは俺の眼を奪わない……唯花ちゃんの解体を選ぶ、だから……」
「…………」
「だから先に俺を、解体してほしかった……」
少し、違う気がした。
ミハイルは杉野イツキという少年に対し、僅かに違和感を抱いた。
イツキの言葉はミハイルが求めていたものと、何処か少し違う。
「ミハイル、俺から奪ったその右眼はもう、あんたのモノだ。だからあんたから奪ったこの小切手も、今、俺のモノだ……そうだろう?」
――少年は嘘をついている。
(君が優先したのは、私の殺害だ)
だから金を見せるよりもまず、引き金を引いた。
「道を開けろ……この小切手、署名が俺の父じゃない。あんたでもない。第三者だ……車内で見せられた時を思い出して、気付いた。どうせこれも“ゲーム”で取ったのものだろう? だが今俺が引き金を引けば燃えて消える……」
ミハイルは思う。
(君にとってきっと二億は大金だろうが、私にとっては安すぎる……子供達を、売るには)
杉野イツキは、命が金で買えると信じている。
それはミハイルにとっても真実であるが、
(私が力を行使すれば、君から全てを奪える……が、しかし今日は、観客が多い。昨日の動画が傑作過ぎたかな……お客さん達にアンフェアな“世界”を見せるのは、美しくない……)
ミハイルが、ゆっくりと後退りしながら拷問室のモデレーターに合図を出し、ようやく唯花の拘束は解かれた。
(これ以上を奪うのは後日でいいか……きっと、この少年は逃げない……)
イツキはそんなミハイルを睨み続けながらゆっくりと、舞台右袖へと向かう。
モデレーター二人が、まだ唯花のすぐ横にいる。
「ミハイル、階段だ。階段で交換する……」
気の遠くなりそうな激痛の中、イツキは階段の中腹にまで上がる。そこに銃と小切手を置き、また一段、二段階段を上がった。
モデレーターが唯花を解放した。その瞬間唯花は走り出し、階段を駆け上がりイツキに抱きついた。
「お兄ちゃん……!」
まだ、震えていた。
「…………ごめんな」
言いながらも唯花の頭を撫で、尚イツキはミハイルを睨み続け、少しずつ階段を上がる。
ミハイルもまた同じ速さで、銃と小切手へと近づいていく。
やがてミハイルがそれを手にした時、イツキは階段の最上段にいた。
「イツキ君」
「……」
「君は本当に、私を殺してくれるのかい?」
不意に。
イツキの右眼の痛みが、数倍――数十倍に膨れ上がった。
脈動し吹き出る血液に合わせ、断続的な激痛が何度も襲う。
何度も。
激痛は何度も。
何度も何度も何度も何度も。
永遠でもあり無限でもあるようにコキュートスよりもっと深く寒く
三千世界で何度生まれ変わっても続くかのような激痛を
何度も
その中でイツキは、ただたった一つの純粋で明確な感情を、強くさせていく。
“To be or not to be, that is the question.”
「……殺すさ、ミハイル……」
唯花を抱きながら誰にも聞こえないほどの小声で、しかししっかりと吐いた。
痛みは、イツキに殺意を刻み込んだ。
眼の前の男をいつか必ず殺そうと思った。
命を奪うだけで、大切なものが守れるのなら――
外に出た。
僅かに、雨がちらついていた。
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