「普通」と「異常」の境界線(後編)
「…ほんとによく食べるねえ、門屋さんは。」
ちまちまとチャーハンをつついていた男が門屋の前に並べられた大量の皿を眺めて感嘆の声を漏らす。皿の内容は餃子が5皿にチャーハンの皿が4皿、その他の皿がテーブルを覆い尽くすほど…といった見事なまでの大食いっぷりだ。それでも尚店員に注文を伝えようとしていた門屋は苦笑いを浮かべ、「…オレ、いつも課長に言ってるじゃないですか。あんま量は食べないけど、だからって別に少食な訳じゃないって…」一気に二つ口に放り込んだ餃子を咀嚼しながら答える。「あはは、道理で麗さんのご飯も食べられる訳だ。あの時の麗さん、喜んでたなぁ。」男が楽しそうに笑って左手の指輪を店内の光に翳し、優しく触れると門屋は口を動かしながら「…藤堂課長はホントに麗さんのこと、大好きですね。」若干呆れているような口調で藤堂に微笑みかける。藤堂は照れ臭そうに頭を軽く掻き、「うん。だって麗さんはすごく綺麗だしカッコいいし、僕には勿体ないくらいの人だから…。」眉尻を下げて表情を緩める。藤堂の食べるペースが落ちてきたのを横目で見た門屋は店員を呼び、「…すみません、お会計お願いします。」と声を掛けながら財布を取り出して席を立ち、少しでも気を抜くと滑りそうな、油で輝くタイル張りの床を歩いていく。取り残された藤堂も慌てて立ち上がるが床で足を滑らせ、周りの客が見ている中盛大に尻餅をつくと門屋が顔を逸らしつつ笑いを噛み殺したような声で「…あ、言い忘れてましたけど…ここめちゃくちゃ滑るんですよ。気ぃ付けてくださいね。」と遅すぎる注意を飛ばし、藤堂は尻餅をついたまま「言うの遅いよ、門屋さん…」苦笑いを浮かべて立ち上がり、痛そうに腰を擦りながら門屋の方へと向かう。がらんとしたレジカウンターにはいかにも眠そうな金髪の店員が立っていたが、門屋の姿を見るなり「あ、あんた
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「小娘よ、判るか?普通の人間と儂ら「異質」な人間を分ける境界線が。」神宮寺が誰に言うでもなかったような声量で漏らした声に門屋が一瞬反応して瞳を伏せ、少しの間押し黙った後「……さあ。異能が使えるかどうか…とかですかね?」何気ない調子で答えると神宮寺は乾いた笑い声を上げながら「…ふん。お前はまだ「普通」だな。」そう言った後は興味を無くしたように黙り込んでしばらくの間歩いていたが、今度は門屋が口を開いて「…それじゃあ、神宮寺さんの考える「普通」と「異常」の境界線って何なんですか?」と俯き加減に低く呟くと神宮寺は足を止め、腰の鞘から素早く刀を抜いて鈍い銀の光を門屋の眼前に突き付ける。目を見開き、足を止めた門屋を鋭い目で真っ直ぐに見つめながら
「…そうさな…この眼前に突き付けられた刃、お前はどう見る?」と目を細め、至極落ち着き払った声で問うた。「…そうですね、オレを殺すつもりか…あるいはただの悪ふざけか。もし前者なら、オレは神宮寺さん相手でも容赦しませんよ。」門屋はそう言うと負けず劣らずの鋭い眼光で神宮寺を睨む。しばらく二つの刃が向き合っていたが、やがて老いた刃が視線をゆっくりと下ろして笑う。「…だから、お前はまだ「普通」だと言ってる。お前の所の小童はこんな刃ごとき怯えもせんわ。お前より、あの小童の方が遥かに儂と同じ…「異質」な人間だ。」また黙ってしまった門屋をよそに神宮寺はどんどん進み、一つの古びた雑居ビルの前で足を止めた。外壁は崩れ、色とりどりのスプレーで落書きされている。少し遅れて到着した門屋も足を止め、ビルを見上げていると「…小娘、呆けるな…仕事だ。」と神宮寺は耳元で囁いて赤錆の浮いている非常階段を登り始めてしまう。門屋は慌ててその後を追い、何を思ったか先を歩く神宮寺の皮と骨しかないような細い腕を掴み、隣に並んで階段を登る。急に腕を掴まれた神宮寺は一瞬足を止めて不快そうな表情を門屋に向けるが、すぐに溜息を吐き、また階段を登っていく。しばらく二人は階段を登っていたが、神宮寺は七階で足を止め、電池が切れているのか、ランプの点灯していない非常ドアを開ける。錆びた金属の軋む耳障りな音がして、荒れ果てた室内が二人の目の前に広がる。元は白かったのだろうが、薄汚れて半ば剥げた壁紙やとっくに電池など切れているらしい壁掛け時計、黒く煤けた窓などが暗闇にぼんやりと浮かぶ…神宮寺はどこからか懐中電灯を取り出して電源を入れ、門屋に持たせると自分は室内を好き勝手に歩き回り始めたかと思えばすぐに楽しそうな声で「…小娘、こっちに来てみろ。」と門屋を呼ぶ。警戒しているのか声の方には行かず、門屋は懐中電灯だけをそちらに向けた。懐中電灯の丸い光が神宮寺の声の方を照らすと、神宮寺の視線の先には明らかに異質な存在が揺れているのが見えた…首は奇妙な方向にねじ曲がり、軟体動物のように関節の限度を超えているであろう動きをする腕には溺死死体のような膨らんだ顔が無数に生え、苦悶に満ちた血走った目で周囲を見回している。どう見ても怪物にしか見えないモノが老人の視線の先で不安定に揺れている、そんな普通の人間なら一瞬で気が狂いそうな光景に門屋が何も言えないでいると、神宮寺は途端に興味を無くしたかのような声で「…照らしておけ、手元が狂ってお前を斬ったりすると困る。」言い放った後刀を抜いた。腰に提げられていた鞘が衝撃で地面に落ちる、ほんの一瞬。神宮寺の刀は既にその化け物の胴体と首を一刀両断していた。ずれた首から血が溢れ、首を失った胴体からは血が勢い良く吹き出して神宮寺の髪や顔、そして黒いスーツに飛び散り、化け物は闇に溶けるようにして消えていく。そんな光景を見ていた門屋は呆気に取られたような表情を浮かべていたが、口を衝くようにして「…一閃。」そう言葉が飛び出したのは聞こえなかったのか、どす黒い返り血まみれで外に出た瞬間問答無用で通報されそうな格好の神宮寺は億劫そうに腰を屈めて床に落ちた鞘を拾い、腰に戻して刀を仕舞うと門屋の方に歩み寄る。「…終わった。帰るぞ、小娘。」ぶっきらぼうに言うと門屋を待つでもなく非常ドアを開けて階段を降りていく。また慌てて自分の後を追ってくる門屋にちらりと一瞥をくれると半ば独り言のように「恐怖したか。」と呟き、門屋は首を傾げながらも「…まあ…怖かったのは怖かったですけど。それが何か?」と問い返す。答えを聞いた神宮寺は「…そうか。」と漏らしただけでそれきり黙り込み、先程の中華料理店の前へ戻ると二人は別れた。神宮寺の背中を見送った門屋はしばらくその場に立ち尽くしていたが、一度深呼吸をするとその足で自分の職場…忘却課へと向かって欠伸を噛み殺しながら歩き始める。
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オフィスに戻った門屋は同僚の声にも答えず一直線に仮眠室へと向かい、扉を開けた。中には先客がいるらしく、一つのベッドの側に置かれているホワイトボードに「使用中」と書かれている。門屋が他のベッドに向かおうとした時、「…お帰り、門屋さん。」穏やかな男の声が例の使用中ベッドから聞こえた。布団からごそごそと這い出てきた男の瞼に刻まれた古傷は…「…課長、まだ帰ってなかったんですか?」門屋の問いに藤堂は「うん。麗さんから残業で遅くなるって連絡が来てね、一人で家にいても寂しいし…それならいっそ仮眠室で寝ちゃえって思ってさ。」と苦笑いを浮かべながら答える。寂しいから、なんていかにも藤堂らしい理由に門屋のいつも気難しげな口元がふと緩む。「で、結局寝てたんです?」藤堂はゆっくり瞬きをしながら首を横に振り、「…うーん、そこが厄介でさ。寝よう寝ようって思ってる時ほど寝れないんだよね。」と眉を下げた。その時仮眠室の扉が控えめなノックと共に開き、開いた扉からは顔の左側に火傷の痕が広がっている長身の男が顔を覗かせる。「…失礼します、業務終了の連絡がありませんでしたので。」極めて平淡な口調でそう断った後、男は藤堂の顔をまじまじと見つめる。藤堂が申し訳無さそうに「すみません、黒田警視正。岡崎一雄の執行は滞りなく終了しました。」と報告するのを真面目くさった顔で聞き終わると黒田と呼ばれた男は煙草の箱を取り出し、空いているベッドの一つに腰を下ろすとベッドのスプリングが重さで軋む。「はぁ…真面目くさった態度なんぞ疲れてしゃーないわ。」先程までの真面目な口調はどこへやら、面倒臭げにそう言うと煙草を取り出し、火を点けて吸うがもう一本煙草を取り出し、ちらりと門屋を見た後その煙草を藤堂に勧める。藤堂がその煙草を受け取って火を点けるのを見届けると「…なあ瑞希、お前しばらく見んうちに老けたんとちゃうか?」笑み混じりにそう溢し、「あはは…そうかな?」と苦笑いで答えた藤堂を見ると黒田は立ち上がり、「…ほな、俺は報告書まとめなあかんから帰るわな。またな瑞希…あと、真澄ちゃんも。」と軽く手を振って仮眠室を出ていった。話の間ずっと立ち尽くしていた門屋はごそごそと空いているベッドに潜り込み、布団を被るとすぐに寝息が聞こえ始める。寝息と秒針の微かな音しか聞こえない仮眠室で、どことなく虚ろな瞳の藤堂だけがぼんやりと門屋を見つめていた。
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