第五章

第十七話

 わたしが相続放棄を宣言する直前の時点で、キトルス家の使用人と関係者は三つの派閥に分かれていた。


 第一に、ラクテアが当主になることを望んでいた者たちの勢力。圧倒的多数派であり、ゆうに千を越える関係者の中で確実に九割以上を占める。


 次に、グランディフロラ・キトルスつまり母を支持する者たちの派閥。わたしにもほとんどその詳細は分からないが、一つだけ確実に言えることとしてフェリクスはここに属する。だがこの屋敷に仕える者の中にはほとんどいないはずだ。十五年も当主と別居していればそりゃ当然そうなる。と思う。彼女は史局局長で、史局局長の持つ権力や社会基盤はキトルスの当主のそれよりも大きいのだが、それでもそれとこれとは別の問題なのだった。彼女は局長としては極めて有能だが、キトルス家の女主人としては落第だ。


 最後に、わたしが当主としてこの屋敷に君臨することを望んでいた者たちの派閥もあった。中で一番大きな力を持っていたのは執事長。


 それで、この構図が、わたしの相続放棄によってどう変化したか、ということだが。


 わたしの派閥は消滅した。ほとんどの者はラクテア派に誼を通じたはずだ。母の派閥の方に合流した者は少ないだろうと思う。


 母の派閥はまだ存在するが、この場では風前の灯。どうしてそうなったかというと、ただでさえ落第点だったキトルス家の女主人としての彼女を、わたしが失脚させてとどめを刺したから。自分が当主になることはできない以上、母がこの家に勢力を維持するためにはわたしを当主に据えるしかない。だが、そんなことは願い下げだった。実の母で、血の絆は一番濃いが……二択でどちらの味方をしたいか、と言われれば、わたしはラクテアの味方をする。そうした。


 何故なら。


 ラクテアの生母をその手にかけたのは母だからだ。


 キトルスの主だった関係者でこのことを知らない者はない。わたしに至っては、その日その場にいて、一部始終をこの目で見ている。


 わたしは母を憎みはしないが、恐ろしいひとだと思っているし、そもそも心を許しているわけでもない。ラクテアはもちろん事実を知っていて、母を憎むのが当然であり、一生かけて復讐してやると思ってるかもしれないし……もっと言えば今日この席で毒を盛るつもりでいたとしても不思議ではなかった。


 実際先ほどからずっと、母は自分の奴隷と同じ皿から、奴隷たちの後で食事を取っている。貴族の食事のふつうの作法とは異なる。毒見をさせているのだ。ラクテアがそのつもりなのだとしたら、今夜が母を毒殺できる最後にして最大のチャンスだろうし。


 以上のようなことが、いわゆる「キトルスの事情」である。さて。


 表面的には和やかに、家族の食事会が進んでいく。だが、ラクテアも母も、まだ自分の手札を伏せているはずだった。わたしもそうしている。ここは戦場であり、また毒蛇の巣だった。今夜はずっと料理の味がしない。


 キトルス家の者として、いつかこんな日を迎えなければならないことは分かっていた。父の早世は予想外だったが、それは仕方ない。事故だったのだ。落馬。


 だが、暗殺の疑いがかけられた。最大の容疑者は誰かといえば、このわたしだ。継承権第一位だったのだから当然ではある。無論わたしはやってないし、またやれたとも思えないが、潔白を証明するのは簡単ではなかった。


 仮に母がやったのだとしたらわたしにも分からない。それはないと思うけど……わたしもこの母の内面をそんなに深くまで知っているわけではない。


 と。ラクテアが口を開いた。


「ラクテア・クリスタータ・キトルス・キトルス・ユーフォルビアから、お二人に大切なお知らせがあります」


 これから当主がお前たちに告げる、というニュアンスを含む、とても改まった言い方。母の顔にすら緊張が走ったのが分かる。ラクテアが手札を一枚開く。


「お父様が亡くなったときのことなのですが……」


 黙って次の言葉を待つ。わたしではその内容を予測できない。


「実は、そのとき皇帝陛下がお忍びでその場におられました。あれが事故であったこと、陛下はご存知です」


 これはわたしと母の潔白が証明済みだというということを意味する。しかし、安堵している場合ではない。続けざま、ラクテアはもう一枚手札を開いた。


「それから。三日後に、帝都で」


 ラクテアは笑顔を作った。その底を読むことができない。わたしでは無理だ。母はどうだか分からないが。


「わたくしと皇帝陛下の婚約が発表されます。陛下は少し前から、当家においてお父様とこの件の相談をしておられました。わたくしが得るのは正妃の地位です」


 あの夜この屋敷に陛下がいた理由がやっと分かった。お忍びはいいとして、遊びに来ているなんてはずはなかったのだが……そういうことだったのか。得られた情報、元から知っていた情報、混然となってわたしの脳内を駆け巡る。一つの帰結。


 危なかった。わたしが今伏せている最大の手札はルービィと皇帝の関係のことだが、もしもラクテアより先にわたしが手札を開いていたら……恐らくルービィは生きてこの屋敷を出ることはできなかっただろう。皇帝の手がついたその時点から、ルービィはそういうことが当然である立場に置かれている。本人はまだそれを知らない。迂闊に知らせていいことでもない。現時点では奴隷に過ぎないルービィには、この状況下で自分の身を護るすべはない。わたしが護るしかない。わたしの奴隷なのだから。わたしは誇り高き、エルフの女なのだから。


 この先ルービィの生涯にかけて、最大の脅威となる存在はラクテアだ。わたしはその事実を知った。


 当然母もわたしも祝福の言葉を口にしたが、長い夜はまだ終わってはいない。わたしにはこの場で使える切り札がもうない。


 と。母が口を開いた。わたしに向けて。


「イリス。局長特命だ。お前を局長代理に任ずる。期間は三ヶ月間とする。詳しくはおって沙汰する」


 わたしは即答する。


「拝命仕りました」


 ラクテアの表情が明らかな憎悪で歪む。いくら局長でも、この場でこんなことをこんな風に口にするのはキトルス家の当主に対して無礼であるとしか言いようがない。だが、これが母の切り札だったのだろう。


 わたしは自分が局長代理となったということの意味を考える。


 これ以上は言うほど大きな出来事はなかった。お開きだ。わたしはようやくルービィを連れて部屋に戻ることができた。


「なんか……あたしにはよく分からないですけど、貴族の御屋敷って、こわいところなんですね。はやくおうちに帰りたいです」

「そうだね……」


 わたしも正直言って帰りたい。くたびれた。クロノのアップルパイの味が恋しかった。

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