第15話 彼女

本当は少し前から、いや大分前から分かっていたのかも知れない。

だけど、自分にとって居心地が良いぬるま湯の中にいつまでも浸かっていたかった。

そうすれば傷つく事も嫌な思いをする事もなく、ただ楽しく己の自尊心や承認欲求が自然に満たされていくだけなのだから。

でもそれでは、このまま自分自身がダメになっていく事も、何も残らない事も、このぬるま湯もいつの日か栓が抜け水が一滴も残らなくなる事も、そう、全て分かっていた。本当に自分自身が求めるモノはここでは手に入らないという事さえも。

だからこそ俺は真実に目を向けて自分にとっての楽園から外の世界へ出る事にした。

全てを捨てて、一から始めるために。

きっと外の世界というモノは自分が想像しているよりも、厳しく辛いモノだのだろう。

それでも俺は前に進む、立ち向かう。それが俺の選んだ道なのだから。

そう、だから、だから…こんな事でいちいち落ち込んでいるわけにはいかないのだ。

なのに俺は、情けない事に瑠緒さんから聞かされた話を受け止められずその場に言葉を失っていた。

「うん、お前今面白いくらい絵に描いたように腑に落ちないって顔してるね。何?そんなに納得いかない?」

「…あ、いえ…そういう訳では…」

「ん~気持ちはわかるよ。ついこの間までは自分主宰の演劇サークルでほぼ主役ばっかりやってたお前が、今度は役名もつかないアンサンブル。そんでそのサークルから追い出したも当然の後輩とお前よりもずっ~と後に芝居を始めたばかりの大学同期生の女の子は重要なメインキャストだもんな。そりゃそうなるよな~」

「それは…」

考えていた事を瑠緒さんに全て言葉にされ俺は何も言えなくなってしまう。

そんな俺に追い打ちをかけるかのように、瑠緒さんからあっさりと今一番聞きたくない事を言葉を浴びせれてしまう。

「でも、ま。それが今のお前の現実。お前の実力。お前が今までやってきた事の答えだよ」

今売れに売れまくっている人気俳優渾身の笑顔が俺の身体を蝕んでいく気がした。

そう。そうだ。その通りだ。これが全てだ。俺がずっと目を逸らし続けた結果だ。

もう痛みはほとんど引いているはずの頬の傷がズキズキと何故か痛みだし思わず傷をさする。

「あれ?まだ痛いんだそれ。まぁあれだけ盛大にやられてたらね~時間もかかるか…。けどなんとか跡とかは残らないんでしょ?よかったじゃん。もし顔に傷でも残ったりしたら致命傷だったよお前」

「はい…」

「そういえば今はどんな感じ?元カノの美代ちゃんは。まだ荒れまくってんでしょ?」

「…いえ、それが俺に完全に興味を無くしたようで急に静かになったんです…」

「は?急だね…そうなんだ?あんなにお前にご執心だったのに?それはどういう風の吹き回しで?」

「あの…それは…」

言い淀む俺を見て瑠緒さんは何かを察したようだった。そして笑顔を絶やさないまま尋問モードに緩やかに移行していく。

「はい。何があったかきちんと報告してくださ~い。そういうのちゃんとしろって初めに言ったよね?俺に黙ってるつもりだったわけ?」

「違います!今日きちんとこの後直接お話しようと思っていたんです」

「なるほど。でも、あの子関係の事は何かあったら電話でもいいからすぐに連絡しろって俺、言ってたよね?」

「それは…その…」

「ま、いいや。まずは話を聞こうかな。どういう事?」

「…実はあいつ…美代に新しい彼氏が出来たみたいなんです。しかもその、新しい彼氏っていうのが…」

「彼氏って言うのが?」

俺は言葉に詰まりながらなんとかその名を口にした。

「…あの…えと…その…田間さん…なんです」

「は?」

「だから、田間さんなんですって!あいつの新しく出来た彼氏っていうのが!俺だってあいつの彼氏が田間さんだって知ったの昨日で、本当俺もまだ詳しくは知らないんですよ!あいつ最近大学にも来なくなって噂で新しい男が出来たんじゃないかって聞いてたんですけど…噂レベルでまだ確証は取れなかったんですよ…それが昨日…」

田間さんというのは瑠緒さんより先輩の共演回数も多い俳優だった。

事情を説明していくうちに、勝手に焦っていく俺をよそに瑠緒さんはいたって冷静だった。

「うん、昨日、何?」

「…昨日、裕から連絡が来て…。その、美代は大学に来なくなってからSNSのアカウントとかも全部消してたんですけど、その…あいつの新しいアカウントがいきなり裕に美代からフォローしてって送られてきたって」

「それで?」

「送られてきたアカウントは完全鍵アカなんですけど…そこには新しい彼氏との写真がガンガンあがってて…しかもそれが隠してるように見せかけてもうモロに田間さんだってわかるようなものばかりで…」

「いわゆる皆大好きに匂わせって奴だね」

「それで…俺…びっくりして…」

「あぁ~確かにあの人、美代ちゃんみたいな子、好きだもんな~。お前が飲み会に美代ちゃん連れて来た時もテンション上がってたしな~。う~ん。いっちゃったか~。見た目と表面上の姿には気を付けないといけないですよってあれほど忠告してあげたのになぁ…。しかも一回りほど年の離れた女の子って…ま。いっかそれでお前の周りが落ち着くならこちらとしては喜ばしい限りだし」

「はぁ…」

「それにしてもわざわざ新しいアカウントを直接じゃなくて、お前に絶対に報告がいくだろうって事で繋がりがある後輩に送るだなんて、面倒くせぇな、本当」

「美代、何がしたかったんでしょうか…」

「あれだろ?もうお前なんか興味ねぇよ、お前よりも、もっと格上の男と幸せです~ってアピールしたかったんだろ?しかも今自分よりも売れている後輩から聞かされるっていう効果も入れて」

「はぁ…」

「いいんじゃない?時代遅れのオラオラ系勘違い俳優と地雷匂わせ女、お似合いじゃん。幸せになってもらって」

「そういうもんですか…?それに瑠緒さんあんまり驚いてないというか…」

「え?そう?でもさ~ああいう女の子ってさ、ただでは転ばないというか、絶対に自分が得をする事じゃないと手を引かないって分かってたしさ。浩さんも女癖の悪さと手の速さはもうどうしようもないレベルだからさ、引っ付くことが引っ付いたって感じ。どうせ美代ちゃんの事もずっと狙ってたんでしょ」

「え?でも美代と会ったのだって、その飲み会だけでしたし…それにもうかなり前の話ですよね?あの時は俺とまだ付き合ってたし…連絡も交換していませんでしたし…」

「…お前、チャラチャラと女の子達相手に商売してた癖に何言ってんの?」

「それは、どういう…」

「お前には美代ちゃんと浩さんが会った事があるのが一回でも、本当のところなんて本人達にしか実際わからないだろうが。連絡先の交換なんて色んな手を使えばすぐに交換できるってお前も分かるだろう?」

「マジか…」

「ま、本当の事なんて知る必要ないだろうし、最後の最後まで美代ちゃんからお前は色んな事を教えてもらったわけだ、感謝しとけ」

「は…はぁ…」

「なんだその顔は?お前さっきまで俺からキャスト発表聞かせれて、死にそうな顔してたくらい悔しがってたのに、美代ちゃんの件でその事を忘れる事が出来たんだろうが!感謝しといて損はない」

「…今のでまた思い出しましたけど」

「とにかくだ!お前は晴れて自由の身。浩さんの事は俺に任せとけ。こっちで上手くやっとく。お前の正式な初舞台のキャストもスケジュールも発表されてあとはもうその舞台に対して全力で取り組む事が出来るという訳だ、よかったよかった」

「…はぁ」

「お前は、そんな間抜け面してないでとりあえず台本はまだ出来あがってないし、稽古に入るまで時間があるんだから今のうちに少しでも色んなワークショップにいって成長してこい…じゃないと…」

「じゃないと?」

急に言葉の温度感が変わり一瞬にして空気がぴりついた。

「はっきりといっておく。オーディションであれだけズタボロだったお前が今回アンサンブルになれたのは俺が無理やり頼み込んだからだ。それにな、お前はアンサンブルに対して誤解しているようだけど、アンサンブルが舞台にとって重要で大きな存在だという事を覚えておけ。もし、お前に成長が見られなければアンサンブルからは直ぐに降りてもらう」

「え…」

言葉の重さと終始笑顔を絶やさない瑠緒さんから、底知れぬものを感じ俺は今自分が置かれている状況が思っているよりもヤバイ事を改めて実感した。

「死ぬ気であがいて見せろ。じゃなきゃお前ここで終わるぞ?恵一」




嘘だと思った。

本当に舞台に立つ彼女は俺の知っているあの小川さんなのだろうか。

禍々しいオーラを放ちながら心からの愛憎を持って実の姉と対峙するその姿は普段の小川さんからは想像が出来ない。というよりはまるで別人と言った方がいいかも知れない。

今回が初舞台だという彼女は、もちろん他の劇団員と比べると粗が目立ってはいる。しかし、それをかき消すほどの役とのシンクロ具合、没入感。

本当に今まで全く演劇に関わって来なかったのかと疑いたくなるほど、その堂々とした姿に俺はただただ驚愕するしかできなかった。

小川さんは、いつもニコニコしている特に目立った様子のない普通の女の子。

他の女子と同じような流行りの服にヘアメイク。あえて自分から誰かと絡みに行く事は無いけれど、愛想だって付き合いだって悪くない。

そして、本人は他の女子と上手く擬態しているようだったが、裕みたいな女好きの肥えた目をした一部の男どもには彼女の隠されたその綺麗さを見抜かれていた。

それが俺が知っていた小川さん。

そんな彼女がまさか俺が誘った事がきっかけでこの[演劇集団きなりいろ]に入団し、そして今、初舞台でこんな観客を惹きつける役者になるだなんて思ってもみなかった。

小川さんは劇団に入団してから大学でも嘘みたいに変わった。

量産型と言われる髪色を黒に戻し、長い内巻きの髪をバッサリと切ってボブカットに。

人気ブランドの服ではなくファストブランドにシフトチェンジし動きやすそうなジーパンやチノパンにシンプルなスウェットにパーカ。以前は誘えば必ず参加していた飲み会や女子会の参加もしない。ニコニコしていたあの頃の小川さんとは全くの別人だった。

そんな彼女の変化に美代やよく一緒にいた取り巻き達からは色々言われていたようだがそれにも全く動じない。

まるで人が変わってしまったようにも見えるが、俺にはこっちの姿の小川さんの方が自然でとても活き活きしているようにも思えた。

まぁ、ほぼ絡むことがなかった俺達が小川さんがこの劇団に入団したことにより、話す機会が増えるかとちょっとは思っていたけれどそこは変わらなかったという事は今は置いておこう。

そして今日、そんな変わった新しい小川さんの初舞台を観劇に来たわけなのだが、まさかここまでとは。

[演劇集団きなりいろ]の劇団員が凄いという事は旗揚げ公演で嫌というほどわかったし、少しずつ芽生えはじめていた俺の認めたくない気持ちをさらに増長させた。

そして今回。

悩みの渦中にいる俺が観ているこの第二回公演もまたさらに俺の気持ちを苦しいほど刺激してくる。しかも今回は小川さんという自分が知っている存在で芝居経験のないという彼女の芝居がより俺を苦しませるのだ。

暗く、闇に染まっていく役だというのに、彼女は常にキラキラ輝いて見える。

以前の俺ならきっと「凄いね~これからもお互い頑張ろうね~」で終わらせていただろう。

でも、今は違う。俺も、負けたくない。俺も、こうなりたい。

それは自分の気持ちにやっと向き合うことが出来た情けない男の本音だった。

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