3
時刻が午後一時を過ぎた頃、琴乃は施設に帰ってきた。
「イツキー、早退してきちゃった……えーっと、授業がタルくてさー……」
そう言いながらロビーのソファーを見るが、そこにイツキはいない。
「イツキ?」
施設を一通り、大部屋も個室も探すが、当然イツキは見つからない。
琴乃は不満そうに、ソファーに腰を下ろした。
「……なんだよ、せっかく帰ってきてやったのに……」
―――――――
――地下に降りた。
繁華街の路地裏、ビルの隙間。場末のバーの、事務所の奥。そこにある隠し階段。
階段を降りてすぐの部屋は、拘束台と拷問器具の並べられた薄暗い部屋。
「ねぇ、杉野イツキ君と言ったね。今日君が負けたら、唯花ちゃんはここでバラバラになるんだよ」
男はそう言った。
車から降りてからは、唯花はイツキにずっとべったりついていた。怯えていた。
イツキは、そんな唯花が解体される様を想像した。
不快な感覚があった。
頭の、何処かが、灼き切れていく様な感覚。
その気味の悪い部屋を抜けた先にあったのは、オペラハウスのような明るい舞台。
それは見たところ演劇用の舞台であり、正面には百人程度は収容できそうな観客席もあった。
舞台奥側には、巨大なモニターが設置されている。
そして中央に、一つの丸テーブルと二つの椅子。丸テーブルの直径は1メートル程度。
「君の父親はね、私に“ゲーム”を申し込んでいたんだ」
「“ゲーム”……」
つまりギャンブルなのであろうが、想像していたものと違う。
男は「二人零和有限ギャンブル」と言っていた。一対一、サシのゲームなのだろう。
イツキはカジノを想像していたが、そんな華やかさはここにはない。
そんな舞台へ右袖から入ろうとしたが、
「一人さ」
男はそう言った。
「舞台へは、誰も連れていけない。“ペレストロイカ”は二人芝居の演劇なのさ」
「……」
イツキは唯花の頭を軽く撫でると、
「すぐに戻るから」
そう言って、一人舞台へと入っていった。
数歩、歩いてテーブルの前。
「ここでやるのか?」
イツキは言ったが、
「いや、逆だね」
男はそう返した。
「すまないねイツキ君、“革命者”は観客席から見て左の席なんだ」
「……“革命者”?」
聞き慣れない言葉。
「詳しいことは規約にあるのだが……ここで行われるギャンブルゲームは少し特殊でね。ゲームを申し込んだ側を“革命者”、申し込まれた側を“権力者”と呼んでいる」
「……面倒だな。意味はあるのか?」
「思想の問題さ」
イツキは言われた通り、観客席側から見て左の席に座った。それを確認して、男も向かいの席に座る。
すると、舞台右袖に残した唯花とイツキは目が合った。それは唯花に、そしてイツキにも少しの安心感を与えた。
彼女が殺される事など、有り得ないと思えた。
「自己紹介が遅れたね。私の名前は……いや、名前などどうでもいいか。そうだな、“愛の堕天使”とでも呼んでくれ」
「嫌だ、面倒だ」
「そうか、ならば『ミハイル』と呼ぶがいい。私の聖名だ」
「ミハイル……」
イツキが類推するに、旧ソ連最後の最高指導者、ミハイル・ゴルバチョフから取った名前だろう。
“ペレストロイカ”というこのルームの名称、“革命者”“権力者”といった社会主義的な用語からの連想。
思想の問題と言っていた。だがギャンブルは、金の不平等を生み出す行為の筈。
何処か、歪んでいる。
「君には父親の代役をしてもらわなければならない。これも規約でね」
言いながらミハイルは、テーブル上に未開封のトランプを一箱、置いた。
「ゲームのルールはシンプルなんだよ、イツキ君。順番にカードを引いていって、先に“ジョーカーを引いたら負け”……わかりやすいだろう?」
「……いくら賭けている?」
言われてミハイルはイツキから視線を外し、上着のポケットから小切手を出してみせた。
「二億」
その小切手の額面は、確かに二億となっている。
「……嘘だ。父はそんな金を持っていない」
「命があるだろう?」
不快な感覚――イツキは既に幾度となく、不快感を強要されている。
この、「ミハイル」という男が嫌いだった。
「……父は死んだ」
「子供達の命さ」
「……!」
「施設の“子供”も含めて、二億。妥当だろう?」
――計算が合わない。
ミハイルの言葉に苛立ちながら、イツキは思った。返済期限は今日の筈。
「……潤も含めて?」
言われてミハイルは、再びイツキに目を向けた。
ミハイルの表情は笑っているようにも見えたが――笑っていなかった。
「君が許可したのだろう?」
――違う。
「あんたが殺した」
「人を殺すのに、君の許可が必要なのかい?」
「…………!」
苛立ちが、募っていく。
「イツキ君。今日これから、唯花ちゃんが殺されるか殺されないか決まる。それは」
ミハイルは小切手を懐に戻し、トランプの封を破いた。
中身を取り出しながら、言葉を続ける。
「今日のゲームの勝敗が決める。いいかい? 決めるのは人じゃない。神じゃない。このゲームだ。私と君の、賭けた物の奪い合い……」
一式53枚、トランプデッキをテーブル上に置く。
ミハイルはカジノのディーラーがそうするように、カードを扇状に広げて見せた。それから端の一枚を指で弾くと、全カードが表に返った。
その動きにはやはり、淀みがない。ミハイルの右手は機械の様に正確に、迷いなく、そして人間味なく動いている。まるで蝋人形の様に、生気を感じない右手。
広げられたトランプに、ジョーカーは確かに一枚。
「ただ君の父は、君が勝つ事に賭けていたようだがね」
その言葉を聞いて、イツキは顔を上げた。
「……賭けた? 俺に?」
「賭けるさ。“ギャンブル”なのだから」
――だとすれば。
イツキには俄に信じ難いが、とすれば理由がある。
(俺に? 俺は父さんと、何をしてきた? 何を話した? これまでの人生で……)
例えばイツキは、勉強やスポーツは苦手ではない。だが決して、突出しているわけでもない。
イツキの父は学校の成績を気にするタイプではなかったが、子供に期待していない訳でもない。
「イツキ、お前は――」
(父さんは何を言っていた?)
――お前は、俺に似て――
不意に、心が凪いだ。
イツキは自身でも不思議な程に、神経が鋭敏化していた。これまで経験した事がない程に。
それは時間の流れすら遅く感じるような、自分自身すらも俯瞰出来るような――その中で灼かれ続ける脳は今この現実を、高熱時に見る夢のように錯覚すらしていた。
「さてイツキ君。先攻、後攻どちらがいい? 先攻権は“革命者”が持つが、放棄も出来る」
ミハイルはカードをまとめて、シャッフルを始める。
その滑らかで正確な動きにイツキの動体視力は追いつかないが、
(残像を、追える……)
ミハイルの五回のシャッフル。その動き、そしてカードの動き。全てが網膜に残る。
それは施設の子供達数十人の名前を覚えるように。施設の間取り、広さ、壁のヒビや床の汚れまでをも覚えているように。
クリスマスの些細なパーティーで、もらった安い駄菓子の味を覚えているように。
狭い施設に響き渡る、子供達の笑い声を覚えているように。
本当は何一つ失いたくなかった全てを、残らず記憶するように。
不快で嫌いなミハイルの動きを、記憶した。
(ミハイルは五回シャッフルした。カジノのディーラーのように、何種ものシャッフルを。ジョーカーは始め“一番上にあった”)
ただ。
「後攻」
父の言葉を、どうしても思い出せない。
「そうか。利口だ。カードは53枚、後攻の方が僅かに有利だからね」
「ミハイル、約束しろ」
イツキの声には低く力があり、ミハイルがトランプを置く手を、僅かだけ止めた。
「俺が勝ったら、唯花ちゃんは連れて変える」
僅かだけ止めて、すぐに動いた。
トランプは、テーブル中央に置かれる。
「もちろんさ。私が勝ったら、彼女はバラバラに解体して殺すと、負けたらそれは出来ないと」
ピタリと揃えて重ねられたトランプ。
「約束は忘れない。それは、違えてはならない決まり事なのだから……」
(カードの動きを、正確に記憶した。正確に、寸分のズレなく、ミハイルの手の動きを――混ぜ合わされる、カードの動きを。ジョーカーの位置は今――)
イツキはその正式名称までは知らないが、ミハイルは四種類のシャッフルを行っていた。
リフルシャッフルを二回、ウォッシュ、ストリッピング、デックカットを一回ずつ。それで計五回。
(最初二回のシャッフルでジョーカーの位置は変わらなかった。
その次はテーブルにカードを広げ、混ぜ合わせて戻した。それは目で追えた。ジョーカーは“上から27枚目”。
次にミハイルは、正確に10枚ずつカードを分割しまた重ねた。ジョーカーは“30枚目”。
最後に上から17枚を取ってテーブルに置き、残りをその上に重ねた)
(だからジョーカーは今、“13枚目”にある。俺は後攻を選んだ。シャッフルのフリしてジョーカーを一番上に乗せれば――)
イツキは、トランプを手に取った。
汗一つない。不思議な程に、落ち着いていた。
ただ――
(そうだ、これでもう何も)
父の言葉だけが、思い出せない――――
――イツキ、お前は――
(何も、失わずにいられる……)
――俺に似て、臆病だ。
少しだけ、手が震えていた。
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