第3話 蘭、大いに怒る

その日も、トラーはまた外へ出ていろと言われて、シズさんと一緒に外へ出ていた。

「こういうときには、あたしみたいな人は、邪魔なのかな。水穂のこと、あたしは、こんなに愛して居るのに。」

トラーは、公園を歩きながら、シズさんに言った。

「そうねえ。その気持もわからないわけじゃないけど。」

と、シズさんは静かにため息を付く。

「あたしたちは、こういうときにはいては行けないって感じなのかしらね。」

「あまりにも、感じやすいと、自分が辛くなって、あなたが耐えられなくなるから、その考慮なんじゃないかしら。それだけのことだと思うけど。邪魔だとか、弾き飛ばされたとか、そういう事は、考えないほうがいいわ。でも、悲しいのよね。あたしも、単にロマだからと言われて、大事な場所に立ち会えなかった事は、いっぱいあるし。」

シズさんは、トラーに言った。そういう事は、シズさんのような経験者でないと、わからないことでもあった。

「そうやって、お前はいらない人間だって、言われてしまうことほど、辛いことはないもの。」

「そうよねえ。」

シズさんの話にトラーは、悲しそうに言った。

「そして、こういう事は、同じことを経験しないと、本当に理解してはもらえないのよね。」

「水穂、どうしているかな。また、ベーカー先生を呼んだようだけど。苦しいでしょうね。」

トラーは不意に言った。

「きっとそうだと思う。あたしたちも、そういう気持ちになったこと有るから。人間って不思議よね。弾き飛ばされて寂しい気持ちにもなるけれど、同時に、優遇されると、申し訳ないという気持ちになるのよ。水穂さんもそういう気持ちなんじゃないのかな。わたしも、きっとそうなると思うわ。きっと、わたしが助けてもらっても、他の仲間は助からないってことも知ってるから。水穂さん、それに負けなければいいけれど。」

「シズさん、あたしたちは、どうしてあげたらいいのかしらね。あたしたちは、結局何もできないで終わっちゃうのかな。あたし、水穂には、あたしが居るんだって、気がついてもらえたら、嬉しいことはないわ。」

そういうトラーに、シズさんは、彼女は水穂さんのことを本気で愛しているんだと思った。

「少なくとも、ミゲルさんの娘さんとは、違うわね。」

とりあえずそれだけ言っておく。

「きっとそれくらい強い思いがあれば、水穂さんのことを、ずっと支えていくこともできるのではないかしらね。あなたの良いところは、そういうところで発揮できると思うわよ。誰より強く感じることができる人は、そういうことができるの。今の人は、あまり感じるということをしないから。だから、ちょっと困難に直面すると、すぐ逃げてしまうことができるの。でも、おそらく、あなたはそうはならないと思うわ。それだけは、自信持ってね。」

シズさんは、トラーに言った。そういうことができるのを、どこかで発揮してくれればいいなと思うのだった。でも、衣食住全部ののぞみがかなってしまう現代社会では、感じやすい人は、迷惑な存在にすぎないと取られてしまうのだ。その証拠にトラーも高校でいじめられた。そういう事になってしまって、結局社会から弾き飛ばされてしまう。

「なにか、あなたの思いを表現する媒体が有るといいわね。あなただけで楽しめるだけでもいいわ。それが有るだけでもだいぶ違うと思うわよ。もし、可能であれば、小説でも描いてみたら?」

「そうねえ。あたしに、文章の才能があるかしら。」

「才能とかそういう事はどうでもいいのよ。自分の思いを自分の中で溜め込んでおくしかなくて、どこにも表現できるものがないほど、辛いことはないもの。あたしたちと違って、表現の自由が制限されているわけでもないんだし。何か、やってみたらどう?」

「そうかあ、、、。」

シズさんに言われてトラーはなにか考え込んだ。

「確かに、わたしが何を言っても、聞いてくれる人なんて、いないもんね。それだったら、文章に描いて表現するのもいいかもしれないわね。」

「そうよ。それに技術も何も要らないで、しっかり、自分の言いたいことを表現できれば、他人にも伝わるわ。あたしたちは、そういうところに投稿することはできないけど、あなたなら、雑誌の文章募集とか、そういうことに応募してもいいんじゃないかしらね。」

シズさんの言い方は、吐き捨てるような言い方ではなく、トラーのことを本気で心配しているという言い方だった。こういうときには言い方というものも重要だ。もし、バカにするような言い方だったら、彼女はより社会との接点を失うことになる。シズさんは、そういう言い方をしなかった。そうだったから、トラーも、なにか考えることができた。

「そうねえ。やってみようかなあ。あたし、リセも何も出れなかったけど、文章角には、年齢制限もないわけだしねえ。それに、あたしも、水穂への思いをいくら表現しても無駄だって言われても、どうせ自分の中にしまい込んではおけないし。誰も聞いてくれる人もないなら、そういうふうにしてもいいわね。」

トラーは、シズさんに言われて、そうつぶやいた。シズさんは、にこやかに笑って、彼女の悩みに何も干渉しないで黙ってあげた。

一方、日本では。久しぶりに大きな台風が杉ちゃんの住んでいる静岡県にもやってくるという噂が流れていた。そうなると、蘭たちは、台風がやってくる前日に、製鉄所に避難させてもらうのが恒例になっている。蘭は、その日、荷物をまとめて、福祉タクシーで製鉄所に連れて行ってもらった。妻のアリスは、知り合いのところに泊めてもらうから大丈夫と平気な顔をして言っていた。

蘭が、タクシーを織りて、製鉄所の正門をくぐると、

「あ、蘭さん、台風で特別警報がでる可能性は減ったそうですよ。」

と製鉄所を利用していた女性が、蘭に言った。いつもなら、利用者さんたちは、自分を歓迎してくれるのに、今回はなぜか冷たい雰囲気が出ていると蘭は思った。

「わざわざここに来なくてもいいんじゃないですか。もう特別警報がでるという可能性はないそうですから。」

と、別の利用者がそういうことを言った。

「なんで、そういうことを言うのかな?」

と蘭は、彼女たちに聞いてみる。製鉄所を利用しているのは、八割くらいが女性であるが、女性というのは、なかなか完璧に隠し事はできない性質がある。

「なにか、僕に隠していることが有るんだな?」

と、蘭は彼女たちに言った。彼女たちは、もう自分たちでは隠しようがないと思ったようで、

「じゃあ、中に入って確かめて来てください。」

と、彼女たちは、そういった。蘭は、言われなくてもそうするよと言って、製鉄所の段差のない玄関から中に入った。

「おい、なんでピアノの音が聞こえないんだ?水穂はどこに行った?病院でも行っているのかな?」

と蘭は急いでいうと、

「嫌ですねえ蘭さんは。特別警報の可能性はなくなったのに、やっぱり来たんですか。ただの警報くらい大したことはありませんよ。それなのに、やっぱりこっちへ来るなんて、災害なれもしないとやっていけませんよ。」

と、応接室からジョチさんが出てきて、蘭に言った。

「水穂さんなら、杉ちゃんと二人でフランスへ行かれました。そっちで、治療してもらえるそうです。」

「何!」

ジョチさんの話を聞いて、蘭は声をあげていった。

「まあそうカッカしないでくださいよ。だっていいことじゃありませんか。災害だらけでいつも気に病まなきゃ行けない国家に居るより、安全なところにいさせてあげたほうがいいんじゃありませんか。幸い、水穂さんは、マークさんと一緒に安全に暮らしているそうですよ。何でも、親切なロマの家政婦さんが、丁寧に世話してくれるそうです。医療関係だって、日本よりずっと進んでいるでしょうからね。良かったじゃないですか。そういうところへ、来てくれと言われるんなら、お言葉に甘えてもいいのでは?」

「お前がやっているのは、水穂の寿命を縮めることだ!それに、ジプシーに世話をさせるなんて、どういうつもりなんだよ!」

蘭は、思わずそう言うと、

「蘭さん、そういうことを言うのが、それこそ偏見ですよ。蘭さんは、水穂さんの事は、友達として大切にするくせに、ロマの家政婦さんがいてくれるということには、そうやって怒るんであれば、それなら、一般の人とまるで変わりませんよ。そういうところから言うと、蘭さんは、少数民族に対して、何も寛大ではありませんね。そういうことでしょうが。」

ジョチさんは、蘭に向かってそう返した。

「僕が、寛大とか、そうではないとか、そういう事はどうでもいい。お前は、水穂を日本から排除して、手の届かない海外に送り出すことによって、自分の負担を減らしたいだけだ。そういうことだろう。違うか!」

「ええ、違います。僕も須藤さんも、彼のことを思って、マークさんたちに託しました。蘭さん、よく考えてくださいよ。水穂さんを救急車で搬送したとしても、同和地区の人をうちの病院に入れたくないとか、そういうことを言われて、追い出されることくらい、ご存知でしょう?」

ジョチさんに言われて蘭は、更に怒った顔をする。

「だから、そういうことのない国家に送ったわけです。そうしなければ、水穂さんは、安全な治療は受けられません。日本にいたら、いい加減な治療しかされないで、結局、治らないままで居ると思いますよ。だったら、そういうことがないところに送り出してあげるのも、彼への思いというものでは有ると思うんですがね。僕が、楽をしたいとか、水穂さんを排除したいとか、そういうことを、いつ言いましたでしょうかね?」

今回も、波布とマングースの勝負は波布の勝ちだった。

「でも、あいつは、向こうに行って、寂しいとか、そういう気持ちを感じないだろうか?」

蘭は、ジョチさんに負け惜しみをするような気持ちでそう言うと、

「さあどうですかね。水穂さんの性分だから、ゆっくり羽を伸ばすということはできないでしょうね。でも、少なくとも、同和地区の奴らがどうのという人は、一人もいない国家に行っているわけですから、医療従事者はちゃんとやってくれるんじゃないかな。」

と、ジョチさんは言った。

「せめて、僕ができる援助でもしてやりたかった。お前が、水穂を盗んでマークさんに売りつけてしまう前に。」

と、蘭が言うと、

「蘭さん、そういうときはね、もうマークさんたちにおまかせして、水穂さんが元気になって帰ってくるのを待ってあげるのも、彼への思いやりというものではないでしょうか。僕は、そう思いますね。マークさんたちが、彼を邪険に扱うことはしないと思いますよ。そういうわけですからね、僕のことを泥棒呼ばわりはしないでもらえないでしょうかね。」

と、ジョチさんは言った。

「定期的に、国際電話をよこして、水穂さんのことを話してくれますよ。水穂さん、何でも、臍帯血移植をやってもらうことになったそうです。まあ、日本と違って、そういうものを提供するのに躊躇する人は少ないから大丈夫だとマークさんは言ってました。まあそれは認めますよ。ヨーロッパでは、移植医療は盛んに行われていますからね。」

「何!なんでまたそんな危ない橋を渡ろうとするんだ。そんな、大胆なものをあいつが耐えられる体力はあるだろうか?」

「蘭さん。あなた、まるで水穂さんのことをすべてわかっているような口ぶりですけど、あなたが水穂さんにしてやれることは、何もありませんから。それを、ちゃんとわきまえてから言ってくださいね。」

ジョチさんに言われて蘭は、がっくりと落ち込んでしまった。

「でも、ああいうものは、提供者、つまりドナーを探すことにえらい時間がかかりすぎてその間に逝ってしまうことだって、有り得る話じゃないか、、、。」

「まあそうですけど、それはあくまでも日本国内の話ですよ。ヨーロッパでは個人の意識もまた違うでしょうし、そういうことに抵抗のない人のほうが多いって聞いてますから。大丈夫ですよ。信じて待っていましょう。」

「確かにそうなんだけど、僕の心配はどうなるんだ。どこにも届かないってことじゃないか。」

蘭は、ジョチさんにそう言われて、悔しそうに言った。

「お前の言っていることは、自分たちの生活のために、弱っている水穂を、受け入れてくれる国家に売り払ったということだ。つまり、水穂は、ここを追い出されたってことになるんだよ。しかも、ジプシーが世話をするなんて、なんというかわいそうな。それに、大変危ない橋をわたらせて、本人が逝ったら責任を転嫁するようなことまでして、お前のすることは、きれいなことに見えて、実は汚いやり方だ。共産党系のお前がしそうなことだ。僕は、お前が擁立している立候補者には絶対に投票なんかしないからな!」

「どうぞ、どなたにでも入れてください。まあ、今の内閣支持率は下がる一方ですから、選挙の結果はどうなるかわかりませんけどね。」

蘭が最後を嫌味っぽく言うと、ジョチさんは、蘭をちょっとばかにするように言った。確かにもうすぐ、任期満了に伴う市議会選挙があって、ジョチさんの結成させた政党からも、候補者が一人出るという噂があるのだった。でも、それはあくまでも噂であるから、真実と言えるかは不詳だが。

そんなことが、日本でおこっていることも知らないで、杉ちゃんたちは、ガブリエル先生の説明を聞いていた。とりあえず、ガブリエル先生の総合病院に通っている妊婦さんたちに聞いてみたが、日本の大道芸人に提供するとなると、みんな嫌がって逃げてしまうというのだ。

「はあ、水穂さんの何がいけないんでしょうかね?」

と、杉ちゃんが言うと、

「いやあ、その、なんといえばいいんですかね。もし、水穂さんのことを、もうちょっと美化していえば、またやる気になってくれますかね。」

ガブリエル先生は、マークさんの通訳を通してそういうことを言った。

「そんなこと言わないでいいからさ。なんとかして、水穂さんのことを助けようっていう気になるやつは、いないのか。」

もし、トラーが一緒に聞いていたら、テーブルを叩いて怒るだろうなと杉ちゃんは言おうとしたが、それはやめておいた。

「そうですねえ。結局、臓器とか、そういうものを提供するというのは、本人の意思にかかるものですからねえ。医者がこうしろとはっきりいえないんですよ。」

そういうところは、日本と西洋はまた違うところでも有る。日本では、場の雰囲気や状況で意思を曲げることは意外に簡単にできるのだが、西洋では、本人の意思を曲げる事はできないということになってしまう。

「でも、急を要するって言ったのは、お前さんだろ?それを今更、誰も提供者として名乗り出ないからやめるっていう、無責任なやり方は、許さんぞ。それは、水穂さんへの、人権侵害だ。それはわかるよな?」

と、杉ちゃんが言うと、

「そ、それはもちろんです。我々だって、患者さんを死なせてはならないことは承知しております。」

と、ガブリエル先生は、申し訳無さそうに言った。

「だったらさ。もうちょっと、真剣に取り組んでくれないかな。僕たちは、ただのバカンスでこっちに来ているわけじゃないんだ。それは、ちゃんとわかってくれよな。頼んだぜ。」

と、杉ちゃんに言われて、はいとガブリエル先生は言った。

同じ頃。一人で水穂さんの世話をしていたチボーくんは、水穂さんが、先程まで咳き込んでいたのを思い出して、大きなため息をついた。今でこそ眠っているが、先程は、咳き込んで大変だった。最近、毎日のようにこうなってしまうので、容態が確実に悪化している事は素人のチボー君にもわかった。こんなに、苦しそうなのに、提供者が出るのを待っていろ、と言われるだけで、水穂さんは放置されっぱなしなのではないか。チボーくんはそう思ってしまうのである。

「水穂さん、逆にこっちに来て、いい迷惑じゃなかったんじゃないですかね。」

思わず、チボーくんはそうつぶやいてしまった。なんだか、静かに眠っている水穂さんを見て、この一連の大騒動の、一番の被害者は誰なのか、考え込んでしまうくらい、水穂さんは良くなかった。とりあえず、薬で眠れるのならいいのかもしれない。それなら、余計なことを考えないで済む。

「水穂さん、とりあえずはよく眠ってくださいね。今の所、それができるのが、唯一の救いですよね。」

チボーくんは、小さな声で言った。

「日本に帰りたい。」

不意に細い声が聞こえてきたので、チボーくんはびっくりする。自分と水穂さん以外に、この部屋に居る人物はいないから、間違いなく水穂さんの言葉であるはずなのだが。水穂さんは、眠っているはずだ。

「水穂さん、今なにを言いましたかね?」

と聞いてみるが、反応はなかった。やっぱり水穂さんは眠っている。そうだよな、席ほどガブリエル先生が薬を飲ませて、しばらく目を覚まさないと言っていたよなあと考え直した。しかし、今の言葉は、寝言であるにしても、真実を語っているに違いなかった。

「そんなこと、思わないでくださいよ。僕たちは、日本に居る時以上に、世話をしているつもりなんですから、こっちに居るときは、日本でいじめられたりしたことを忘れて、のんびりしてください。」

と、とりあえずいうが、水穂さんには届かないだろうなと思った。水穂さんが、こっちでのんびりするなんて、いくら言っても本人には届かないだろう。そんな事はわかっているけれど、でも、こっちに来たからには、思いっきりのんびりしてほしいなとチボーくんは思うのだった。

「きっと、杉ちゃんだって、お兄さんだって、トラーも、シズさんも、同じことを考えていると思います。」

とりあえず、それだけ言っておいた。そこだけは、本人に必ず伝えておきたいことでもあった。たとえ、言語が違うとか、民族が違うとか、そう言うことがあっても、関係なく、だ。



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