第10話


 携帯のアラーム音を合図に、ゆっくりと意識を浮上させる。

 寝ぼけ眼な中で手を伸ばして音楽を止めた後、すぐ側にエマの寝顔があることに気づいた。


 「…やっぱ、綺麗な顔してる」


 ふかふかな羽毛布団に包まって、心地良さそうにスヤスヤと眠っているのだ。


 昨晩眠る時に繋いだ手は、相変わらずピタリとくっついていた。


 起こさないようにそっと絡まりを解いてから、1人でベッドを後にする。


 まだ眠っていたい所だが、今日も学校があるため準備をしなくてはいけないのだ。


 「…おはよう」


 声を掛けてみても、当然返事はない。

 好奇心から、そっとエマの頬を指で突いた。


 「んー…」


 眉間に皺が寄って、小さい声で埋めく様がまるで子供のようで。


 自然と口角が上がってしまう。


 「よく寝たなぁ…」


 久しぶりにベッドで寝たからか、酷く寝起きが良い。

 チラリと、未だに眠っているエマに視線をやる。


 1人じゃないから、きっと怖くなかった。

 側に彼女がいたから、安心してゆっくりと眠ることができたのだ。


 しかしそれを伝える素直さは、今の愛来は持ち合わせていない。


 意地っ張りで可愛げのない性格は、中々素直になることが出来ないのだ。





 洗面所で顔を洗って、スキンケアを済ませた後。

 壁に取り付けられた洗面鏡の前で、ジッと自身の鎖骨下を見つめていた。


 昨日エマの元セフレに付けられたキスマーク。

 必死に見ないようにしていたが、やはり鏡を見るたびに気になってしまう。


 服でギリギリ隠れる鎖骨の上に、キスマークを付けられているのだ。


 ゴシゴシと擦ってみても消えず、力が強かったせいで赤くなってしまっていた。


 「……気持ち悪い」


 絆創膏を貼って隠そうかと考えるが、肌が弱いためかぶれたら嫌だ。


 ファンデーションで隠すにも、夜になれば落とさなければいけないのだ。


 気分を落ち込ませていれば、欠伸をしながらエマが洗面所に現れる。


 彼女にしては、珍しく早起きだ。


 「おはよ…どうかした」

 「べつに」


 経験豊富なエマに、キスマークくらいで心が傷ついていることを悟られたくない。


 ぶっきらぼうな返事を返せば、そっと肩を掴まれた。


 「…キスマ嫌なら、上書きする?」

 「え…」

 「消せないけど、上から濃くつけることはできるよ」


 自身の鎖骨に触れながら、どうするべきかと戸惑ってしまう。


 時間が経たなければキスマークは消えてくれず、視界に入るたびに愛来の心を重くさせるだろう。


 だったらエマに付けられたものだと考えた方が、まだマシなような気がしてしまう。


 見ず知らずの女性に無理やり付けられたものではなくて、エマによってふざけて残された跡だと思った方が楽なのではないか。


 悩んだ末に、首を縦に振る。

 少なくともあの思い出が薄れるなら、彼女に上書きして貰いたかった。


 「まじ…?」

 「なんでエマが驚くの」

 「冗談だったから…」


 羞恥心で一気に頬を赤く染めてしまう。


 冗談を間に受けて、キスマークを付ける許可を出してしまったのだ。


 「…っ、私だって別に本気にしたわけじゃ…」

 「いいから、ほら」

 「……付けて欲しいわけじゃないんだからね」

 「…じゃあ、私が付けたいから。おいで」


 そっと彼女に近づけば、Tシャツの襟元をずらされる。

 色濃く付いたキスマークに、エマの唇が触れた。


 肌に触れるエマの唇は柔らかくて、時折漏れる吐息が熱い。


 一瞬だけ触れた舌の感触がくすぐったくて、思わず身を捩った。


 「ンッ…けほっ、けほ」


 無意識に変な声が漏れて、慌てて咳払いをして誤魔化す。

 チュウッと数秒吸い付かれてから、エマの唇が離れていった。

 

 「これくらいでいっか」


 視線を下げれば、先程よりも濃くなったキスマーク。


 存在感がより増して見えるのは、色が濃くなったせいか。

 エマに付けられたものとして、上書きされたせいか。 

 

 先ほどまで感じていた嫌悪感が、不思議なくらい拭い去られている。


 それがなぜかは、今の愛来に分かるはずがなかった。






 学校から帰宅をして、あることに気づく。

 リビングの中央に置かれていた、あのソファ。


 愛来が襲われた場所が、跡形もなく無くなっているのだ。


 「え……」


 代わりに新しいソファが新調されていて、言いようのない感情が込み上げる。


 「……エマ」


 きっと、愛来が思い出さないようにわざわざ買い替えてくれたのだ。


 立ち入り禁止の部屋に彼女は篭っているため、お礼を言うことができない。


 もしかしたらそれすら、彼女の気遣いなのかもしれない。


 部屋の前に立って、そっと扉に触れる。


 「エマ…ありがとう」


 本当は直接言わなければいけないと分かっているが、今の愛来にはこれが限界だった。


 胸の奥底から温かい感情が込み上げてきて、自然と頬が緩んでしまう。


 やはり彼女は、悪い人ではないのだ。

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