第32話


 紙袋を引っ提げながら、少しだけ薄暗い駐車場を歩く。


 配信予定時刻まで時間があまりないため、エマのマネージャーが車で迎えに来てくれることになったのだ。


 人気の殆どない駐車場を歩きながら、先程のエマの言葉を思い出す。


 タバコを吸わなくても大丈夫とはどう言う意味か。

 もう、愛来とキスをしたくないということか。

 それとも、また別の理由があるのか。


 尋ねるべきだと分かっているのに、一歩が踏み出せない。


 モヤモヤとした想いを抱えていれば、エマがピタリと足を止めたことで愛来も立ち止まった。


 「エマ…?」


 酷く驚いたように、彼女が一点を見つめている。


 一体何を見ているのか。


 視線の先を辿れば、買い物を済ませたと思わしき紙袋を持った女性の姿があった。


 よく目を凝らして、それが誰なのかに気づく。

 

 配信部屋に飾られていた写真の女性。

 

 津山恵の姿がそこにはあったのだ。


 

 信じられないと言わんばかりに、エマは目を見開いている。

 愛来もジッと固唾を飲んでいれば、先にこちらの存在に気づいたのは津山恵の方だった。


 一瞬だけ驚いたような表情を浮かべた後、津山恵は小走りでこちらに近寄ってくる。


 「びっくりした…偶然ね」


 高いヒールを履いていて、彼女が歩くたびにコツコツと音を立てる。


 すぐ側まで来た彼女は、髪を耳にかけながら甘えたような声を出した。


 「エマ、どうしてこの前私の電話無視したの」

 「なんで…何してるの」

 「ショッピング。子供は主人が見てくれてるの」

 「無事に産まれたんだ…」

 「心配してくれてたの?ありがとう」


 清楚な白色のニットに、フレアなロングスカート。

 

 いかにも男性ウケの良さそうな格好をした津山恵は、あの写真の通り可愛らしい顔立ちをしていた。


 穢れを知らなさそうな純粋な笑みで、彼女が残酷な言葉を吐き捨てる。


 「もう赤ちゃん産まれたから、私はいつでも大丈夫だから」

 「は……?」


 乾いた声を漏らしたのは、愛来の方だった。


 子供が産まれても、この人は関係を続けようとしている。自分本位に物事を考えて、エマやご主人の気持ちを蔑ろにしているのだ。


 津山恵という女性の強かさに、触れたような気がした。


 自分が無関係な存在であると分かっているのに、我慢が出来ずに気づけば声を荒げていた。


 「……いい加減にしてよ!」


 沸々と湧き上がる怒りを、抑えることが出来ない。

 ご主人を、エマを、自分の子供のことを、この人は何だと思っているのだ。


 好意につけ込まれて、罪悪感で押し潰されそうになっていたエマの姿を知っているからこそ、黙っていられない。


 好きな人を傷つけられて、尚も良いように扱おうとする津山恵を許せなかった。


 「エマがどんな気持ちで生きてきたと思ってんの…!好意利用して好き勝手して、自分は結婚して子供産んで、散々エマに酷い扱いしてきて…」


 エマの罪悪感に満ちた表情を思い出して、涙が込み上げてくる。


 両親から距離を置くほど、エマは彼女との関係を悔やんでいたというのに。


 この女は何も感じていない。

 罪悪感なんて皆無で、人の気持ちなんて何も考えていない。


 好きな人とデートをしたことがないと、悲しげに語っていたエマの姿。


 泣きながら彼女の名前を呼んでいた、彼女の寝顔。


 タバコを吸いながら遠くを見つめるエマの瞳を知っているから。


 「愛来、やめて…」

 「旦那さんの次は子供まで裏切るの?エマを散々傷つけておいて、また…」


 その先を続けるよりも先に、津山恵によって頬をぶたれていた。


 平手打ちで、ヒリヒリとした痛みに呆然とする。


 まさか手を挙げられるとは思わなかったのだ。


 「子供に何が分かるのよ」

 「……ッ」


 津山恵がもう一度腕を振り上げて、すぐにパシンと乾いた音が響いた。


 しかし痛みは感じなくて、咄嗟に瞑っていた目を恐る恐る開く。


 愛来の代わりに、ぶたれた頬を押さえていたのは津山恵の方だった。


 「愛来を傷つけないで」

 「……エマ?」

 「愛来、痛いでしょう。帰ったら手当てしよう」

 「え、エマ…?なんで叩くの…?どうしてその子庇うの!?その子が先に嫌なこと言ってきたのに…」


 泣きそうに、津山恵が顔を歪める。

 その顔を見ても、エマは表情を変えずに淡々と答えていた。


 「何も分からない子供に…昔の私に好き勝手して、よくそんなこと言えるね」

 「だって…私だって本当は女の子の方が好きで…女の子に抱かれている方が幸せで…」

 「でも今のご主人と一緒になる道を選んだんでしょう」


 紙袋を床に置いて、エマはポケットからあるものを取り出していた。


 最近は控えていた、津山恵から教えられたタバコの箱。


 禁煙の最中も、彼女はずっとタバコを持ち歩いていたのだ。


 躊躇うことなく、エマはタバコを津山恵の手に握らせていた。


 「……え?」

 「もういらないから」

 「何言って…エマは、私が好きでしょう」

 「好きだったよ。けどもう…好きじゃない。あなたがいなくてももう、生きていけるから」


 行こう、と手を取られて歩き出す。

 背後から大きな舌打ちが聞こえた後、車のドアが勢いよく閉まる音が聞こえてきた。


 その音に振り返らずに、愛来はエマと共に彼女のマネージャーの車に乗り込んだ。


 後部座席に並んで腰掛けてから、何も言わない彼女に声を掛けた。


 「…エマ」

 「なに」

 「…あの時のこと思い出して、苦しいの。だから…ギュッてしてほしい」


 それが所詮嘘であることを、大人な彼女はきっと気づいている。


 しかし何も言わずに、愛来に抱きついて来てくれた。

 

 震える彼女が少しでも落ち着けるように、優しく背中を撫でる。


 か細く苦しげな声から、エマが泣いていることに気づいた。


 「……後悔してないの。自分の選択が間違っていたとも思わない……けど、あぁ終わったんだなって…ずっと私を縛り付けていたものが、やっと…一区切りついたような気がして」


 長年エマを縛り続けた呪縛から、ようやく解放されたのだ。

 きっと手放しには喜べず、まだ完全に断ち切れたわけでもない。


 それでも必死に前を向こうとする彼女に、優しく声を掛けた。


 「…タバコの匂い…実は嫌いだった」

 「そうなの…?」

 「香水とか、お風呂上がりの香りとか…その方がエマには似合うよ。今日買ったお揃いの香水これからは毎日付けようよ」


 車が発進してもなお、エマの体をギュッと抱きしめ続けた。


 夜の街を走りながら、じんわりと涙が込み上げてくる。


 長年彼女を縛り付けていたものが解放されて、これでようやく眠りながら涙を流すこともなくなるのだろうか。


 遠い目でどこかを見つめることも。

 罪悪感からタバコに逃げることもなくなる。


 ようやく、明るい方へ一歩踏み出せた。


 もうキスをする理由はなくなってしまったけれど、エマが前に進めたのなら、何も言うことはない。


 頬がヒリヒリと痛むけれど、後悔だって微塵もない。


 エマを守ろうとしてついた痛みだから、寧ろ勲章のように思えてしまう。


 大好きな人を守るためであれば、どれだけ無謀でも勇敢に立ち向かう。


 これではまるで、忠犬と同じだ。

 

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