第2話 誰かの役に立ちたい

その日もトラーとシズさんは、また公園を散歩していた。トラーは一度爆発すると収束するのに多少の時間が必要なタイプだったから、収束させるためには、静かな場所を歩かせて、静かに親切に真実を語るのが一番いいのだった。

「水穂さんの、治療を手伝ってくれる人を、探し始めたそうよ。」

シズさんは公園を歩きながら、静かに言った。

「ベーカー先生は、総合病院の妊婦さんたちに、聞いて回っているらしいわ。その中で、誰か一人、提供者になってくれる人が現れたら、いいわね。」

「そんなこと言ってる場合じゃないわ。」

トラーは、シズさんの話にそういった。

「はやく名乗り出てもらわないと、水穂、待ちくたびれるわ。その間にもしものことがあったら。」

「そうねえ。それはしょうがない事というか、我慢して待たなきゃ行けないことでも有るわよね。」

シズさんは、冷静にそう返した。そういうふうに冷静さを失わないところが、やっぱり年長者なのだと思われた。

「みんな、あたしのことを、いつまでも立ち直れない悪い女と噂しあっているようだけど、あたしは、知ってるのよ。ベーカー先生と、ガブリエルとかいう変な名前の医者が、一生懸命、提供者になってくれる、妊婦さんを探しているけど、ちっとも見つからないってこと。隠さなくたっていいわ。それくらい、知ってるんだから。」

「そうなのね。」

シズさんは、トラーの話に、軽く頷いてあげた。

「まあ確かに、難航してるのよ。水穂さんに、本気になって、臍帯血を提供しようと言う人は、なかなかいないのよ。そりゃ、たしかにそうよね。何も知らない人に、しかも、日本人に、自分の一番大事な人のものをあげるんだもの。躊躇したって当然のことよ。」

「みんな、誰かの役に立ちたいとは、思えないのかな。」

と、トラーは、はあと大きなため息を付いた。

「誰かの役に立ちたいか。そんな気持ちが湧いてくるのは、同じ民族に対してだけだわ。例えば、私達を見ると、態度が変わるというのは、そういうことでしょう。普通の人達には、人助けをしようとか、そういう気持ちになるけど、ロマには、適当に扱って於けばいいって、そうなるでしょ。」

シズさんは、静かに言った。

「そうなのね。あたしは、そんなこと、関係ないと思っていたんだけど、他の人たちは、そうは思わないのかあ。」

「まあねえ、ヨーロッパはいろんな人がいるけれど、みんなそれぞれの民族の血をひいていて、その血を、維持していきたいという気持ちがあるんじゃないかしらね。それは、どこの国へ行っても同じよ。日本でも、ヨーロッパでも。」

シズさんは、トラーの話をそう受け取ってあげた。

「でも、あたしは、いくら民族が違っても、それを飛び越えることはできるって、信じてるわ。それは、あたしがそうしようとしているって、思っているから。」

トラーは、シズさんの言うこととは、正反対のことを言っていた。シズさんは、若い人って、そうなるのよね、とだけ言って置いた。

「それより、水穂どうしているのかな。ちゃんと、薬は飲んでいるのかしら。」

「ええ、ベーカー先生も、心配だからといって、毎日来てくれて居るし、お医者さんにまかせて於けば大丈夫よ。」

と、シズさんはいうが、

「そうかしらね。シズさんが言うことが本当だったら、民族が違ってたら、医療従事者だって、水穂のことないがしろにするんじゃないかしら?」

と、トラーは疑い深く言うのだった。

「側にいてあげたいの。一人、そういう人間がいたっていいじゃないの。水穂のそばに付いてあげる人間が。」

「トラーちゃん。そうだけど、水穂さんのそばに付いていたら、あなたのほうが辛くなっちゃうかもよ。彼は、今そういう状態なの。あなたが辛い思いをしているのを、水穂さんが、近くで見てたら、水穂さんも辛いでしょう?」

「そうかしら。」

シズさんの一言に、トラーはそれを打ち消すように言った。

「あたしは、見せてもいいと思うの。だって、そうやって自分のことで悩んでくれている人間が一人いると気がついてくれれば、水穂だって、治ろうとする意思を持ってくれるのではないかなって、そう思うの。」

「そうなのね。そういうことを考えられるって、トラーちゃんはある意味すごいかもしれないわね。あたしたち一般の人にはとてもできない。それは、もしかしたら、宗教とか、そういうところに、つながって行くかもしれないわよ。トラーちゃん、そういう仕事に付けばいいんじゃないかな。一般的な企業に就職できなくても、他人を癒やして行く仕事につくことはできるかもよ。」

と、シズさんはトラーに言った。

「そうかあ、他人を癒やすかあ。あたしが、そんなことを、やれるかもって、そんなこと、できるのかな。」

「ええ、自分のことだけじゃなくて、誰かの役に立ちたいって言える人は、そういうことをしてくれるものなのよ。」

シズさんは、にこやかに笑った。

「あなたは少なくとも、わたしたちのような、不利な民族でもないんだし。それがいくらでもできる環境にあれば、思いっきりやってみればいいんじゃないかしらね。」

「そうかあ。」

と、トラーは、そっとつぶやいた。

ちょうどその時、またシェパード犬を連れた、ミゲルさんが、向こうから歩いてきた。

「今日は。」

と、トラーも、シズさんも挨拶した。

「ああ、どうも。」

というミゲルさんに、

「どうしたんですか。なんか、浮かない顔してるわねえ。なにか嫌なことでもあったの?」

と、トラーは聞いた。

「いやあねえ。これからどうしようか、不安になってしまってね。もうジュディが結婚して、もう俺も悠々自適かなと思っていたんだが、かえってきてしまったので。」

ミゲルさんは同じことを言う。まだ悩んでいることも同じ地点のまま止まっているようだ。

「とりあえず、出戻りの娘さんなら、しばらく毅然とした態度で、一緒に暮らしてみればいかがですか?」

とシズさんがいうと、

「いや、こんなことを相談してもどうかと思うが、娘だけが帰ってきたわけじゃないんですよ。」

とミゲルさんは大きなため息を付いた。

「どういうことですか?」

と、シズさんがきくと、

「娘が、赤ちゃんも連れて帰ってきましてね。もうすぐ産み月になると言うんだが、そうなると、孫も一緒に暮らさなければならなくなるというわけで、これからの食費とか、どうしようかなと考えているわけで。」

と、いうミゲルさん。最近、こういうケースは日本でもよく見られるが、娘が一度結婚したからと言って、親はもう用無しになって、悠々自適という人は、少なくなってきている。

「全く、結婚するときは、わたしのことをこれだけ愛してくれているんだと言い張って、いざ、結婚して、子供ができるとなると、また変わってきてしまうんだな。それで、うまく行かなくなって、こうして戻ってきてしまうわけだ。」

「そうですね、わたしが若い頃は、ほとんどなかったことです。私達は、一度や二度の衝突で、直ぐに出ていってしまうような事はしませんでした。それはきっと、私達は、貧しかったからではないでしょうか。貧しかったから、自分たちでなんとかしなければならなかった。今の人達が、そうなってしまうのは、ある意味豊かすぎで、何でもほしいものは揃ってしまうからでしょうね。豊かになることは、嬉しいことなのかもしれないですけど、逆に怒りの感情を表現してしまって居るような、そんな気がしてならないんですよ。」

シズさんとミゲルさんが、年寄らしいそんな話をしているのをトラーは、真剣なかおをして聞いていた。

「わたしは、絶対にそういう事はしないから。」

と、彼女は思わずつぶやくのである。

「わたしは、水穂のこと、終わらないで愛せる自信があるわ!ミゲルさんの娘さんみたいに、すぐに人を捨てたりはしないから!」

「そうね。トラーちゃんは、つらい思いもしてきているし、もし、相手の人と衝突があったのなら、その辛いときのことを思い出せば乗り切られる事もできると思うわ。最近の若い人が、すぐ戻ってきてしまうのは、そういう経験の不足というのも有るわよね。トラーちゃんが、いじめられたり、学校にいけなくなったりした事も、決して無駄なことじゃなくて、必ずどこかで役に立つわよ。」

と、シズさんは、彼女を優しく励ました。そうやって、励ましてくれる存在がいると言うこともまた、立ち直るきっかけの一つだと思う。

「俺はとにかく、生まれてくる孫がかわいそうでね。父親なしで、母親とじいちゃんだけで育ったりしたら、赤ちゃんのときはいいけれど、いつかいじめられたり、されるかもしれない。それでは、かわいそうじゃないか。俺たちは、死んだ女房と一緒に、ジュディをそうやって、寂しい思いをさせないように育てたつもりなのに。」

「そうね。確かにそうかも知れないわね。お父さんとお母さんがいて、幸せに暮らして行けることが、どんなに幸せか。でも、悲しいことに、それが伝わるのは、年をとってからじゃないと、できないようになっているみたい。」

「本当だな。なんで、人間というのは、そのときにならないとわからないようになっているんだろう。」

ミゲルさんは、本当に困った顔でいった。

「ジュディだって、昔はトラーちゃんみたいな、繊細で優しい子だった。死んだ女房の手伝いも良くした。学校で、作文に誰かの役に立ちたいって、大げさに描いて、それを授業で発表したりすることもあった。でもな、ジュディが、思春期になって、だんだん、おかしくなってきて、お父さんとお母さんのようなやり方は、絶対にしないって言い出してね。何があったかは、何も話してくれなかったけど、結局、店の客と恋愛関係になって結婚して。それで、うまく行かなくなって、うちへ戻ってくるんだから、全く、何をやっているんだろうね。」

「そうね、子供のときは、何をしても、役に立ってあげられるような、そんな錯覚に囚われちゃうものなのよ。それがかなわないって知っていたら、そんな作文書きはしないわよ。それが大人だって、かわいいと思ってしまうんでしょうね。まあ、大きくなって、世の中のことが散々わかってきて、それができないってことに絶望して、それを乗り越えて進路を決定していくものだけど、それがうまくできない子が、だんだん増えているのかしらね。」

「あの、ミゲルさん、一つ聞いていいかしら?」

と、トラーは、ミゲルさんの話に突然割って入った。

「娘さんのジュディさんは、お客さまと言っていたけど、どこで働いていたの?」

「ああ、大した学校にも行ってなかったから、偉い仕事にはつけないで、ニースの酒場のような場所で働いていたそうだ。まあ、あそこは観光名所だからね。お客さんと知り合うことも有るだろう。それで、お客さんと意気投合して、結婚したんだが、結局、幸せになれないで、かえってきてしまった。俺たちも、困るが、一番困るのは、生まれてくる孫じゃないかな。お父さんなしで、どうやって生きていけるか、本当に娘というものは身勝手で。」

心配しているのは、人間だけではないようだ。ミゲルさんのそばに居るシェパード犬が、心配そうな顔をして、ミゲルさんを見つめている。

「子供の頃は、誰かの役に立ちたいなんて、そんなこと平気で言いふらしていた娘が、なんでこんなに人に迷惑を掛ける存在になってしまったんだろう。」

そういうミゲルさんに、

「そうなの。それじゃあ、その夢を半分だけ叶えてあげる。どうしても、臍帯血移植をしなければ、助からない男性が居るから、その人に、臍帯血を分けてあげてほしい。」

と、トラーは急いで言った。そうやって、大事なことを悪びれる様子もなく、何でもいえてしまうのは、彼女の性質なのかもしれないが、でも、誰かが行動しなければ、変わらないということは、シズさんも知っているから、あえて彼女のことを止めなかった。

「あたしが、嘘を言っていると思う?あたしは、そんなこと言ってないわよ。名前は、水穂。日本人よ。」

トラーは、何も飾らずに、水穂さんのことを紹介してしまう。

「はあ、日本人がどうしてこっちに来て居るのかな?」

ミゲルさんがそう言うと、

「シズさんみたいに、人にバカにされたり、いじめられたりしていた民族だったから。」

と、トラーはすぐに答えた。厳密に言うと、彼女の解釈は間違っているのであるが、そう解釈したほうが、わかりやすいかもしれなかった。

「日本というところは、異民族はいないと聞いているんだがね。」

と、ミゲルさんはいうのであるが、

「ええ!そんなことはないわ!この世には、理想の世界なんかどこにもないわよ!」

と、トラーは声をあげて叫んだので、ミゲルさんは彼女のその発言と、彼女が持っている色っぽさに、びっくりしてしまった。

「お願い。そういう気持ちがあるんだったら、それ、実行させてやったほうがいいと思うわ!」

トラーは、ミゲルさんに頭を下げた。シズさんも、彼女に連れて、

「お願いします。」

と、ミゲルさんに頭を下げる。

「そうはいってもねえ。日本では、何をしていた人なんだろうな。まさか犯罪者とか

そういうわけではないだろうな。民族的に、そういう人が居るんだったら、それも考えられるし。」

と、困った顔をしているミゲルさんに、

「水穂さんは、ピアニストでした。」

と、シズさんが、静かに説明した。

「わたしは、詳しく知らないんだけど、ピアニストというより、大道芸人といったほうが、近いものだと思う。いえ、もっと正確に言えば、ピアニストではなく、大道芸人しかなれなかったのよ、日本では。だから、こっちへ来ているんじゃないの。」

「大道芸人、、、。」

と、ミゲルさんはまた考え込んでしまう。

「そんな人物がトラーちゃんの恋人になるとは、またすごい組み合わせだな。」

「そんなことどうだっていいわ!わたし、彼のことをなんとかしたいと思ってる!そのために、なにか必要だったら、なんだってするわ!それでいいでしょう!」

トラーはミゲルさんに詰め寄る様に言った。その表情が、彼女特有の色っぽさというか、やっぱりこれは、美女の特権だと思うのだが、とても、印象に残る表情だったので、ミゲルさんは、

「わかったよ。トラーちゃん。ちょっと、ジュディにも言ってみるよ。」

と、とりあえず言った。じゃあ、これでとシェパード犬を引き連れて、トラーたちの方から離れていった。それにしてもトラーは、自分の顔を鏡で見たことはあるのだろうか。その美貌を武器にしているのか、それとも彼女本来の気持ちでそう言っているのか、よくわからないところがあった。それは、マークさんも、よく言っていたことでもある。

とりあえず、長居をしすぎてしまったので、シズさんとトラーは、家に帰ることにした。

一方、モーム家では。客用寝室でまた水穂さんが苦しんでいた。横向きになって寝ているが、苦しそうに咳き込んでいる。杉ちゃんも、呆れるどころか、真剣な顔になっていた。とりあえず、ベーカー先生がそばに付いているが、

「おい!いい加減にしてくれ!なんとか止める方法はないもんですかねえ!」

と、杉ちゃんがでかい声でいうほどである。

「そうですね。ずっと安定しているとは、思ったんですが、もしかしたら、それが裏目に出たのかな。」

通訳としてやってきたチボーくんは、水穂さんの顔を見て、そういうことを言った。

「なにか理由でもあったのかな。僕たち、変なもの食わしたとか、そういうことなんだろうかね?」

と杉ちゃんがきく。チボーくんはシズさんがノートに記録している言語が、シズさんの言葉でなければ、見せられるのになと思った。

「いずれにしても食べ物が原因とか、原因探しをするのはやめましょう。それは、彼にも良くないことでもありますからね。」

チボー君の通訳を通じて、ベーカー先生は言った。

「それに、なんとかという治療法は、本当にできるのかな。あれから、何も連絡がないじゃないかよ。これだけ放置されているとなるとさ、僕たち捨てられちゃったのかなとか、考えることも有るよ。」

と、杉ちゃんが言うと、ベーカー先生は、通訳なしで杉ちゃんが怒っていることを察してくれたらしい。申し訳無さそうな顔で、

「ごめんなさい。」

とだけ言ってくれた。

「いやあ、謝って済む問題じゃないよ。偉い奴らというのは、口ばっかりで、行動が伴わないやつが多いってのはよく知っているがな。おまえさんも、その一人かなって、疑っちまうわけだよ。」

と、杉ちゃんが言うと、当たりは急に静かになった。水穂さんの咳き込んでいるのが、やっと消えてくれたのだ。

「おい!」

と、杉ちゃんが怒鳴ると、ベーカー先生は、薬が効いたので眠っただけだと言った。チボー君の通訳を通してそれを知った杉ちゃんは、

「じゃあ、こんな汚れた布団で寝かすわけにはいかん。すぐ取り替えよう。」

と、眠っている水穂さんの枕を取り替えようとしたが、ベーカー先生がそれを止める。

「何をするんだ。汚くなっちまったから、取り替えようとしているのに、」

と、杉ちゃんがいうと、

「本人も疲れてしまっていると思いますので眠らせてあげてください!」

という意味のことをいうベーカー先生。

「そうか。本人を何よりも最優先するのが、こっちの習慣なんだねえ。」

と、杉ちゃんが言った。それを聞いたチボーくんは、日本人ってなんで人になにかしてやることを、美意識にしているんだろうと思ったけれど、それは口にしないでやめておいた。

水穂さんは、吐いた血液だらけの枕の上で静かに眠っていた。まるで、先程苦しんでいたことがどこかへ行ってしまったかのように眠っていた。

「本当に、早く水穂さんなんとかできるといいなあ。」

「いや、運を天に任せましょう。」

チボーくんは、杉ちゃんにそういうことを言った。今ごろはきっと、ガブリエル先生が、提供者を探してくれているはずだ。なにも情報は入ってこないけど、返事を待っているしかなかった。


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