第27話


 全ての窓を開けて、部屋を換気しながら掃除機を掛ける。

 冬を間近に控えた秋の風は、寒すぎずにひんやりとしていて心地よい。


 リビングとベッドルームを掃除し終えた後、配信部屋の前で立ち尽くす。


 今までは立ち入り禁止と言われていたためずっと掃除はしてこなかったが、以前入ったときかなり埃っぽかったのだ。


 エマが留守なのを良いことに、こっそりと部屋に忍び込む。


 悪いことはしていないのだからと、窓を開けて掃除機を掛けた。


 本棚やラックを見やれば、上には埃が溜まってしまっている。


 「汚い…」


 我慢ができずに、濡れ布巾を持ってきてから棚の拭き掃除まで始めてしまっていた。


 フィギュアや積み上げられた本を倒さないように、いつもより気を遣って汚れを拭き取る。


 「あ……」


 シンプルな写真たてに入った、あの写真。

 中学生の頃のエマと津山恵。


 そして、大人になった2人の写真が二つ並べて置かれているのだ。


 「……何なのよ」


 手に取ったことを、すぐに後悔する。

 醜い嫉妬心に駆られた愛来は、このまま写真を捨ててしまいたい衝動に駆られているのだ。


 夢に見て、エマを泣かせてしまう女性。

 あの子の心を独占する、この女性の存在が憎くて…羨ましくて堪らない。


 エマから愛される、津山恵という女性を羨んでいるのだ。


 両親からも、愛来からも。

 この人がエマを奪うのだ。


 写真たてを元の場所に戻さずに、両手に抱えた

まま部屋を出ようとした時。

 

 入り口扉にもたれ掛かっているエマと、ばちりと視線があった。


 「何してるの」

 「……ッ」


 掃除に夢中になるあまり、帰ってきたことにすら気づかなかった。


 必死に言い訳の言葉を探していれば、手にしていた写真立てを彼女に奪い取られてしまった。


 「あ……」

 「なんで津山先生の写真立て持っていこうとするの」

 「……な、なんでもいいでしょ」

 「は?人の私物持っていこうとして何その態度」


 いつもの揶揄う雰囲気ではなく、本気でエマは怒っている。


 こんな姿を見るのは初めてで、どうすれば良いか分からず内心パニック状態だ。


 「そ、それは…」


 何か言い訳の言葉を口にしようとした時、室内に着信音が鳴り響く。


 発信源はエマのスマートフォンで、至近距離だったせいで着信相手が誰なのか見えてしまった。

 

 「…ちょっと出てくる」


 愛来を置いて部屋を出ようとする彼女の手を掴む。


 今にも溢れ落ちそうな涙を見られないように、必死に下を向いていた。


 「……愛来?」

 「やだ…」

 「え…」

 「電話出ないで」


 声を震わせながら懇願すれば、エマがこちらに向き直る。


 「どうかした…?」

 「……その人のこと好きなの?」

 「愛来…」

 「その人の名前呼びながら泣いてたじゃん…エマを傷つける人なんじゃないの」


 返事をせずに、エマは愛来の手を振り解いて部屋を後にしてしまった。


 慌てて後を追えば、既にエマは着信相手の電話に出てしまっている。


 エマに電話を掛けてきたのは、津山恵だったのだ。


 「…今夜?急にどうして…うん、分かった」


 簡単にやり取りを済ませた後、エマが電話を切る。


 今夜エマがその人と何をするのか。


 想像するだけで胸が苦しくて、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。


 「…愛来」

 「セフレとは縁切るって言ったのに」


 涙を拭おうとしてくる、彼女の手を振り払う。

 みっともなく嫉妬に駆られた姿なんて、これ以上エマに見られたくなかった。


 「……早く行きなよ」


 早足でベッドルームへ行こうとすれば、今度は愛来の腕をエマが掴んでいた。


 驚いて振り返る間も無く、背後から力強く抱きしめられる。


 このままでは勘違いをしてしまいそうで、涙を零しながら愛来は声を荒げた。


 「……離して」

 「やだ」

 「なんでよ…早く津山恵のところ行けばいいじゃん…好きなんでしょ?」


 すぐには返事をせずに、暫く沈黙が立ち込める。

 焦らずにジッと待ち続けていれば、エマは苦しげに言葉を溢した。


 「……好きだった人なの」


 スマートフォンを取り出して、エマがどこかに電話を掛け始める。

 ギュッと目を瞑りながら、電話口の相手に要件を伝えていた。


 「……もしもし、やっぱり今日行けない」

 「…ッ」

 「…無理だから、もう電話してこないで」


 時間にすれば1分も経っていない。

 あっという間に終了したキャンセルの電話に、驚きで心が追いついてくれなかった。


 「なんで……」

 「……愛来が泣いてるから。愛来を泣かせるくらいなら、行きたくないと思った」


 そんな風に言わないで欲しい。

 愛来はまだ高校生で、子供だから。


 エマの言葉に一喜一憂して、喜んでしまう。

 彼女の言葉を良いように受け取って、期待したくなってしまう。


 いまだにポロポロと涙を流していれば、彼女に手を取られてソファに座らされた。


 「……家族にも、愛来にも言いたくなかったのは…話して軽蔑されるのが怖かったから」


 愛来の隣に腰を掛けた彼女は、こちらを見なかった。

 覚悟を決めたように、真っ直ぐな瞳をしているのが横顔でも分かる。


 「……不倫してたの、私」


 人生で一度も縁のなかったワード。

 

 津山恵と、エマは不倫をしていた。

  

 そしてそれが、彼女が強い罪悪感を抱くようになった根源なのだ。


 「…中学校の頃に津山先生に恋をして…その時には何もなかったの。けど……こっちに上京してきたら、先生も東京の学校で働くようになったみたいで……バーで再会してさ。勢いで告白したら、オッケーもらって舞い上がってた」


 過去に犯した罪を懺悔する彼女の体は、小刻みに震えていた。

 

 それでも言葉を途切れさせずに、少しずつ過ちを告白してくれる。


 「…それで付き合って半年くらいで……実は結婚してるって言われて。けど仲もすごく悪くて上手くいってないから……来月には離婚するからって言いくるめられた」


 高校生の愛来が、なんて声をかければいいのか。

 どんな言葉を掛ければいいのか分からず、ただ黙って聞くことしか出来ない。


 「来月が3ヶ月後に伸びて…半年後、1年後って…結局ズルズル続いて、4年も関係を持ち続けたの…好きだったから、ずっとあの人が旦那さんと別れるのを待ってた」

 「うん…」

 「そしたらいきなりさ、妊娠したって言い始めて。旦那さんと仲悪いっていうのも全部嘘で……私、あの人の嘘を馬鹿みたいに信じ続けてたの。だから、別れた。子供にも旦那さんにも罪はないのに、お母さんを奪っちゃダメだから」


 4年間続いた不倫に終止符を打ったのが1年前のこと。


 それ以来一度も連絡は取っていなかったが、今日いきなり電話が掛かってきたのだとエマが言葉を続けた。


 「タバコもね、あの人が吸っていた銘柄で……吸ったら楽になれるから、どんどん溺れていった。自業自得だけど、不倫してた罪悪感に押し潰されて、死にそうで……」


 なぜ、エマが特定の相手を作らずセフレとばかり関係を持つようになったのか。


 特別な相手を持つことに、消極的になってしまったのか。


 沢山裏切られて、人を信じることをやめたのだ。

 希望を持つことをやめて、期待しなくなったのが今の一条エマだ。


 言いようのない感情が込み上げてきて、堪らずにギュッと彼女を抱きしめる。


 「…素敵な人だったんだよ。先生としては…頼りになるし優しくて…津山先生は本当に素敵で……」

 「……エマ」

 「けど…違った。私が好きなのはあの頃の津山先生で…恵じゃなかった」


 背中をさすってやれば、少しずつ落ち着きを取り戻し始める。


 しかし、彼女の感情は掻き乱されたまま。

 津山恵と再会して、エマはずっと心をグチャグチャになるまで弄ばれ続けたのだ。


 「1年ぶりだったの、連絡。怖くなった……あの頃を思い出して……。またあの頃の苦しい思いを味わうのかと思ったら、嫌だって…。愛来といて、楽しくて…あの時の辛さをすっかり忘れてたから」

 

 いつも明るい彼女の塞ぎ込んだ姿。

 罪悪感に苦しんで、幸せになることを恐れている

エマに、どんな言葉を掛ければいいのだろう。


 「不倫した私が幸せになったらダメだって分かってるのに……愛来といると…」


 彼女の頬を掴んで、触れるだけのキスを落とす。

 驚いたように目を見開くエマに対して、なるべく平常心を保ちながら返事をした。


 「タバコ吸いたくなったかなって」


 苦しくなると、エマはタバコを吸いたくなると言っていた。


 エマの心を傷つけた女に教えられたタバコ。


 「…皮肉だよね。あの人のことが憎くて仕方ないのに、あの人から教えてもらったタバコが欲しくて仕方なくなるの」


 エマだってきっと分かっているのだ。

 自分がタバコに依存していることを。


 あの頃を乗り越えられずに、タバコに執着していることを。


 エマの傷を和らげるには、タバコがなくちゃダメだけど、所詮それは応急処置でしかない。


 鎮痛剤を飲んでいるのと同じで、一時的な痛みを和らげることができても、根本的な解決にはなっていないのだ。


 「……エマ」


 優しいエマが、どうしてここまで苦しまなければいけないのか。


 何も知らずに不倫の片棒を担がされて、好きな相手の言葉を信じてずっと待ち続けた。


 全て嘘だと分かっても尚、あの女に教えられたタバコから離れられない。


 エマを傷つける全てのものから守ってやりたい。


 どれだけ相手が恐ろしく、屈強だったとしても、エマを守るためであれば無謀でも突っ込んでしまうだろう。


 これではまるで、飼い主を守ろうとキャンキャン吠えるポメラニアンと同じだ。

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