第七話

 あれはクロノの世界の言葉ではタルト・タタンと呼ばれるものだったのだ、ということがようやく割り出せたときにはあの日からはや一週間が過ぎていた。オーブンが不要でフライパンがあれば作れる、難しいものではない、とかれは主張したが、わたしはもちろんのこと最低限の家事技能を仕込まれてはいるはずのルービィにも無理だった。


 ルービィはあれからどうしているかというと、あの商人の言った通り元気いっぱいに働いている。元気いっぱい、というのは別に褒めているわけではない。返事が元気いっぱいなだけで何をやらせても三つに一つは失敗するし、わたしは十枚目の時点であの子が割った皿の枚数を数えるのを止め、それから現在までにうちの食器はぜんぶ木製になった。召使いというより災害と言った方が近いかもしれない。


 ちなみに三人分の木皿だけで既に彼女自身より高価なのであり、本人もそのくらいの事実は理解しているはずなのだが、その上でなおかつ日々明るく、笑顔を絶やさない。よくこれまで奴隷として生きてこられたものだと思う。


 わたしの奴隷なのだからもちろんわたしにはルービィを鞭で叩く法的権限があるが、彼女に不足しているのは従順さではないのでそれをやっても問題の解決にはならない。癇癪で奴隷を鞭打つのは愚か者であり、誇りあるエルフはそのようなことはしない。


 ところで前に説明したようにうちは二階にあるわけだが、同じ建物の一階は数区画の貸しテナントから構成されている。そのうちの一つは長く空いたままだったのだけどむかしはパン屋だったのだそうで、壊れた大きな窯が残されていた。専門の職人を呼んできて見てもらったところ修理すれば使えるということで、いま工事中。ここに菓子を売る店を開くためにクロノはいま奔走中で、わたしも通訳その他を務めるために一緒に食材の仕入れ先を回ったりなんだりしている。かれの素性が料理人か菓子職人かいずれにせよそれらに類するものなのであろうことはとうに疑いもないが、色々と物慣れた手際や態度からして自分の店を持つことさえどうやら初めてではなさそうだった。


「レティ様、おしたくができました」

「うん。行こうか」

「はいっ」


 きょうは大広場で月に一度の市が立つ日なので、三人で出かける。近隣の村々だとか、或いはもっと遠方からもさまざまな人や物が集まるから、帝都でも普段は見つからないような掘り出し物が見つかることもある。クロノにはこの世界でいろいろな探し物があった。たとえば、かれの世界でカカオと呼ばれている植物だとか。わたしが特徴を聞いた限りではたぶんこの大陸には同じものはないと思うが、しかしポムの実とそっくりなものは向こうにも存在してリンゴとかアップルとか呼ばれているのだそうで、ならばカカオに似たものだってこちらに絶対にないとは言い切れない。現物を見て判断できるのはクロノ本人だけなので、こういう機会は貴重だった。


「あ、甜橙売りがいる。なんて珍しい」

「てんとう?」


 不思議そうな顔で相槌を打ったルービィが知らないのは無理からぬことで、甜橙は恐ろしく高価で稀少な果実である。わたしも小さい頃に一度食べたことがあるだけ。だがクロノは知っているようだった。オレンジ、と呟いたのが分かった。それで値札を見てみたが、わたしでも一瞬、うっ、となるような金額だ。かれは多分加工法を知っているのだろうと思うが、路傍の菓子店が仕入れるような食材ではない。この値段でこれを仕入れて何か作って、売りに出しても誰も買えない。


 結局甜橙は買わなかったしついでにカカオも見つからなかったが、それでもいろいろと収穫はあった。帰り道、公衆浴場に寄る。わたしが小さい頃は帝都の公衆浴場はどこも混浴だったのだが、最近は混浴のところと男女別に分かれているところ、どっちも作られるようになっている。ここは男女別。入口でクロノと別れ、まず蒸し風呂で汗を流して、しかるのちルービィにタオルで身体を洗わせる。


『こうしているとレティ様はほんとうにお美しくて、あたしは鼻が高いです』


 帝都でも聞き取れるものはまずいない、ケルピーの言葉でルービィが言う。エルフ語ではない、主と奴隷の間でしか通じない言葉を使ってこういうやりとりをするというのは割とよく使われる手で、いま聞き取れるだけでも同じようなことをしている主従が何組かいる。わたしはその全部を内容まで理解できるけど。


『そう?』

『そうですよ。この玉のようなお肌だって、透き通るような御髪だって』

『エルフの髪が金色で、その肌が白いからと言って驚く者はいないわ』


 ざっと見てもここにいる女たちの三人に一人くらいはエルフだった。帝都では一番数の多い種族なので。


『栗毛はみんな栗毛でも一番器量のいい栗毛が一番いい栗色をしているって、あたしのおばあちゃんは言ってました』

『へぇ』


 ケルピー種族の慣用表現だろうか……さすがに知らない。おばあちゃんが自分で考えたのかもしれないし。まあ、生まれて初めて容姿を褒められるわけでもあるまいしわたしだって自分の外見が他人からどう見えるかということを知らないわけではないが、美醜で価値を判断される世界というものにほとんど属したことがないので、こういう話は不慣れだった。


『でもレティ様、このところ鏡を気にするようになられましたよね』

『えっ?』


 そう……なのだろうか。わたしが? というかこのところも何も、この子を買ってからまだ一ヶ月と経っていないのだけど。


『仔馬は六十分あれば歩き始める、と言うじゃないですか』


 いや知らんし。エルフはそんなこと言わない。


『まあ、あたしだってパーン君と出会ったばかりの頃のことを今思い返せば、恥ずかしくなるような思い出ばっかりですけど――』

『パーン君て?』

『あたしの最初のボーイフレンドです』

『“最初の”?』

『最初の』


 最初のボーイフレンド。わたしには発することのできない言葉だ。なお、あの奴隷商人から渡されたルービィの身上書にパーン君その他のボーイフレンドたちに関する記述は一切なかった。奴隷商人の書く身上書なんてみんなそんなものだけど。ちなみに建前上は奴隷には自由恋愛の権利はないことになっているのだが、現実問題としてそれを阻止する手段があると考える者はいない。人の恋路を邪魔する者は馬に蹴られる、という言い回しはエルフ語にもある。


 わたしは思わずルービィの細く痩せた裸身を凝視し、そして自分の身体に視線を落とす。うーん。そういう問題ではないということなのか。うーん。

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