リンゴの恋が実るとき
泡野瑤子
第1話
私の村は、とても美しい村です。
村を潤しているのは、北方のグラニースミス山から注がれる水です。日当たりも良いので、作物がよく実ります。村人たちも動物たちも、飢えを知らずに平和に暮らしておりました。
村の名産品は林檎です。林檎は元来人間にはおいしくもない実をつける木だったようですが、村人たちが努力を重ねて、おいしい実がなる林檎の木を作ったのだそうです。いやはや、人間というものはすごいものだなと思います。
申し遅れました。私はリンゴと申します。村の水車小屋のほとりに、もう十年ほど生えているちょっぴり小柄な林檎の木でございます。
私は人間の手で品種改良された果樹園の林檎とは違って、ひとりでに生えた野生の林檎です。ですので、あいにく人間好みの実をつけることができかねるようです。
野ぎつねのサンサやからすのガラは、私の実を好んで食べに来てくれますが、どうやら人間には、私の実はすっぱすぎるようなのです。私にとって実というのは勝手に実るもので、よそさまのために実らせているつもりは毛頭ございませんが、せっかく実るのならおいしいと喜んでもらえたほうがよいのにと思います。
ところが村人の中でたったひとり、わざわざ私の実を摘みに来てくれる人間がいます。村はずれに住むリップという娘です。
リップは少しほかの娘と違っているようです。ほかの娘のように言葉をうまく話すことができない代わりに、いつも機嫌良く笑っています。
私は生えている場所から動けませんので、これはすべてサンサやガラから聞いた話なのですが、少し前までリップは父親と暮らしていたそうです。しかし不幸にも父親は娘を残してこの世を去ってしまいました。
リップが私の実を摘みにくるようになったのは、その頃からだということです。きっと果樹園の林檎を買うだけのお金がなくなったのだろう、とはサンサの推測です。
ずっとリップはひとりぼっちです。彼女は人間の基準では美しくないそうで、またほかの娘とも違うせいか、嫁に欲しいと現れる男もおりません。ときどき、サシャという世話好きのおばさんが訪ねてくるだけです。
ひとりぼっちなのに、なぜだかリップは私の実を摘みに来るとき、いつもにこにことしています。その姿を見ていると、私は彼女ほど美しい人間はいないと感じ、同時に妙に切なくなってしまいます。せめて私の実が何かの役に立っているならよいのですが。
さて今年も、私が実をつける季節になりました。
「気の毒なリップのために、少し実を残しておいてあげたい。協力してくれないか」
私が頼み込むと、枝に止まっているからすのガラが、元々とがったくちばしをいっそうとがらせて言い返します。
「お前さんの林檎を食べなくても、人間はほかにいくらでも食べる物があるじゃないか。あたしたちにとっては、お前さんの林檎は貴重な食糧なんだよ。うちには子どもたちが腹を空かせて待ってんだ、そう簡単にゃ譲れないね」
「まあまあ、そう言ってやるなよ」
私の根方で、ガラを穏やかになだめてくれるのは野ぎつねのサンサです。
「リンゴ君はね、あのリップという娘に恋をしているんだ」
「恋だって?」
ガラが持ち前のダミ声を張り上げて笑いました。
「恋ってあんた、リンゴは木だよ、木! 人間相手に横恋慕したって、どうしようもないじゃないか」
「そう、どうしようもないのが、恋なんだよ」
サンサがくいと顎を上げて、視線を遠くに投げました。
「どうせ実らぬ恋なのだ。せめてリンゴ君の気が済むようにさせてあげようじゃないか、なあガラ」
「リンゴ……」
サンサの言葉が響いたのか、ガラは急に大人しくなりました。
「あんたも難儀な恋をしちまったねえ……。よし、それなら私もあんたの実らぬ恋のために、ちいとばかし遠慮してやろうじゃないか」
一羽と一匹は盛り上がっていますが、私にはよく分かりません。
私がリップにしているという「恋」とは何なのでしょうか。
そしてその「恋」は、なぜはじめから実らぬものと決まっているのでしょうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます