第13話


 煮込んだシチューを頬張っていても、味なんて殆どしない。


 いや、味付けは良くできているのだ。市販のルーを使ったおかげで失敗もなく、帰り道に購入したパン屋のクロワッサンも酷く美味しい。


 その美味しさを味わう余裕がないのは、先ほどの石鹸の香りが気になって仕方ないからだ。

 

 また、セフレと会っていたのだろうか。

 もう関係は切ったと言っていたのに、全部嘘だったのだろうか。


 「あのさ」


 セフレと会っていたの?という言葉はすんなりと出て来てくれなかった。


 悩んだ末に、全く関係のない言葉を口にしてしまう。


 「……き、気持ちいいキスのコツとかあるの」

 「何急に。彼氏でも出来た?」

 「そうじゃなくて…友達が…」


 スプーンを置いて、エマがテーブルに肘をつく。


 微笑ましそうに目を細める姿は、大人だからできる表情だ。

 

 「初々しいね」

 「…あの子たちはもう経験済みだし…そんなに甘酸っぱいものじゃないよ」

 「愛来は?」

 「私はまだ…っじゃなくて、その…両手じゃ数えられないくらい」


 咄嗟に見栄を張ってしまったことをすぐに後悔する。


 エマがセフレとそういうことを致した後だと気づいてしまったせいか、変に強がってしまったのだ。


 「へえ」


 席から立ち上がったエマが、愛来の方まで回ってくる。


 手を取られてから強引に立ち上がらされて、そのままグッと体を引き寄せられた。


 互いの熱も、体の柔らかさも伝わってしまうほど体をピッタリと密着させられている。


 緊張で、一気に心臓が早く鳴りはじめた。


 「…っ近い」

 「気持ちいいキスの仕方教えて欲しいんでしょ?」

 「…でも、これじゃ…本当にくっついちゃう」


 どんどん顔を近づけられて、更に石鹸の香りが強くなる。


 優しい石鹸の香りは益々、愛来の心を掻き乱した。


 「愛来さぁ…経験豊富ならこれくらいどうってことないでしょ?」


 強がり続けたせいで、自分を追い詰める結果になってしまったのだ。


 こんなことなら嘘をつくんじゃなかった。


 「だ、だって…」


 強がったのは自分のプライドを守りたかったのは勿論のこと。

 

 何でも知っている大人なエマの前で、子供っぽさを晒したくなかったのだ。


 「……エマが嘘つくから」

 「嘘?」

 「セフレと縁切ったって言ったのに…今日会ってたでしょ」

 「はあ?」

 「…タバコも、香水の匂いもしない…っお風呂上がりみたいな石鹸の香りさせといて、誤魔化せると思ったわけ」


 追い詰めるつもりで睨みつければ、エマは額を抑えてしまう。


 僅かに、彼女の頬は紅潮していた。


 「…スパに行ってきたの」


 エマがソファの上に置かれていたカバンの中から、財布を取り出す。


 ファスナーを開けてすぐに、彼女はアミューズメントスパの半券を手に取ってこちらに見せつけてきた。


 日帰り施設であるそこは、愛来も以前友達と一緒に行ったことがある。


 恋人とは勿論、友達や家族連れなど様々な客層から支持されている施設だ。


 「友達とね。ホテル帰りじゃないから」

 「え……」


 そういうことをする施設で、セフレと愛し合っていたとばかり思い込んでいたが、全て愛来の勘違い。


 勝手に勘違いをして、エマに対して噛み付いたのだ。


 羞恥心から、ジワジワと頬に熱が溜まり始める。

 恥じらっている姿を見られたくなくて体を反転させれば、背後からギュッと抱きしめられた。


 「やっ…離して」

 「やだ。愛来ちゃんエッチなこと想像してたんだ」


 わざとらしく「ちゃん」付けをしているのは、揶揄っている証だろう。


 真っ赤になった頬を見られたくなくて必死に身を捩るが、おもしろがっているエマは離してくれない。


 「こっち向いて」


 半ば強制的にエマの方を向かされて、先ほどと同じように体を密着される。


 恐らく耳まで染め上げているであろう恥じらう顔を、至近距離で見られてしまっていた。


 「私がセフレとシてたと勘違いして嫉妬したの?」

 「ちがうっ…」

 「じゃあなんでさっき不機嫌だったの」

 「…それは、その……どうせエッチなことしか興味ないんだろうなって、軽蔑してたの」


 可愛げのない事ばかり言う愛来が、それ以上何も言えないように。


 何の許可もなく、エマの唇で口を塞がれていた。


 初めて触れた柔らかい感触。

 喋っている途中だったせいで半開きになっていた口に、容赦なく舌を差し込まれる。


 驚きで放心する愛来の口内を、彼女の舌は遠慮なく蹂躙してきた。


 「んっ…ンンッ!?んっ…」


 肉厚な舌が口内の敏感な箇所に触れる感触から逃れようと、咄嗟に口を閉じる。


 勢いよく噛み付いたせいで、口内に血生臭い味が広がった。

 エマの舌を傷つけてしまったのだ。


 「いった…」


 痛そうに、彼女が顔を歪める。

 舌を勢いよく噛まれたのだから、きっとかなりの痛みなはずだ。

 

 「あ…」

 「自分から気持ちいいキスの仕方聞いたんでしょ」

 「けど、実践してなんて言ってない…」

 「血も出てきたんだけど」


 恥ずかしくて憎まれ口を叩いた挙句、怪我までさせてしまったのだ。


 込み上げてくる罪悪感に、ジクジクと胸が痛んだ。


 「……なさい」


 謝りの声はあまりに小さく、きっと彼女の耳に届いていない。


 しかし、エマはいつものように優しく頭を撫でてくれた。


 「…本当強がりなんだから」


 顎を掬われて、至近距離でエマと顔を見合わせる。

 僅かに瞳を熱くさせた彼女は、まるで知らない誰かのように興奮の色を滲ませていた。


 「私しか聞いてないから、今の言葉もう一回言って」


 耳元に顔を近づけて、蚊の鳴くような声で「ごめんなさい」といえば、抱きしめられる。 


 ポンポンと背中を叩かれる感覚が、意外なことにとても心地良い。


 「……角度変えながら舌絡ませあえば気持ちいいって、友達には言いなよ」

 「わかった…」

 「友達の前でも強がって…私の前くらい素直になればいいのに」

 「…ごめんなさい」

 「もう良いって」

 「舌、みせて」


 ベッと舌を出してもらえば、切れているのか僅かに出血している。


 更に罪悪感が刺激されて、うろうろと視線を彷徨わせていた。


 「舌って、消毒とか出来る…?」

 「すぐ治るから大丈夫だよ」

 「絆創膏は貼れないよね…」

 「当たり前でしょ。あー…でも」


 再び顔を近づけられて、今にも唇がくっついてしまいそうなくらいの至近距離。


 互いの吐息すら感じてしまうほどの近さで、エマは甘く囁いた。


 「愛来がキスしてくれたら治るかも」

 「はあ!?」

 「…気持ちいいキスの仕方、そのまま教えてあげるよ」

 「何言って…大体、キスしたら治るとか意味わかんないし…」

 「実践した方が、友達にも教えやすいんじゃない?もし、いいなら舌出して」


 背中に腕を回されて、愛来も遠慮がちにキュッと彼女の服の裾を掴んだ。


 恋人でもないのだから、キスなんてしちゃダメなのに。


 何故かエマから視線を逸らせない。

 

 先ほど、どうしてエマがセフレといると勘違いをした際にモヤモヤとしてしまったのか。


 「……ッ」


 今なら友達に教えるためだと、大義名分もある。


 経験がないことを負い目に感じていたが、キスをすれば何かステップアップ出来るかもしれない。


 そうやってきっかけを探している時点で、もうどこかおかしいのだ。


 目を瞑って、恐る恐る舌を出す。

 あまりに距離が近かったせいで、すぐに彼女の唇に舌が触れた。


 エマの雰囲気が変わったのを、肌で感じる。


 「んっ…」


 同じようにエマも舌を出して、愛来の舌の先端と触れる。


 唇には触れられず、舌同士の先端を擦り合わせている状況が愛来の羞恥心を煽っていた。


 普通のキスよりも余程恥ずかしい口付け。


 ギュッと目を瞑れば、舌を押し込まれる形で口内にエマの柔らかい舌が侵入してくる。


 「んぅ…ンァッ」


 ふわふわと柔らかい舌を擦り合うだけで、背中がゾクゾクし始める。


 唇を蹂躙されながら優しく耳をなぞられれば、無意識に甘い声を溢れ出してしまっていた。


 反対側の手では背中を指でくすぐられていて、その触れ方がもどかしくて堪らない。


 「…っ、ん、ンッ」


 舌同士を絡め合うたびにいやらしい水音が鳴り響いて、それが尚更羞恥心を煽っていた。


 必死にエマの肩に手を置いて、しがみつくようにもたれ掛かる。


 あまりに上半身を密着させたせいで、彼女の胸の柔らかさも全て伝わってきてしまっていた。


 「…ンッ……」


 ゆっくりと唇が離れていけば、互いの口を繋いでいた唾液の糸がプツンと途切れる。


 「分かった?」


 大人なキスに息を乱して涙目な愛来とは対照的に、エマはちっとも表情を変えていない。


 性的な経験に慣れている彼女には、これくらいどうってことないのだ。


 初めてのキスはあまりに刺激的で、ついていくのがやっとだった。


 本当は受け入れてはダメな口付けであると分かっていたのに。


 恐怖で体の力が抜けたわけでもないのに、エマから離れることが出来なかった。


 エマの体の柔らかさに触れていたいと…唇を重ねてしまってもいいかと思ってしまったのは、きっと珍しくタバコの香りをさせていなかったから。


 石鹸の良い香りに引き寄せられてしまったせいだと、訳のわからぬ言い訳を必死に並べていた。

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