Chapter2 「普通」と「異常」の境界線(前編)

一面がブルーシートで覆われた蒸し暑い廃ビルの一部屋に、真っ白な煙が一筋揺れる。口から煙を吐き出しているその人影は見ているだけで暑苦しい、黒くて重そうなロングコートと細身のスーツを着ている上に白い手袋を着けている。彼は周りの人物の煙たそうな目線に動じることもなく目の前の死体をまじまじと眺め、「…これはまた、悪趣味な…。」と溢す。彼の目線の先にある死体は原型を留めないほどに損壊しており、素人が見ても凄まじい暴行を受けたことは明らかに分かる。周りの捜査員の中にはあまりの酷さに吐くのもちらほらと見受けられるが、その中で一人だけ、眉間に皺を寄せて厳つい顔付きをした中年の刑事が「おい、誰か藤堂警部に連絡してくれ。このホトケさん、この状態なら多分「悪霊」くらいだろうから…後処理頼め。」と聞き慣れない名前を挙げているのが気になったのか、彼は咥えていた煙草を地面に捨て、靴の裏で潰しながらその中年刑事に声を掛けた。「…すみません、藤堂警部とは?」声を掛けられた刑事は彼の方を振り向きつつ、「…ああ、警視正殿とはいえ流石にご存知ありませんか。警察庁のお偉いさんが作った…何だ?異能班って言ったっけね、そこに所属してる不気味な警部殿ですよ…こんな事件でもなきゃ、金輪際関わりたくもないですね。」苦笑いを浮かべて頭を掻き、部下が持ってきた携帯電話を掴むと彼を避けるようにしてブルーシートの外へと慌ただしく走っていった。一人取り残された彼がポケットからまた新しい煙草を取り出して火を点け、クリップボード片手に隣へ走り寄ってきた若い警察官に一瞥をくれると頬にまだそばかすの痕が残っている警察官は「被害者は中崎小春さん、23歳。職業は女性向け雑誌のモデルです。死因は失血死…ですね。体の痣に生体反応はありませんでした。恐らく、死亡後に暴行を受けたのでは…」機械のように淡々とした声で情報を読み上げ、彼が手で制してもなお延々と話し続けるのを見て「もう結構です。」と少々強めの口調で制すとようやくその警官のお喋りは止まり、一礼を残すとそのまま他の警官に紛れるようにして立ち去ってしまう。先程取り出したばかりなのにもう吸い殻になった煙草を靴の裏で潰し、踵を返して立ち去る彼の前に立っていた捜査員たちは彼の顔を見るなりぎょっとしたように目を見開き、彼の通る場所が自然に完成していく。ブルーシートで覆われた部屋を抜けて廃ビルの外に出ると、突き出された彼の指先に水晶のような羽根を持った蝶が止まる。彼はその蝶に耳を寄せると微かに頷いて周りの皮膚が引き攣れた左目を細めながら携帯電話を取り出し、先程とは打って変わったどことなく投げやりな口調で「…急にすまんなあ、岡崎おかざきさん。あんた、異能班って知ってるか?」と問う。電話口の相手はどことなく眠そうな声で「…ん?ああ、異能班ね…そりゃ多少は知ってるよ。データベースに侵入して覗いてやったからね。」「…そうか。ならその異能班っての、詳しく調べといてくれへんか。あんたの腕なら一時間くらいあれば充分やろ?」「異能班」までは飄々としていたが「詳しく」という言葉を聞いた瞬間、眠そうだった声があからさまに慌て始めた電話口の相手に構うことなく話を続け、相手が「む、無理だ!異能班のこと調べてるのがバレたら俺もあんたも消され…」言い終わらない内に電話を切り胸ポケットに携帯電話を仕舞うと、彼は若干面倒臭そうに溜息をひとつ吐いてから歩き始める…と、いつの間にか西に傾いた太陽が彼の顔を照らす。照らされた顔は中性的な雰囲気を纏った美形だが、左側全体を覆うように大きな火傷の痕が広がっていた。立ち去っていく彼とちょうど入れ違いの形で、ある意味殺人現場に着ていくには一番適しているのであろう喪服を着ている…が、頭の片側を剃り上げ、もう片側を長く伸ばした強烈な印象の髪型をした女性が歩いていく。彼女は現場のビルの前に到着すると手の平に隠していたらしい拳大の石をブルーシート目掛けて放り投げた。彼女の立っている位置から現場までは軽く数メートルの高低差があったが、投げられた石は的確なコントロールで五階の窓に飛び込んでガラスを叩き割った。中にいる捜査員の怒鳴り声が聞こえ、彼らが窓の外を見る頃には彼女はとっくに素知らぬ表情でビルの階段を登り始めていた。

**

「…クソ…好き勝手言いやがって!」

ツー、ツーと無機質な電子音が鳴る携帯電話を握りしめたあと、壁に向かって思い切り放り投げる。案の定画面には大きなヒビが入り、携帯電話は床に転がり落ちた。肩で息をしながら転がった携帯電話を睨み付け、職場の同僚から驚いたような目線を向けられるのも構わず椅子へと腹いせのように座り込んでパソコンのキーボードを叩く。パソコンの青く光るディスプレイ端には「プレイリスト.mP3」のフォルダが表示されており、カーソルがそちらに伸びかけたところで隣の席の同僚が恐る恐るといった感じで声を掛けてくる。「おい、今のって…またあの「警視正殿」か?」左側をひどく火傷した顔に、見ているだけでこっちまで暑苦しくなるようなロングコート姿が浮かぶ。「…ああ、そうだよ。今度は異能班のことを調べろってさ。」半ば吐き捨てるようにそう返すと同僚は苦笑いを浮かべて「異能班って…そもそも実在してるのかね、あれ。ほとんど噂でしか聞いたことないし。」首を少し傾げた後、椅子に掛けてあったジャケットを掴んで「んじゃお先。あんま根詰めんなよ。」デスクにブラックの缶コーヒーを置いて職場を退勤していった。同僚が立ち去ってしばらくした後、周囲を見回す…職場にまだ残っているのは自分一人のようだ。改めてパソコンに向き直り、カーソルを端のフォルダに合わせてクリックしようとした瞬間、正に瞬間だった。画面が表示されるか否かのタイミングで入り口の扉が開け放たれたかと思うと黒いスーツを着た、左目の瞼に古傷のある長身の男が若干屈みながら入って来る。そして後からは黒いタンクトップの上に蛍光色のパーカーを羽織った、こちらは唇と額に縦一直線の傷が入った平均身長より少し高いくらいの女が鋭い目線を飛ばしながら慎重な様子で黒スーツ男の背後に付き、「…あの、報告に上がってるヤツってコイツですか?」と敬語ではあるが慇懃さが前面に滲み出ている口調で男に問う。気にしているのかいないのか、男が妙にのんびりとした調子で「多分ね。サイバー犯罪対策課の岡崎一雄かずお巡査長。」と喋りながら片手を前に突き出すとどこからともなくその手の上に警察手帳が現れる。正体の分からない二人組に怯えているパソコンの前の男…岡崎を他所に男は手の上に現れた警察手帳を開いて顔写真と岡崎の顔を交互に見比べてから頷き、「うん、本人じゃないかな。」背後の女に微笑む。女は呆れたような目線を男に向け、「…またオレがやるんですか?たまには課長も…」と言いかけたが言葉を飲み込み、首を何度か動かしてから岡崎の前に詰め寄って頭を掴むと椅子から床にぽいと投げる。女とは思えない怪力に投げ飛ばされ、岡崎の体は床を転がって男の前で止まった。女はパソコンのディスプレイに表示されている画面としばらくにらめっこをしていたが、顔を上げると先程投げ飛ばした、痛みに悶えて転がっている岡崎のところに戻って無理矢理上を向かせた。「…課長。完全にクロですよ、コイツ。調べてやがった…」悪態をつくような声で漏らすと拳を握り、男の方に顔を向けて「…執行許可を求めます。」先程とは違う、慇懃さのない敬語で言った。男は少し頷いただけで口を開かず、くるりと女と岡崎から顔を背ける。女の口元が歪み、握りしめた右の拳には青い血管の筋がいくつも浮き出たかと思うとその拳はもう岡崎の顔面を真っ直ぐに殴り飛ばしていた。拳が顔面にめり込んだ瞬間にみしりと骨の軋む音がし、地面に転がったときに鼻の骨が砕けているのが感触で分かった。鼻から血を流しながら助けを求める岡崎に尚も女は詰め寄り、また拳を握る…屈強な男でも到底及ばないような、重く鋭すぎる異常な拳。その拳がまた顔面に迫ってくるのを悟った岡崎は割れんばかりの大声を張り上げた。「た、助けてくれ!俺は頼まれただけなんだよ!」ぴたり、女の拳が先程の打撃でひしゃげた顔面すれすれで止まると胸倉を掴み、「…誰に?」地を這うように低くドスの利いた声ではあったが静かに問う。「く、黒田警視正だ…あの人も「異能班」のことを知ってる!だから、殺すにしたってあの人のほうが先の筈だ!」女は黒田警視正の名前を聞くと胸倉から手を離す…かのように思われたが、岡崎のそんな淡い期待を鼻で笑うともう片方の手で喉を掴む。指先が皮膚に食い込み、食い込んだ所の皮膚から血がだらだらと垂れる…「誰かに押しつければ自分の死を先延ばしに出来るかも、なんて思ったんでしょうけど…残念すね。あの人は別に知ってても良いんですよ。だってあの人は…」胸倉を掴んでいた手と喉を掴んでいた手が同時に離れたかと思うと、片手が顎に伸びてもう片方は頭を掴み、「異能班こっち側の人ですから。」ごきりと鈍い音が目撃者不在のオフィスに響いた。本来なら曲がってはいけない方向に捻れた首をくっつけた岡崎の体がどさりと崩れ落ち、女が一仕事終えた風に手を叩きながら「…終わりましたけど。」とまだそっぽを向いたままの男に声を掛けると男は「…うん。門屋かどやさんの執行はあんまり血が出ないから助かるよ。」片手で目を覆いつつ地面に膝をつき、女の側に転がっている岡崎の死体に手を伸ばす。「はあ。課長がグロいの嫌いなのは流石に知ってるんで…」生返事を返しながら門屋と呼ばれた女は頭を掻き、パーカーのポケットから青いパッケージの携帯ゼリー飲料と有名スポーツメーカーのカロリーバーを取り出すと蓋を指先で飛ばし、封を破って口を付ける。男はしばらく岡崎の死体に触れていたが、穏やかに目を伏せると立ち上がって「こっちの忘却処理も終わったよ。じゃあ後はこれを契約してる葬儀社さんに…」死体を前に食事とも言えない食事を摂る門屋に声を掛けた。門屋は空になった二つのパッケージをまたポケットに突っ込み、首の折れた死体を背中に担いでサイバー犯罪対策課のオフィスを出ていく。岡崎のデスクに置かれたままの缶コーヒーの容器に貼り付けられていたメモ用紙に書かれていた「あんま無理すんなよ、岡崎」の文言から「岡崎」の名前だけが闇に溶けるように消えたのを見届けると、門屋はその缶コーヒーをポケットに突っ込んだ。「あ、この人に名前言い忘れてたね。」「別に良いじゃないですか、名乗り忘れくらい…侍じゃないんですから。」それもそっか、と楽しそうに笑う男の左手薬指には指輪が光っている。

**

すっかり夜になった街は煌々としたネオンサインで二人を照らし、会社帰りらしい風体の疲れたスーツ姿や色々な人々が二人と何度かすれ違うが、門屋が背中に背負っている死体を誰も気に留めない。男はそんな「普通の」人をちらりと見る門屋の目線に気づいたのか、「…門屋さん、忘却課ウチに来て後悔してる?」顔はネオンの影になってよく見えないが、深刻そうな声を漏らす。「…別に、してませんよ。元々クソみたいな生き方でしたから。むしろ課長には感謝してますよ、ホント。」門屋は顔を上げ、いつの間にか目の前に現れていた葬儀社の建物の中に入っていった。男はしばらく外で待っていたが、門屋が出てくるのを見て「そうだ、門屋さん。ご飯食べに行かない?」肩に手を置いて微笑むと門屋は「え…もう食べたんですけど。」困ったように眉を下げるが、男は構わず「あはは、あんなのご飯じゃないって。そんなこと言ってたら麗さんの手料理食べさせるよ?」と軽くあしらう。手料理、と聞いた門屋はあからさまに嫌そうな表情で「げ、麗さんの手料理美味しいけど量多いんですよ…よく毎日あんな量食べられますね、課長。」と苦笑いを浮かべるが「あれは努力だね。で、門屋さん何食べたい?」男が全く話を聞いていないのを悟ったらしく、「…じゃ、中華にしましょ。ここら辺に美味しい店あるんですよ。」くるりと踵を返すと先導するように走り出す。


―警察庁刑事局異能班忘却課―

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