第三話

 書物を読みふけると他の一切合切に気が回らなくなるのは子供の頃からのわたしの悪癖なのだが、気が付いたら日が傾いていた。いけない。あの男はどうしてる? わたしはここ数刻の出来事を思い返す。


 そういえば、ポムの実を一口齧った後になんだかすごい渋い顔になったあと、訴えかけるような目でこちらを見ていたような気がする。わたしは反応しなかったが。


 別に外に出て行ったわけではない、気配があった。台所だ。というか間取り図の上では台所であったはずの場所だ。わたしはほぼ使うことがないから台所として機能してはいないが、今はかまどに火が入れられていた。うちにはポムの実以外には塩と糖蜜くらいしかなかったはずだが、何をやっているんだろう。


 こっちに来た。二枚皿を持っていて、こちらに片方手渡してくる。見ると、美しくスライスされそして火を通されたらしいポムの実が載っている。


「コンポートか」


 もちろんわたしに作る能力はないが、これでも一応名門キトルス家のお嬢様として育てられた過去もあるので見て分かるくらいの知識はある。


「あ、美味しい」


 あんな古ぼけたポムの実が、こんな優しい味になるのか。調理というものは凄いな。実家にはもちろん多くの使用人がいて果実が古ぼけるまで放っておかれるなんてことはなかったし、一人暮らしを始めてからは誰も料理なんかしてくれないから知らなかった。わたしが全部平らげると、男は薄く顔をゆがめた。多分、微笑んだ、のだと思う。


 そういえば割と肝心なことを失念していた。名前を聞いていない。どんな異世界の住人だか知らないが名前くらいあるだろうし、名前があるならこのやり方は通じるだろう。わたしは自分を指さして、はっきりとした発音で言う。


「イリス」


 そして指を相手に向ける。合点がいったようだ、自分を指して……いま名前を名乗ったのだと思うのだが、うーん。複数の音節がある。長さと拍子から判断するに姓と名か、そうでなくても二つの固有名詞の連なりだろうと思うが……片方しか聞き取れなかった。ともあれそれを口にしてみる。


「クロノ……?」


 表情の変化から判断するに正解だろう、そしてそのあと、かれは首を縦に振った。どうやら、この大陸で広く通用するのと同じように、それが同意を表現する文化に属しているらしい。種族や部族によってはこれが全く別の意味を持つ場合もあったりするから油断はできないのだが。


 ところで、そうこうしている間に日が沈んでしまった。最初はクロノを今日のうちに史局に連れて行くつもりだったのだが、もう閉門に間に合わない。まあいいか。職場は逃げないし、どうせ明日は出勤だし。


 わたしは再び本の虫に戻る。もう夜だが、わたしはエルフである以上夜目が利くから問題はない。もっともクロノの種族はそうではないようだったので、わたしは寝台をびしっと指さした。寝ろ。最低限の家具調度としてランプくらいあるにはあるが、付けてやったところですることもないだろうし。


 で、わたしが異界からの来訪者に関する伝承を二つ、幻想郷に関する物語を一つ調べ終わった頃には朝日が昇っていた。いかん、また徹夜してしまった。

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