4
だから静かに深く息を吸い、静かに吐いた。
手はゆっくり動かした。ミハイルのような機械的な正確性は必要ない。
上から12枚、カードを取った。
それをテーブルに置き、残りをその上に重ねる。
イツキはただそれだけを行い、
「……始めよう」
呟くように言った。
「ささやかだね。あぁ、それじゃあモデレーターを呼ぼうか」
「……モデレーター?」
ミハイルが指を鳴らすと、階段を降る足音が聞こえた。
やがて舞台右袖の拷問室に、三人の男達が現れた。
三人とも白背広、無個性な体格。異様だったのは、白塗りの仮面で顔が覆われている事だった。
「審判が必要だよね。ペレストロイカ運営部に所属する“モデレーター”、勝敗のジャッジをする人間だ」
何一つ模様のない、白塗りの仮面。それは男達を人間というより、“人形”のように感じさせた。
三人のうち二人は拷問室に残り、一人だけが舞台上へと歩み入った。舞台を正面にして、テーブルの後ろに立つ。
拷問室の二人は唯花の両隣に立っている。彼女を囚えているかのように。
テーブルの後ろのモデレーターが、
「それでは、ゲームを開始します」
抑揚のない、無感情な声でそう言った。
「安心していいイツキ君。彼らはちゃんと教育されている。私を贔屓したりはしないよ」
イツキはミハイルを信じている訳ではないが、あまりに人形的で生気を感じないその“モデレーター”は、言葉に信憑性を持たせていた。
「それじゃあ、私が先攻だったね。カードを引かせてもらうよ」
ゲームは始まっている。
ミハイルは、積まれたトランプの山に右手を伸ばしていた。
「ミハイル」
イツキは、その名前を呼んだ。
ミハイルが手を止める。
「それからモデレーター。もう一度だけ確認する。“ジョーカーを引いたら負け”、でいいんだな?」
イツキはモデレーターを見た。モデレーターは、コクリと頷いた。
「もちろんさイツキ君、それがルールだ」
再び動き出したミハイルの手が、トランプに触れた。
が、そのまますぐに引かない。
ミハイルの右手はトランプの山札に置かれたまま、また動きを止めていた。
ちょうどその大きな手のひらで、山札を覆っている。
「……何をしている?」
「ルールは、順番にカードを引いていく……としている。上から順番に、ね」
「あぁ」
「“一枚”、とは決めていないんだ」
「……?」
「一度に二枚でも三枚でも、望むなら53枚引いてもいい。そういうルールなのさ」
「……だったらそうすればいい。引いた中にジョーカーがあったら負けだろう?」
イツキの中に、不安はまだ残る。
ルールは確かにシンプルで、誰にでも理解出来る。だがそのルールを決めたのは自分じゃない。
このゲームはミハイルが用意し、ミハイルが始めたゲーム。
「あぁその通りさイツキ君。何枚引いても、その中にジョーカーがあったら負けさ。だから」
ミハイルは、手を山札から離した。その手のひらの中に、カードは一枚だけ。
「一枚だけにしておくよ」
その右手に握り込んだカードを、自分で見るより先にまずイツキに見せた。
イツキは。
「……!」
零れそうな声を必死で飲み込んだ。
「さぁ、私は何を引いたかな?」
――クローバーのJ。
「……そんな筈……」
あり得ない。
イツキは思う。自分は確かに、山札の一番上をジョーカーにした。
「おや」
ミハイルは自分の手札を見て、驚きもしない。
「一枚目からって事はないよね。さぁ、次は君の番だよ」
「そんな筈はない……!」
立ち上がったイツキを見て、ようやく多少、ミハイルは目を丸くした。
しかしそれにも余裕が見える。安全が確保されているような、まだ全てが予測の範囲内にあるような余裕。引いたカードの絵柄すら必然であるような、安全圏にいる人間の表情。
「どうして?」
「い、いや……」
確かに“積み込んだ”。だがそうは言えない。
イツキは、また座るしかない。
自分の“目”は正しい筈だった。何処かでズレたのだとしたら、もうジョーカーの位置はわからない。
「さぁイツキ君、次は君の番だ。急ぐといい。一手は180秒以内としている。時間を過ぎても君の負けなのだから」
「……」
そう言われても、すぐには動けない。
イツキは記憶を必死で辿った。ミハイルのシャッフルを、間違いなく正確に記憶している。
「……実はね」
戸惑うイツキを見かねたかのように、ミハイルの言葉。何処か優しく諭すような声。
「シャッフルの前、広げたカードをまとめた時にね。一番上にあったカードを――まぁそれがジョーカーなんだけど、それをどうも中程に入れてしまったようでね」
「……何……」
「私自身、もうどの辺にジョーカーがあるか予想もつかないんだ」
「…………!」
イツキは、動揺を顔に出さずに抑えた。
だとしたら。
全て無意味だった事になる。
ミハイルの動きを覚えた事も、ジョーカーの位置を追った事も。
ゲームは始めに意図された通りもっと原始的になり、より強い“運”を持った者が勝利する。
ミハイルの言葉の通りなら。
「勝敗はもう誰にもわからない。でもそれが正常だろう? “ギャンブル”なんだから」
山札に手を伸ばし、イツキはまた思考を巡らせる。だが有用な策など浮かばない。
ミハイルの言葉は何処か虚構じみている。言葉も、動きも。
(嘘だ。ミハイルは何処か、虚構だ。この場所も、今の俺も……)
「いや、ギャンブルに限らない。それはきっとこの世界のシステム――生まれながらに神に愛され」
ミハイルが言葉を続ける中で、イツキは山札に触れた。
「祝福され、幸福な家庭で育ったのなら。きっと、この世界で勝利出来る」
(夢……どんな悪夢でも、いつかは覚める……だから)
“何枚引いてもいい”。そのルールがあって、二枚以上引くわけがない。
イツキが引くのは、一枚だけ。
「だけど」
(引くしかない、カードを……一枚ずつ引くしか勝ち筋がないのなら……)
あの“動画”が脳を過る。
目の前の男は、きっと約束を違えない。ミハイルが勝利すれば間違いなく、確実に、唯花は解体され殺害される。
自分を「お兄ちゃん」と慕ってくれている女の子が、自分の行動如何で拷問され死に至ると考えると、心が軋む。
イツキは手にしたカードを手元に寄せて、指で持ち上げ、
「地下室に、神はいない」
絵柄を確認した。
イツキの思考は数瞬の間停止した。カードを持つ手はより大きく震え、顔からは血の気が引いていく。
「ねぇ、イツキ君。君は何を引いた?」
力を失ったイツキの手から、カードが滑り落ちた。
「……違う」
拷問室の唯花が、仮面の男達に連れられ、薄暗い拷問室の奥へと消えた。
「…………これは、間違っている。何処か…………そうだ、ずっと……」
――脳が灼かれ始めてからずっと――
「……夢の中にいるようだ……」
イツキが絞り出すようにそう言うと、ミハイルはやはり優しく、諭すように――震えるイツキの顔に“左手”をそっと伸ばし、頬を撫でた。
「現実さ」
テーブル上に落ちたカード。描かれていたのは微笑む道化師と、“THE JOKER”の文字。
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