第17話
この日は運の悪いことに日直で、全員分のノートを集めるまで帰れなかった。
サッカー部の男子生徒がノートを渡さぬまま部活に行ってしまったため、帰宅時間が18時を過ぎてしまったのだ。
いつもより人気の少ない帰路は、すっかり暗くなってしまっている。
ため息を吐きながら歩いていれば、あの足音が耳を掠めて身震いした。
「…最悪」
やっぱり気のせいじゃなかった。
辺りを見渡せば、運の悪いことに誰もいない。
もし以前のように車に連れ込まれそうになったらどうしようと、嫌な予感が脳裏をよぎった。
学校帰りに感じる、纏わりつくような視線。
気のせいかと思っていたが、下校時刻が変わっても付き纏うということは間違いない。
ストーカーだ。
そう確信しただけで、ダラダラと冷や汗が止まらなくなる。
早歩きで前に進みながら、内心はパニック寸前だった。
「……ッ」
本能的に感じる恐怖。
捕まったら何をされるのか。
誘拐か、それとも乱暴目的か。
スマートフォンを取り出して、警察を呼ぼうかと泣きそうになりながら考えていれば。
突然ガシッと腕を掴まれて、愛来は情けない声を上げた。
「ひぃっ…!」
「あ、愛来ちゃん…?」
声にならない悲鳴に対して、腕を掴んだ相手が驚くような声を漏らす。
恐る恐る視線をやれば、そこにいたのはエマの友人である小鞠という女性だった。
息を荒くさせながら振り返れば、そこにはやはり小鞠以外の人はいない。
「どうしたの?」
「っ…いやっ」
「落ち着いて」
優しく背中をさすられて、少しずつ落ち着きを取り戻し始める。
愛来を安心させるためか、小鞠の声色は以前会った時よりも高かった。
「偶然見かけてさあ、どうかしたの?」
「いつからですか」
「え、たった今だけど…」
分かりきっていることだが、やはり学校から付けてきていたのは小鞠ではなく、また別の誰か。
一体犯人は誰なのか。
検討がつかない分、余計に不気味さを増している。
「…何でもないです」
「顔真っ青なのに何言ってるの。エマ、呼ぼうか」
「ただでさえ居候してるのに…これ以上迷惑掛けられない」
こんな状況でも素直になれない自分に嫌気がさす。
そこまで強くないくせに、愛来はずっと強がり続けているのだ。
「愛来ちゃんはエマのこともっと信用してもいいんじゃない」
「え…」
「あの子がセフレ以外の女の子を自分のパーソナルスペースに入れるの、久しぶりなんだよ」
大学時代のエマを知っている小鞠の言葉に、ジッと耳を傾ける。
愛来は結局、彼女のことをよく知らないままなのだ。
「エマは愛来ちゃんのこと大切に思ってる…そんな相手からの相談なら、迷惑だなんて思うはずないよ」
「でも…」
「エマってさ、人懐っこく見えて全然心開かない子なの。強がりで、いじっぱり」
とてもそんな風には見えない。
それはどちらかといえば愛来の方で、その頑固さをエマからよく揶揄われているのだ。
「そんなあの子が、あなた相手にはすごくリラックスしてる。セフレはもちろん、友達の私ですら家に泊めてくれないんだから」
スマートフォンを取り出して、小鞠がトークアプリを開く。
迷うことなくエマのアカウントをタップして、すぐにメッセージを送り始めた。
「いま、エマ呼んだから。ここの位置情報も送ったから、たぶんすぐ来るよ」
「けど、エマも用事とか…」
「愛来ちゃんの緊急事態って送ったから。エマ以外とは話したくないって怯えてるって」
かなり誇張されている物言いに、首を傾げてしまう。
「何でそんな言い方…」
「いいから、見てて」
電話をして、恐らく10分もしていないだろう。
タクシーが一台止まって、中から酷く取り乱した様子のエマが降りてくる。
「愛来!」
羽織っていたトレンチコートを掛けられて、心配そうに瞳を覗き込まれる。
しかし、愛来よりもよっぽどエマの方が狼狽えた瞳をしていた。
「大丈夫?怖かったでしょ」
「エマ…」
「辛いかもしれないけど…病院行こう。それから、警察に…」
「…私、襲われてないよ」
誤解を解けば、エマがホッとしたようにその場にへたり込む。
彼女の前にしゃがみ込めば、ギュッと手を握り込まれた。
「心臓止まるかと思った…」
チラリと小鞠の方を見れば、だから言ったでしょと言わんばかりの表情を浮かべている。
「じゃあ、私は帰るね」
去り際に耳元で「もっとエマを信じてあげて」と囁かれる。
夕飯時に、愛来のことを心配してわざわざ駆けつけてきてくれた彼女を見て、自分の愚かさに気付かされる。
これほど守ろうとしてくれる人を、愛来は何度も疑ってきたのだ。
「……たぶん、ストーカーにあってるかもしれない」
「は……?」
「気のせいかと思ってたから、黙ってたんだけど…」
「なんでもっと早く言わないの!何かあったら…」
落ち着かせるように、そっとエマの体を抱きしめる。
これではいつもと立場が逆だ。
「……うん、もっと早く言うべきだった」
「…珍しく素直じゃん」
「怖かったからかも…」
何をされるか分からぬまま犯人に怯える恐怖を思い出して、嫌な汗が額を伝う。
「犯人の顔とかみた?」
「ううん…けど、いつも学校帰りにだけいるの…家に着く頃にはいなくなって、遊びに行く時とかはいないんだよね…」
「え……」
数秒黙り込んだあと、エマはスマートフォンで電話を始めた。
てっきり警察に電話しているのかと思ったが、エマの言葉にどこか違和感を覚える。
「すみません、一条ですけど…はい、出てきてもらって大丈夫です」
通話を切ってからすぐに現れたのは、上下黒色のスーツを着た体格の良い男性だ。
ずっと木陰に隠れていたのか、全くその気配に気づかなかった。
「たぶん、ストーカーこの人」
「どういうこと…?」
「その、愛来可愛いから…せめて学校帰りくらいは見張りを付けたいなって…ボディガードを…」
「エマが手配した人だったの!?」
つまり、愛来は自分を守ろうとしてくれる存在に対して怯えていたのだ。
ホッとして、一気に肩の力が抜けていく。
「怖がらせてごめんね…」
「ほんとだよ…せめて一言言ってくれたら」
「従姉妹にそこまでするとか、キモいかなって」
申し訳なさそうに頬をかく姿に、何故か言いようのない感情が込み上げてくる。
「…気持ちは嬉しいけど、大丈夫だから」
やはり、エマは優しい。
愛来のことを心配して、守ろうとしてくれている。
あれほど守られる存在になるのが嫌だと感じていたはずなのに。
その相手がエマであれば、なぜか不思議と受け入れてしまうのだ。
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