第4話 誰かのために生きられるなら

有る日本の有名な流行歌に、「誰かのために生きられるなら」という歌詞がある。そのとおりに生きられたら、そんなに嬉しいことはない。それができるというのは、自分が満たされていて、幸せなときでも有るから。

その日も、これからの生活をどうしようかと思いながら、ミゲルさんは食事をしに食堂へ行った。

「おはよう。」

と、ミゲルさんが、娘のジュディに、声をかけると、ジュディは、オーブンの前でなにかやっていた。何をやっていると思ったら、オーブンでパンをやこうと試みていた。

「何をやってるんだ。お前、オーブンレンジでトースト作れると思っていたのか。」

ミゲルさんは、彼女に急いで言った。

「思っていたわ。」

ジュディは当たり前のように答えた。この間もそうだった。大容量の洗濯機で、彼女は、寝間着一枚を洗っていた。そういう事は、ミゲルさんも、教えてきたつもりなのに、なんでそういう事が身についてないんだろうと、思ってしまった。勉強はできても、そういうことができてなかったら、生活していけないということを、誰も教えてくれないのだ。そんな中で、孫が生まれたら、ジュディは孫にどういう教育を施していくつもりだろう。ミゲルさんは、あーあとため息を付いた。

「いいか、パンを焼くのは、オーブンじゃなくて、ハンドトースターで焼くもんだ。ハンドトースターは、こっちに有るから、それを使うように。」

ミゲルさんは、呆れたというか、どうしてこうなってしまったのか、よくわからないという顔つきで、彼女にパンの焼き方を教えた。この間は、洗濯機の使い方を教えて、その前は、風呂掃除の仕方を教えた。そんなこと、身についていて当たり前と言われたら、何も知らない彼女には、たしかに酷というものだったかもしれない。

ミゲルさんが周りを見渡すと、料理を全くしたことがなかったらしく、他に何も作っていなかった。それでは、短い結婚生活の中、食生活はどうしていたのか、ときくと、全て百貨店の弁当や、スーパーマーケットで出来合いを買って賄っていたようなのだ。洗濯だって、コインランドリーに行ってお金を払えば、洗うのもすすぐのも、干してくれるのも、みんな機械がしてくれる。掃除だって、掃除機を使えば、ボタン一つを押して、きれいにしてくれる。みんな、自分の手を使わないで、衣食住なんでもできてしまうと思っている。もしかして、ジュディが結婚に失敗したのは、そういうことができなかったからではないかとミゲルさんは思った。

いずれにしても、朝食の作り方とか、そういうことを、皆教えなければならない。できないからと言って、彼女をバカにするような言い方はしてはいけないのだ。ミゲルさんは、卵を割って、それをフライパンに入れて、火にかけて、目玉焼きを作る。それを一つ一つ教えなければならない。これでは、もうすぐ孫が生まれるというのも、全然嬉しいという気持ちにはなれなかった。そして、パンを食べて、目玉焼きを食べて、お皿を片付けることもやらせて、それから、洋服を、洗濯機で洗うことや、風呂を、掃除することなども教える。ジュディは、今でこそ、静かに自分の指示に従ってくれるが、結婚して家を出ていく頃は、とても、静かに教えるなんてできることではなかった。何かいえば、うるさいとか、来ないでとか、そういうことを言われて、しまいには、家族と一緒に食事するのは嫌だから、別にしてくれという始末。そのとおりにしたら、毎日遅くまで帰ってこないで、遊び呆けた。家に帰らない日もしばしばあった。そして、そのうち、この人と、知り合ったので、結婚するんだとどこの人ななのか素性のわからない男を連れてきて、勝手に出ていってしまった。結婚して、向こうで幸せに暮らしているかと思ったら、こうして今戻ってくるのだから。本当に、彼女は何をしていたのだろうか。ミゲルさんは、彼女に、洗濯機の使い方を教えながら、これからどうなるんだろうかと不安な気持ちを隠せずにいた。

「お前、これからどうするつもりだ?」

と、洗濯物の干し方を教えながら、ミゲルさんは彼女に言った。

「さあねえ。どうしようかな。今は何も考える余裕もないかな。」

とりあえず彼女はそういうことを答えた。

「あのなあ、お前がここにいられるからって、いつまでもそれが続くわけではないんだぞ。それは、わかってくれるだろうな?」

と、ミゲルさんはいう。

「そうかも知れないけどね。それはわかってるわよ。でも、今は、そういう事は、考えられないかな。もうなんか、わたしの人生はおしまいだわ。今はこの世にもあの世にも、いらない存在ってことかな。」

ジュディは、小さな声で言った。娘の口からそういう言葉が出るなんて、そんな言葉を言わせるために、娘を育ててきたはずはないとミゲルさんは言いたかったが、それをぐっと抑えて、

「なぜ、そう思うんだ?」

と、理由を聞いてみる。

「お父さんにこんなこと言っていいのか、よくわからないけどさ。」

ジュディは、ちょっと恥ずかしそうにこう切り出した。

「わたしね、お母さんが家を出ていってから、お父さんの、お米作ったり、野菜作ったり、そういう仕事が、すごく嫌だったの。お母さんが出ていっても、ずっとそれをやり続けているお父さんがすごく嫌だった。そりゃ、野菜はたくさんとれたから、食べ物には不自由しなかったわ。でも、学校に行けば、クラスメイトのお父さんたちは、皆仕事に行ってるし、休日は、どこかへ連れて行ってもらったし。でも、うちは、野菜の世話が有るからって、どこにも行くことはできなかった。それが、家にお金が無くて、できなかったってことがわかったら、本当にお父さんのような生き方はしないって、心に誓ってしまったの。」

そうか。それで、家族と接触しないようにしていたのか。ミゲルさんはやっと娘の気持ちがわかったような気がした。

「それで、リセが終わってから、早くこの家を出たくて、結婚相談所に登録して、それでいい人を探したの。幸い、そういうところだから、直ぐに見つけてくれたけど、でも、あたしも、馬鹿よね。家を出ていきたいことばっかりに、家事とか全然できなかったから、相手の、ご家族から、すごく嫌味を言われてね。今更、お教室に通うと言うこともできないし、それで、相手の家を出てきちゃった。なんか、どこにも居場所がなくて、売春に近い事もやってたわ。それがバレたときは、相手からも家族からも怒鳴り散らされてね。あたしは、結局、自分で自分の居場所を全部なくしてしまったの。本当に馬鹿よね。なんで、こんなふうに、人生失敗しちゃったんだろう。きっと、もう世の中があたしのことを、いらないって言っているんじゃないかって、そう思ったのよ。」

「いや、お前が思っていることは、多かれ少なかれ、どんな子でも考えることだ。お前は、それを誰かに話すこともできなかったから、ただ、自分で考えて行くしかなかっただけだ。それだって、立派な経験になるよ。他にも、人生失敗するやつは、いろんなところに居るんだから。」

ミゲルさんは、娘の発言を、怒りや悲しみを堪えながら、そう受け取った。本当は、バカ野郎と怒鳴ってもよかったけれど、そういう事はしたくなかった。娘には、それしかできなかったのだ。それを責めてもしょうがない。だから、これからどうするか、それを第一に考えなければ、と思った。

「それよりも、孫ができて、これから、どうするかを考えなくちゃ。そのうちに赤ちゃん用品の準備もしようと考えているから、百貨店に行って、買いに行ってこよう。」

ジュディは、父親がそういう反応をしたことに、大いに驚いているようだ。昔の父親だったら、そういう事はできなかったはずだ。

「男の子か、女の子かは、あえて調べないことにしよう。それは生まれてくれてからのお楽しみ。そのほうが、より生んだときの喜びも、大きくなるものだ。」

それは、ジュディの母親への償いかもしれなかった。本当は、農作業を手伝ってくれる男の子がほしかったとミゲルさんの家族や親戚はよく言っていて、ジュディを生んだあと、産褥熱でそれ以上子供を作れなかった母は、それを、引け目に感じていた事は、ジュディも知っている。

「この、畑を継ぐとか、そういう事は考えなくていいから、それよりも、その子が何に興味を持って、それを極めていきたいかを、大事にしてあげような。」

「お父さんが、そんなこというなんて思わなかったわ。」

ジュディは、意外そうにミゲルさんを見た。

「わたしには、何もしなかったことを、反省してくれて居るのかな。」

確かに、孫にはそういう気持ちをさせないようにしようと反省できる余裕もある年になっていた。でも、孫を可愛がりすぎて、また彼女が居場所をなくしてしまう可能性もないわけじゃなかった。

「まあ、お前が、そういうことをちゃんと話してくれたから、お父さんも、反省しようと思ったんだよ。あのときは、お前を育てていくために、ひたすらに畑をやって、お前が嫌な思いをしているなんて、気が付かなかったからね。それに、お前が正常に学校へ言ってくれていれば、それでいいという、どこかおごり高ぶっていたところもあった。だから、そういうところは、ちゃんと謝らなくちゃいけないな。」

「いいのよ。お父さん。親が謝るなんて、家の家系では絶対ありえない話でしょ。」

ジュディが言う通り、ミゲルさんの家系では、親の言うことは絶対的であった。それは、ミゲルさん本人もそうだった。そういう暴力的なところもあって、農業をやっていたから、何も楽しそうではなかった。ジュディは、幼いながらもそこを感じ取っていたかもしれない。ミゲルさんも、ミゲルさんの父に、厳しく農作業を教えられて、暴力的なところがあっても、黙って生きていなければならなかったので。

「あたしは、子供が生まれたら、どこかに預けようと思ってるの。だってわたしは、親になれる自信なんてないわよ。だったら、保育園みたいなところに預けて、ちゃんと知識がある人に、育ててもらったほうがいいかなって。」

「そうだよなあ。お前がそうなっても、しょうがないよ。お前が人生失敗したのは、お父さんがそうさせてしまったようなところがあるからな。でも、お父さんは、それでは行けないと気がついて、これからはそういう事はしない様にしていくから、お前には、産んでほしいと思っているよ。」

ミゲルさんはジュディに言った。

「でも、わたしが、母親として教えられることはなにもないわ。第一、子供が自慢に思えることが何もないのよ。」

ジュディがそう言うと、

「じゃあ、その自慢を、一回だけ作ってみないか?」

と、ミゲルさんは父親らしく言った。

「お前は、子供の頃の作文で、誰かの役に立ちたいと描いていたことは、お父さんもよく覚えているよ。だったら、お前のからだと子供のからだをつないでいる、臍帯というのかな、その血液を欲しがっている人が居るから、それを、彼に提供してやってくれないかな?」

「ど、どういうこと?」

と、ジュディの目が、ちょっと変わった。

「ああ、家で取引をしている、入れ墨師のモームさんという方のところで暮らしている人だそうだが、なんでも、肩書はピアニストだったそうだがね、実際は、大道芸人のようなことをやって暮らしていたらしい。お前だったら、何もしないで死なせてやったほうがいいと思うかもしれないが、彼の場合、愛してくれている人物が存在していて、生きるのを望んでいる人が存在する。だから、ちょっと、協力してもらえないだろうかな。できるのは、お前だけだよ。臍帯を持っているのは、お前しかいないんだから。」

「そんな人、」

ジュディは、少し考えているような顔をした。

「お前だったら、わかるんじゃないのか?愛してくれる人が、存在するってことが、どんなに嬉しいことか。そのためにも、お前も協力してやってくれ。」

ミゲルさんに言われて、ジュディは、そうね、と一言だけ言った。

「あたしは、愛されなかったけど。」

「そうだよ。だから、お前だって、その人から、感謝されれば、また人生観とか変わるんじゃないのかな?」

「そうね。どうせ、いらないものになるんだったら、誰かにあげちゃってもいいのかな。その人は、どんな人物なのか、あってみたいわね。」

ミゲルさんは、急いで固定電話機をとった。そして、電話帳を取り出して、モーム家の固定電話番号を確認してかけてみる。

「何!提供者が出た!?」

杉ちゃんは、持っていたカレーのさじを落としそうになりながら言った。

「まあまあ、落ち着いて。まだ決定というわけではないからね。とりあえず、本人にあってみたいというので、明日の朝、うちへ来るそうだ。」

マークさんは、杉ちゃんにいうと、

「わあ!やったぞ!バンザイ、バンザイ!で、その提供者というのはどんな人物なんだろうな?」

杉ちゃんはもう嬉しそうな顔になっている。

「まあ杉ちゃん落ち着いて。ちょうど、お米を買っていた農家の娘さんだよ。もうすぐ赤ちゃんが生まれるそうなので、その好で協力してくれるそうだ。」

と、マークさんは言った。トラーとシズさんは、病院に出かけていたので、その場にいなかった。いないほうが良かったのだ。もし、彼女がいたら、止めるのに更に大変になる。

「まあいい。そいつが現れてくれたら、僕たちは泣いて大喜びだよ。よかったなあ、これで水穂さんものぞみが出てきた。」

といって杉ちゃんはカレーを急いでかきこんだ。こうなってしまったら、取り消しなんてできないよなあとマークさんは思った。

そして翌日。朝の9時ころ、モーム家のインターフォンが音を立ててなる。マークさんはどうしても切れない仕事があったので、代わりにチボー君が通訳を務めることになった。トラーとシズさんは、彼女の部屋で待った。本当は、トラーも立ち会いたいと言ったが、女同士のガチバトルを病人の前でしては行けないとシズさんが言ったため、立ち会わない事になった。

「こんにちは。あの、磯野水穂さんは、こちらにお住まいでしたね?」

ミゲルさんは、できるだけ気軽な気持ちでいった。

「ああ、居るよ。おまえさんが、提供者になってくれる女性だな?」

と、杉ちゃんに言われて、ジュディはちょっと話に詰まってしまう。チボー君が、言葉は乱暴でも杉ちゃんは悪い人ではないというが、反応に困ってしまったようだ。

「じゃあ、その方にあわせていただけないでしょうか?」

と、ミゲルさんが言うと、

「おう、待っていたよ。入れ。」

と、杉ちゃんは言った。チボー君の通訳を通して、二人は中にはいった。そして、お邪魔しますと言いながら、水穂さんのいる客用寝室に向かう。

「水穂さん起きてくれ。こいつが、お前さんのことを助けてくれる女性だよ。ほら、挨拶しろ。」

と、杉ちゃんは、水穂さんのからだを揺すって起こすと、水穂さんはやっと目を覚ました。そして、布団の上に起き上がろうとしたが、ちからがなくてそれはできなかった。

それと同時に、ジュディが、なにかいう。

「何を言っているのかな?」

と杉ちゃんが言うと、

「はい、なんておきれいな人なんでしょう、と。」

と、チボー君が言った。

「そんな事はどうでもいいんだよ。それよりも、お前さんが、なんとかしてくれるって言うから、こっちは、ものすごく感謝しているからね。ほら、水穂さんも、なんとかしてもらえるんだぜ。ありがとうくらいいいな。」

杉ちゃんが急いでそう言うと、水穂さんは弱々しく、

「いえ、もう、諦めました。僕みたいな人が、こういう善意を受け取れる資格なんてありませんから。」

と言った。これは通訳なしで、ジュディや、ミゲルさんにも通じた。

「資格がないって、あなたは、あたしたちよりずっとすごいんじゃないですか。ピアノが弾けて、そこまでおきれいな方だったら、困ったことなんてないのでは?」

と、ジュディが言うと、

「いえ、そんな資格ありません。そういう身分なんです。」

水穂さんは弱々しく言った。

「逆にこれで良かったと思っているんです。このままここで静かに死んでいければそれでいいって。それで良かったと思うことにしています。」

「あのなあ!馬鹿なこと言うんじゃないよ!お前さんが、よくなるのを待っているやつはいっぱいいるよ。少なくとも、僕も居るし、蘭も、ブッチャーも。それだけではなく、ここにはトラーさんや、シズさんだって居るだろう。本当に、お前さんがしていることは、そう奴らへの裏切りだ。それは、ちゃんとわかってくれないかな!」

と、杉ちゃんが、チボー君の通訳を聞いて、でかい声で怒鳴った。口調こそ乱暴な感じだけど、それは水穂さんのことを、しっかり考えていっている顔つきであった。

「わたし、この人の役に立ちたい。」

ジュディがいきなりそう言うので、一瞬、チボー君も通訳を忘れてしまいそうになった。

「はあ、やってくれるのか?」

と、杉ちゃんが言うと、

「はい。」

と、ジュディは、しっかり頷いた。

「だって、一人の人を動かすのだってどんなに大変か、わたしは、よく知っているし、この人は、それをいろんな人に、成し遂げているんだって、そう言っているから。」

チボー君の通訳を聞いて、杉ちゃんは男泣きに泣いた。

「どうもありがとう!ありがとう!百回言っても足りないくらいだよ!本当にありがとう!」

そう言って、ジュディの手をがっしりと握りしめる杉ちゃんに、

「ええ、よろしくおねがいします。」

とジュディは言った。水穂さんが、あまり嬉しそうではないことに、チボーくんはちょっと気になったが、それは言わないで置くことにした。

「それでは、僕、ベーカー先生に連絡しておきますよ。それにしても、人との出会いで、決まるということは、嬉しいでしょうね。本当に良かった。」

とりあえずそれだけ言っておいた。







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