第十六話
わたしの頭はまだくらくらしているが、これから葬儀が始まる。母が喪主を務め、父の遺言状を開封して読み上げることになる。きょうはわたしの人生でもこんな大きいイベントは二度とないだろうというほどの重大な一日だ。それだけの重みのある政治的儀式だから陛下の臨席が必要なのであり、線香一本あげさせるためだけに皇帝を呼びつけたりはしない。
しかし、そこまで踏まえてもなお、うちの奴隷娘がしでかしたことの方が問題として大きいような気がする。正直詳細に考えたくない。あー。どうしてこうなった。
式次第を全部説明していくと巻物一本分になってしまうので細かいことは割愛するとして、いま母が遺言状の内容を説明している。そろそろ一番肝心の、遺産相続の問題に差し掛かる。母の隣で難しい顔をしているのは法務大臣閣下である。その近くに史局の法技官の姿もある。
「ガイウス・ディエティス・キトルス・キトルスは……」
母の声。キトルスが二つ並んだのはどういうことかというと、キトルス家の当主にしてキトルス領の領主、という意味。
「次代の当主に」
さすがに心臓が止まりそうな思いである。……あのひとに想いを打ち明けたときのあれとは違う意味で。
「イリス・レティクラタ・キトルスを指名するものである」
どよめきが上がる。この瞬間、わたしはイリス・レティクラタ・キトルス・キトルスを名乗る権利を得た。よっぽど改まった場でなければ用いられることのない名乗り方ではあるが。
ちなみに、当のわたしが冷静に説明するようなことではないのだけれども下馬評ではラクテアが指名される可能性の方が高いだろうと考えられていた。わたしかラクテアか。それ以外の可能性は最初から無い。母もキトルス姓だが、この家の生まれではない以上当主になれる権利は持っていないので。
「レティ様、ご当主様になられたのですか。ひゃあ。おめでとうございます」
「……ありがとう」
ひゃあじゃないよ。まだちゃんとこの子に理解できるように教えてはいないが、もう今の時点でたぶん君の立場の方がキトルス家当主の立場よりも重いんだ。うちは国一番の貴族だけど、帝室と最後に姻戚関係を結んだのがいつかというと百年以上前になる。
ラクテアは今どんな顔をしているだろうか。もちろんすぐそこにいるが、正直見たくない。まだすべてが完全に確定したわけではなく、例えばラクテアには当主の地位を要求して訴訟を提起する権利もあるし。
ラクテアがわたしに向かって微笑んで、お祝いの言葉などを告げてくる可能性がいちばんこわい。そうしたらイリス・レティクラタ・キトルス・キトルスは、彼女が生きている限り毒見係なしで食事をすることもできなくなるだろう。国一番の貴族の家の当主の地位を得るというのはそういうことだ。はあ。めんどくさ。ああいや、どうするかは七年前に家を出たときにはもう決めてたけどね?
わたしは母の言葉を遮って挙手し、言った。
「陛下。レティクラタ・キトルスが発言することをお許しください」
さっきよりもっと大きなどよめきが上がった。
「許す。申せ」
ミカ君は女ったらしだが公務もこなせないような暗君というわけではない。女ったらしだが。ちくしょう、うちのかわいいルービィに何してくれやがったこの美少年、と心中で毒づきながらも素知らぬ顔でわたしは言う。
「イリス・レティクラタは、キトルス家のすべての相続権を放棄することをここに宣言いたします」
「皇帝ミハイル2世の名において宣言を受諾する。左右の者、異存ないな」
もちろんこれに異存を唱えられる者など誰もいない。いたら今この瞬間からこの国は内戦に突入だ。
さて。遺言状も葬儀もこれで終わりというわけではないが、わたしがあえて説明するほどのことはもうない。国賓級の客はだいたいみんな帰った。だが陛下はもう一晩お泊りになっていかれるらしい。皇帝などというものが暇であるはずはなく、いくらうちが大貴族でも公務はもう済んだのだからその日のうちに帰るのが普通で、わたしの方から日を改めて参内するつもりでいたのだが……どうも、さっき当主になったばかりのラクテアが、当主の名で要求してそうなったらしい。どういうことだろう。
葬式の夜に晩餐会をする貴族はたぶんどんな国にもないだろうが、貴族だって毎日ごはんは食べるし、話さないといけないことが色々あるので身内だけで集まった。ラクテアと母とわたし。そしてそれぞれの使用人。わたしのはルービィだけだが、母のもラクテアのも複数人いる。そっちが普通である。
もちろん上座にラクテアが座る。そして本来はキトルスの家名を放棄してただのイリス・レティクラタになったわたしが下座に下がるべきなのだが、真ん中に坐らされた。もう既にこの家の中ではラクテアの決めることが最優先だから文句は言えない。議事進行を仕切る権利もラクテアにある。
長い夜の始まりだ。今から始まることはほとんど戦争に近い。
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