第十六話

 母は一人だった。少なくとも、僕の部屋に入ってきたのは母一人だった。多分、部屋の入り口の向こうに誰かしら控えてるだろうとは思うが。まあそれはいい。いま対決するべきなのは母と僕であり、他の人間は関係がない。


「アリエル。今、いいかしら」

「はい。どうぞ、お掛け下さい」


 固い口調で、僕は母に椅子を勧める。僕はベッドに腰かける。ここは寝室であって本来来客を迎えるための部屋というわけではないので、僕の使う分以外の椅子などはない。家庭教師と勉強をする部屋というのは別に存在する。って、そんなことはどうでもいいな。


「先ほど達樹さんとも、少し話をしたのだけれど。あなたが旅立つことそれ自体は、もう私でも止めることはできないでしょう。これはまだ上層部だけの話ですが、明日、冒険事業の承認について皇帝からの親裁がくだります。ラウラ号の船長はミハイル殿下だけど、そのプロジェクトリーダーに指名されるのは、あなたよ、アリエル。つまり、明日を過ぎたら逆に、もうあなたが『やっぱりやめる』と言い出しても、それは許されなくなります。皇帝の命によって、あなたは航海に出なければならない」

「望むところですよ。僕がそうなるようにしたんですから」


 ちなみに、ここしばらくミカやミネオラとは別行動の日々が続いたが、それはミカの方は朝廷工作、つまりは父皇帝の説得に当たっていたからである。僕と無関係のことをやっていたわけではない。


「……本当に、いいのね。本当にそれでいいのね? 史局に入って、私の後継者になるつもりは、もう金輪際無いのね?」

「はい。無いです」

「……そう」


 これもどうでもいい話ではあるが、僕が史局に入ると、曾祖父から実に四世代に渡り、僕ら一族から史局員が出るということになる。なお、この事実はあまり知られていないのだが、実は帝国史局という機関を創設し、その初代の局長を務めた人物は誰かと言えば僕のひいじじ様である。三百何十年も昔のことだが。だけどそんなさ、血族主義でやってる機関じゃないんだから、何代も何代も同じ一族から史局長を出さなくたっていいと思うんだよねえ。史局の採用試験の一次は、名前を隠した上で採点が行われる筆記試験ですよ。ほとんどの志願者はここでハネられる。まあ、僕にその気があるなら多分、今から出願しても今年の一次試験をパスできるだろうと思うけど。


「母様。僕の生き方を否定なさいますか?」

「……」


 母は沈黙した。この場には茶の一杯もないので、間を持たせる手段が乏しい。僕は母が口を開くのを待つ。


「私は。私はね、アリエル。ユリア・グランディフロラ、つまり、あなたのおばあさまのことが、あまり好きではなかったの」


 なんか、意外な切り口からの話が始まった。


「でも、私はグランディフロラ、つまり私の母の望む通りに史局員になることそのものは当然だと思っていたし、そのための努力もした。その結果は報われた。で、私はいま、最年少入局の記録保持者になっている。そして」


 母の言葉は続く。僕は黙っている。


「アリエル・チユキ。あなたは、かつて不世出の天才と呼ばれた、この私をも超えた超人なのよ。純粋に言語学者としてだけ、そして氏族学者としてだけ見ればもちろん現在の私には及ばないけど、総合的に見れば、今のあなたと同じ年齢だったときの私ではあなたとは比較にもならない。もちろん、ユリア・グランディフロラもそう。だからあなたは、私と同じく、史局の長たる運命を帯びて生まれてきた人間なのだと、私はずっとそう思ってあなたを育ててきた」

「そうですね。僕はそうは思っていませんでしたけど」


 僕にとっては、言語学も氏族学も簡易にして単純に過ぎた。星を見るのが好きだった。その摂理に考えを巡らせるのが。そして、星のかなた、海の果てに思いを馳せるのが。


「だけど……すべては間違いだったのね。私は間違っていた。私は……いい親には、なれなかったのかしら。思えば、私の母もいい母親などでは決してなかったけど。私もそうだったのね」

「……それは違います」


 僕は言った。


「母様の薫陶がなければ、そしてこの国に史局というものがなければ、僕はここまでは来れなかった。僕はあなたに従いはしませんが、しかし、あなたに感謝はしています。だから母様。そんなことはおっしゃらないでください」

「アル……」


 母は静かにだが、涙を流していた。僕は泣いてはいないが。僕は母の方に歩み寄り、静かに抱擁した。


「母さま。大好きです。ずっと僕の母親でいてください。……もしも、僕が海の向こうから帰ってこれなかったとしても。それでも、そのあとも、ずっと」

「……ええ。分かったわ。イリス・レティクラタの名にかけて誓う。私は、あなたの母よ」


 と、ここまで話したところで、サンドイッチを咥えたままのリョウカがバーンと扉を開けて部屋に入ってきた。


「チユキ様あああああああああああ! リョウカは! リョウカは! 感激! 感激! 大感激です! なんという! なんという親子の絆! なんというなんという……! 素晴らし」


 と、そこまで言ったところで、多分ずっと扉の向こうにいたのであろうアンフィスバエナが後ろからリョウカの頭をぶん殴り、首根っこを掴んでドアの外に引っ張っていき、そして会釈をしてドアを閉めた。


「……」

「……アル。あなたも、また最初から変な奴隷を持ったものね。人のことは言えないけれど」

「……ええまあ」

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