第14話 あのね、本当はね
いつの日か、章さんと美早子さんにこう話したことがあった。
私は今でも、突然連れ込まれた部屋の暗さも、手を強く引かれた痛みも、眼前に迫る据わった目も色んなお酒が混じった嫌な臭いも何もかも身に染みて覚えている。今でも思い出すと体が少し震えるほどに。
はっきりと感じた恐怖。きっと、この先も私の心の奥で消える事は無いんだろう。
だけど、誰からも信じてもらえないだろうけど、私はあのプロデューサーさんはもちろん社長や誰も守ってくれなかった事務所の大人達の事も皆、好き好んで会いたくはないけれど恨んでも憎んでもいない。
実際、あのプロデューサーさんと関係を持ったことで今では人気ドラマに引っ張りだこになった先輩や人気雑誌の専属モデルになった先輩などと、言い出したらキリがないほどと輝かしい道へ進んでいった人達があの事務所には沢山いる。
そして結果として彼女達の夢が叶った事により、事務所が大きくなって社長や数多く在籍する事務所スタッフの生活が安定し、スタッフの家族もより豊かな生活が送れているのだからある意味皆幸せになったと言っても過言ではない。
つまり、少なからず今笑って生きている人がいるのならば、私にとっては辛く酷い出来事であったとしても、誰かにとっては素晴らしい事であるのだ。
そう…だから、私が今更どうこう言う事でも恨み続けても、もう意味がない。
だって、それがあの人達にとっての「正」であって、私がただ「邪」だっただけだから。
私が生きたい世界と、あの人達の生きている世界が違っただけのお話。
そしてその時に、そんな私の話を聞いてくれて力の限り抱きしめてくれた章さんと、美味しいものなんでも奢ってあげると目を潤ませて言ってくれた美早子さんがいる世界が私が今自分が望んで生きていたい世界なんだと実感したんだ。
「うん。一回このシーンは飛ばそう。聖ちゃん、考えてきたことはわかるけど、そうじゃないよ。もう一度この台詞について考えてみて」
まただ。
また途中で飛ばされてしまった。
私はまだこのシーンを、第二回公演の稽古期間が半分は過ぎたというのに読み合わせを除いて最後まで演じさせてもらった事がない。
読み合わせの段階から何度も指摘された問題のこのシーンはお話の中盤の要。そしてそれは私の独白で物語が一気に加速する重要なものでもある。
だからこそ、ここがひとまず完成しない事には通しも出来ないという事。
「…すみません」
明らかにこの稽古の足を引っ張っている。自分の情けなさと不甲斐なさでもうそれ以上は何も言えなかった。
私と入れ違いで次の場面稽古の為に立ち上がった夕日ちゃんがそんな私を心配してくれて何か声をかけようとしてくれたけれど、なんだかそれが無性に辛くて自分から「大丈夫だから~またダメだったよ~」と笑ってその言葉を打ち消した。
そのまま足早に自分の席へ戻ろうとすると夕日ちゃんと同じ場面の出る怜吾君に黙って肩を叩れ、その不器用な気遣いが妙に染みた。
「はい。じゃあ次96ページ。アルテンの台詞から。よーい」
章さんが手を叩くとまた一気に空気は変わる。
ここは夕日ちゃんと怜吾君二人のシーンでつい最近までは先ほどのシーンと同じく止められてしまい、進まなかった問題のシーンだった。
しかし今は。
「『いいのよ、もう、私は。貴方が私を、私だけを愛してくれるなら何も失っても怖くないもの』」
「『…それが自分の姉を殺す事になってもかい?』」
「『お姉様には、お姉様の、私には私の生き方がありますわ』」
先程までの悔しい気持ちを思わず忘れるほど二人のやり取りにグッと引き込まれる。
この前までとは明らかに違う、静かだけど二人の激しい感情が見え隠れしている。
凄い。二人がどれだけ苦労や努力したかが伝わってくる。
それに比べて私は…。勝手に同じ立場だと思っていた二人が遠くに見える。
私はたった一人置いて行かれたのかもしれない。
そしてそのまま、章さんに止められることもなく話は続く。怜吾君演じるエバスが捌け、このシーン最後は夕日ちゃん独白となる。
私ほど台詞量は多くなく短いものだが、それでもかなり難しい独白だ。…今日はどうなるんだろう。
「『さぁ、見せてくださいまし、私への愛を。お姉様ではなくこの私への愛を。…お姉様、お別れですわ。…私は、貴女の事を心から愛していましたわ!!!』」
狂った愛をモノにした夕日ちゃんに背筋がぞくっとする。
すごい。まさかこんな表現が夕日ちゃんに出来るだなんて。
「はい、そこまで。…うん。二人とも方向はつかめたみたいね。良いと思う」
章さんにそう告げられ二人の顔から安堵の表情が見える。
ここまできたら後はこのシーンを他のシーンと同じくよりブラッシュアップしてい作業になり、やっとスタート地点に立ったと言える。でもその入り口にさえ立っていないのはついに私のシーンだけとなってしまった。
そして何より夕日ちゃん。初めは先輩風を吹かせて初舞台をサポートしていこうとしていたけれど、あっという間に私は彼女に追い抜かれて言った事に改めて気が付かされてしまった。
「凄いな」
私はぽそっと本音を漏らした。
「飲む?新商品なんでしょ、これ。和澄から聖ちゃんが気に入ってたって聞いたから」
「…ありがとうございます」
散々だった稽古が終わり自分の情けなさに愕然とした私は一人で稽古場に残っていた。
夕日ちゃん達も付き合ってくれると言っていたが一人になりたいからと断った。
私がそんな事言うだなんて思ってもいなかった夕日ちゃん達は驚いていたが、一番驚いていたのは自分かもしれない。
その後、一人になって台詞を何度繰り返してみてもやはり何も掴めない。ついに私は台本を片手に座り込んでしまった。
そんな私の元に突然現れたのがまさかの璃緒さんだった。
「お仕事帰りですか?」
「うん、そう。章さん達とちょっと打ち合わせがあってね」
神出鬼没と書いて白尾瑠緒と読むって和澄君達が言ってたけど、まさにその通りだな。と思いながら自然と私の隣に座った瑠緒さんを見ていると、キラキラの笑顔を私にお見舞いしてくれる。うん眩しい。けど…だけど、本当は誰とも話したくなかったけれど、不思議と瑠緒さんを受け入れている自分がいた。
「章さんも、今回はまた難しい本書いたよね~。面白いけどさ」
「あ…はい。すごく面白いんです!」
物語の舞台は厳しい階級社会が存在する争いが絶えない中世ヨーロッパに似たとある世界。
主人公は要さん演じる凄腕傭兵。彼は自分の主の妻と禁じられた恋に溺れていた。そんなある日、二人の関係が怜吾君演じるとある青年に知られてしまい…という所から話は始まる。
決して本性を見せない主の妻を美早子さんが、そして私と夕日ちゃんは姉妹で主の娘という役を演じる。
「前半は会話中心でお互いがお互いを疑い合う心理戦。後半は一気に話は動いてアクションがメイン。前半では静かな会話劇の中でいかに観客を飽きさせることもなく上手く運ぶことが重要だし…後半は後半で下手なアクションを見せて一気に興ざめさせたり、ただのドタバタにならにようにしなくちゃいけない。ん~…他にも色々あるけど、第二回でこれは責めたね」
「確かに、難しいですけど、やってみせたいんです、この舞台を」
「うん、その心意気いいね~。そういえば…特に若手三人が頑張ってるって聞いたけど?」
「…いや…それは…夕日ちゃんと怜吾君だけです。私は…ダメダメで…」
私は瑠緒さんと目を合わせる事が苦しくなり下を向いてしまった。
そんな私を見て瑠緒さんは小さく笑った。
「聖ちゃんの今回の役ってさ、聖ちゃんがお願いした役どころなんでしょ?」
「え?あ、はい…」
「自分とは真逆の役をやってみたいって言ったんでしょ?だから今回のこのナータという女性は唯我独尊、厚顔無恥という聖ちゃんとは真逆の存在。でも、それは色んな悲惨な目に合った事でどんどんおかしくなっていってしまった結果の姿で、本当は自然を愛する優しい穏やかな女性だった。ここら辺はちょっと聖ちゃん風味だよね」
「そう…でしょうか…?」
「そして彼女は自分だけがどんどんおかしくなっていったのに、いつまでも清らかな心を持ち続ける妹が憎い!対する妹はそんな姉を健気に支え続ける…という風に見せかけて実は本心ではとある計画を企てていた。全ては愛する男を手に入れるために。うんうん。実はこの姉が一番可愛そうな役だもんね」
「そうなんです!だから私は、彼女の事をきちんと分かって演じたい。なのに…それが出来ないんです…。私がお願いして考えてもらった役なのに…彼女の気持ちが分からないんです」
そう。私が止まってしまっている問題のシーン。
あそこは長年の想いが爆発して妹への恨みに妬み、嫉妬が爆発し暴走を始めるという彼女にとっても、物語にとっても大切なシーン。
でも、その気持ちに私がついていけず、どうしても嘘くさい薄っぺらなものになってしまうのだ。
今までの事を考えると彼女が妹に対して強烈な想いを抱くという事は理解できるのに。だけど、どうしてもその気持ちにシンクロ出来ないのだ。
でもその原因は本当はもう分かっている。
だって私は…今まで嫉妬や妬みを持たずに生きて来たから。
そんな自分なったきっかけなどは特にはない。元々そういう性格だったのかもしれない。
自分に対して悪意を向けられとしてもそれは自分に責任があるのだろうと思うし、凄い人達を見てもきっと私よりも凄い努力をしてきたんだ、私も頑張ろうと思う。
時々、こんな私を「怖い」と表現する人や偽善者だとか言う人もいたけれど、それもそう思わせてしまっている私が悪いだけだから。
だからどうしても本来の私を殺すことが出来ず、彼女に気持ちをのせることが出来ない。
人に怒りや憎しみを抱いたことは無く、嫉妬という気持ちを全く理解できずにいた。
こんな事、役者としてはダメだって分かっているのに。
私は台本を思わず抱き合しめた。
「…でもさ、章さん、今回ちょっとミスったね」
「…え?」
突然の瑠緒さんの言葉に私は困惑する。
「だって、聖ちゃんと真逆の役どころってお願いしたんでしょ?」
「えっと、そうですけど…」
「だったらさ、やっぱりちょっと違うよね~だって妹役って夕日ちゃんなんでしょ?だったら最近の二人の関係と同じじゃない?」
「あの…どういうことですか?」
「ん?何?もしかして聖ちゃん、気が付いてない?」
「…何を?」
「だって、最近聖ちゃん、夕日ちゃんにライバル心めちゃ燃やしてるじゃん?ほら、ここ。ここの台詞にもあるでしょ?『私は貴女になりたかった』って。まさにそういう顔してるじゃん」
「う…そ…」
「さっきだってそう。ここで座りこんで台本睨んでる姿とかこの姉まんま。つまり、結局章さんは聖ちゃんに寄せて役を書いてしまったというわけだ!真逆ではないよね」
瑠緒さんの笑顔が冷たく感じた。
どういう事?何を言っているの?
私は、そんな気持ち抱いていない。だって夕日ちゃんは私にとってこの劇団の大切な仲間で…今ではもう友達で…それなのに…まさか…私が…?
呆然としている私を横目に瑠緒さんは尚も続けようとした時だった。
「瑠緒~!!!いつまで話してんだ~!話の続きぃ~!!!」
周多さんの声が事務所の方から聞こえた。
「あ、やべ、怒られる」
その声に反応して瑠緒さんは話を止めた。
「んじゃま、お呼び出しがかかったからそろそろいくわ、俺」
私はまだショックから立ち直っておらずただ小さく頷き、軽やかな足取りでその場を後にする瑠緒さんの背中をただただぼーっと見つめていた。
すると最後に瑠緒さんがこちらを振り返り私の目をしっかりと捉え言い放った。
「役者とはひたすらに役と向き合う仕事。そして自分を知る事だ。…逃げてちゃ、勝てないよ。小川夕日に」
その言葉は銃弾で撃たれたんじゃないと思うほどの衝撃だった。
放心状態のまま私はしばらくそこから何も動けなかった。
どのくらい時間が経ったのだろう。ふと稽古場の鏡に映る自分を見やる。
そこで初めて今の自分の顔をみて瑠緒さんの言葉の意味をやっと受け入れる事が出来た。
そうか、私があのシーンが出来なかった理由。それは。きっと…。
私は、初めて生まれた感情をただ静かに抱きしめていた。
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