第45話

 スヤスヤと寝息を立て始めた恋人の背中を確認して、エマは一人でこっそりとベッドルームを後にしていた。


 早歩きで廊下を歩いて、そのままベランダに出る。


 未だ明るい都会の夜景を眺めながら、情けないことにしゃがみ込んでしまっていた。


 「可愛すぎるんだけど…」


 慌てて自分の心臓に手を当てれば、トクトクときちんと音を立てている。

 

 「良かった…動いてる」


 可愛すぎて何度も胸がギュンと音を立てていた

ため、てっきり心臓が止まってしまったのではないかと不安になっていた。


 先ほどの、期待に満ちた愛来の瞳を思い出す。


 「……何してるんだろう」


 あの子は、きっともう覚悟を決めている。

 女性として女性に愛される覚悟を持って、もう一度この場所に帰ってきてくれた。


 そんな愛来をめちゃくちゃに可愛がる妄想をしていたからこそ、躊躇してしまった。


 いざ本番を前にして、エマは逃げたのだ。


 愛来は経験がないのだからと、初めては彼女が気持ちいいところを目一杯可愛がるつもりだった。


 性行為に嫌な印象を持たないように、とびきり可愛がってデロデロに溶かすつもりでいたのだ。

 

 しかしいざ本人を目の前にして。


 理性を抑えられず、自分が暴走してしまうのではないかと怖くなった。


 気持ちいいと泣く愛来を無視して、快楽を与え続けてしまいそうな気がした。


 大人として、まだ何も知らないあの子に変態な性的趣向をぶつけてしまうことを恐れてしまったのだ。


 「…絶対変に思われたよね」


 あれほど可愛がると宣言していたにも関わらず、初日に手を出してこなかったのだ。


 あの子のことだから、またネガティブに物事を考えていないだろうか。


 好きで、大好きだからこそ。

 傷つけるのが怖くて、大切にしたい。


 自分の臆病さに呆れながら、改めて愛来への愛の深さを痛感していた。







 あと数日で期限が切れる学生証を取り出して、ジッと見つめる。


 通っていた高校の学生証には『今年度の3月31日までは在学生とみなす』としっかり記載されていた。


 「…4月にならないと可愛がってもらえない…?」


 そこまで考えるが、恐らくそういう問題ではない。

 そもそも、31日までは在学生であることなんてエマは知りもしないだろう。


 一晩中考えても、どうしてエマが手を出してこなかったのか、その答えに辿り着くことはなかった。


 どうして、可愛がってくれなかったのだろう。

 禁欲し過ぎて、悟りでも開いてしまったのだろうか。


 「我慢し過ぎて、興奮しなくなったとか…?」


 セフレも呼ばず、アダルトビデオすら見なくなったエマ。


 我慢はとうに限界を迎えて、何か新たな境地に到達してしまったのか。


 色々な案を想像しながら一人で頭を悩ませていれば、ベッドルームの扉が開く。


 驚いて、咄嗟に学生証をスーツケースの中に仕舞い込んだ。


 「愛来、今日色々買い出し行こうよ」

 「う、うん…」

 「どうかした?」

 「なんでもない…すぐ準備するね」


 春物のワンピースに着替えて、軽く髪を巻いてからポニーテールをする。


 エマに可愛いと思われたくて飛びきりおしゃれをしたけれど、彼女にはどう映っているのだろう。


 大好きで堪らない恋人の考えが、愛来はちっとも分からなかった。

 




 この際、可愛がってほしいなら愛来から言えばいい。

 もう高校を卒業したのだから、言えばとびきり甘やかしながら体を絡ませ合ってくれるはずだ。


 受け身でばかりいてはダメだと分かっているが、そもそも何と言って誘えば良いのか分からないのだ。


 確か高校時代の友達は、彼氏に対して『シよ?』と誘ったり、ベッドでイチャイチャしていれば自然と行為になだれ込むと言っていた。


 仏頂面で考え込んでいれば、不思議そうな表情を浮かべたエマに顔を覗き込まれる。


 「どうかした?」


 エマが髪を耳に掛ける仕草に、一人でときめいてしまう。


 綺麗な彼女にこんな邪な感情を抱いている愛来に対して、エマは今何を考えているのだろう。


 「なんでもない…」

 「本当?それで食器さ、私も新しくしたかったから。一からお揃いの買おうよ」

 「そうだね…そういえば、ベッドも新しくしたんだね」

 「広い方がいいかなって」

 「けど、広過ぎてエマが遠い」


 モヤモヤとした感情をそのままにぶつければ、握られていた手に更に力を込められる。


 「…くっついて寝ればいいじゃん」


 頬が緩みそうになって、キュッと口角に力を入れる。こうやって何気ない触れ合いも良いけれど、愛来は直接エマに触れられたい。


 もう子供じゃないのだから、思い切り彼女の欲をぶつけて欲しい。

 身も心も、本当の意味でエマと一つになりたいのだ。

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