第2話

 高校で物理教師をしている松井駿輔まついしゅんすけはその時、物理室で翌日二年生の実験の準備をしていた。

 物理室の向かいにある、生徒相談室が何やら騒がしい。議論が繰り広げられているように聞こえた。少なくとも、普段の生徒相談室から発せられる音ではない。

 いつもなら帰宅が待ち遠しいのだが、今日はなぜか一人、この実験室に居たい気分だった。特に用がなかったのもある。ほんの興味本位から松井は物理室を出て、相談室の扉に耳を当てた。

「兄がなぜ自殺したのか、知ってますか」

これはよく知った声だった。名前は確か鈴谷秋葉。成績優秀、風紀や振る舞いも大人びていて周りからよく慕われている。彼女に悩みなどあるのだろうか。だがそんなことより、会話の内容が衝撃的だった。

「そうですよね、あなたにとっては家族でもなければ友達でもない。あなたはいつも自分の行動で解決したつもり。でも私達が、あなたのせいで一時期どんなに苦しんで、辛い思いをしたか」

「ちょっと待ってくれ、君は何か誤解をしてないか」

これは今年度から赴任したスクールカウンセラーである片山の声だ。

「いいえ、というより、私も最初はなんで兄が自殺したかはっきりとは分からなかった」

 三十分程だろうか、二人の会話を聞いているうちにおおよその内容が掴めてきた。といっても、聞こえたのは殆どが、秋葉の声だった。

 二年前、秋葉の兄、彩人が学校へ行かなくなった。親は心配した。母親が問うと、

「いろいろと疲れているから一週間だけ休ませてほしい」

学校での成績も比較的優秀、バスケ部で部長を務めていることも知っていたから疲れているという言葉に同情した。また、一週間という期限付きであったことが親の不安を軽減させたのだろう。

 秋葉はその時学校、部活、塾の毎日と多忙を極めていたのもあり、母親からそれほど重大ではないと聞かされあまり意識に無かったという。

 一週間が経ち、朝、母親が部屋を除くと彩人の姿は無かった。無事学校に行ったのだと思い込んだ。

 秋葉にとっては、何気ない一日のはずだっただろう。学校で兄の命の危機を知らされ、病院へ向かう時、彼女はどんな心情だったか想像するだけで切なくなった。彩人は自ら命を絶った。

 その時のニュースを、松井は今でも覚えている。インターネット記事では、その男子高校生がどんな悩みを抱えていたか、というより、その事故によって交通網にどれだけ影響が出たか、に焦点が当てられていた。

 比較的混雑することの多い都会の駅でのことだったので、そのダメージは確かに大きかった。記事のコメント欄には

「死に時までも他人に迷惑をかけた」

「自殺するのは勝手だが、せめて周りの大人達に配慮しろ。自分勝手極まりない」

など、中傷の言葉が多く見られた。死んでも尚、責められる。また遺族の気持ちを考えると、胸が痛んだのを覚えている。

 その時ふと、これこそがその男子高校生の"望み"なのではないか、もしかすると、これは自身を追いやった「社会」そのものへの復讐なのかもしれない、と思った。

 しかし、それに気付いたところで、松井のような一般人にはどうすることもできなかった。

 半ば当たり前のように、彩人の家族は悲しみにふけた。いろいろな調査が入ったがどこから見てもいじめは無かった。

 理由が分からない、そのことが何よりも家族を苦しめた。

 彩人が自殺した時、片山はスクールカウンセラーに相談があったことの報告を怠った訳だ。

 遺族はしばらく、彩人の部屋を整理するのを躊躇っていたのだが、その一人である秋葉がある時、ほんの興味本位から兄が使っていた勉強机を調べたところ、引き出しから生徒相談室の予約票を見つけた。秋葉は急いでそれを母親に見せた。

 間もなく両親がすがる思いで学校へ行き説明求めたものの、既に片山カウンセラーは他校へ転任していた。

 学校はもう終わったこととして捉えているのか、はたまた触れたくない腫れ物的な話題なのだろうか、あまり協力的でない。

 そこで調査の方針を変え、彩人をよく知る人達に話を聞くことにした。日頃から信仰のあったという友人やバスケ部員、中学校からの同級生など、時には部活動が終わる最終下校時刻まで校門の前で待ち、生前の彩人について訪ねて回った。

 有益な情報が得られなくとも諦めず、関わりのあった人を虱潰しに電話を掛けては、翌日出向く。ただ、息子について少しでも多くのことを知るために。

 その血の滲むような努力の結果、いくつかの真実が見えた。

 実は彩人が学校を休む前、ある噂が立っていたのだという。 どんな理由からカウンセラーを訪ねたのかは分からないが、彼が生徒相談室に入っていくのを誰かが見ていたのだろう、

『鈴谷彩人は人間関係で悩みを抱えているらしい』

ということだ。その噂は本人自身が気付いてもおかしくない程度にまで広まった。

 秋葉曰く、責任感が人一倍強く、繊細な兄にとって自分を見る周りの目が変わったことは、この上なく辛いことだっただろう。それだけでなく、彩人はバスケ部の部長としての立場に相当なプレッシャーを感じていたこと、二年生に進級してから勉強に悩みを抱えていたらしい、ということが分かった。

 秋葉達家族にとって、先が見えそうで見えない、その白いカーテンは開かれた。けれど日差しが入ってくることは無かった。

 噂が立っていたことを打ち明けた友人達は、いじめの調査委員に対し怖くて話せなかったのだという。

 「あなたは直後に、依願転任しましたね。事実から目を背けるようにして。母は、なんでこんなにも息子のことを知らなかったんだろう、学校を休んだ時点でもっと向き合うべきだったって、ずっと後悔してる、多分、それは死ぬまで消えない」

 胸を打たれた。自分の教える生徒の中にそんな辛い出来事を持った人間がいるなんて、想像もしなかった。

 途端に場の空気が変わるのを松井は感じ取った。

「おい、やめるんだ、正気かっ」

片山の声だ。

「あなたにはもっと、できることがあったんじゃないの、私にはどうしてもあなたが兄を見捨てたような気がしてならないの」

声が少し震えている。秋葉は先程から涙を流しているようだ。

「やめろ、そんなことしても意味がない。お兄さんは君が手を汚すことは望んでないんじゃないか」

「そうでしょうね、こんなことしたら私はもう二度と今のような生活はできないかもしれない。でも、何よりそれが、私が受けるべき罰なの。これは自己満足、もしかしたら、八つ当たりかもしれない、とにかくこれは、兄のためじゃない」

 気付けば松井の心臓は激しく拍動し、全身が総毛立っていた。

「さっきも言った通り、あなたにはもっとできることがあったんじゃないの、お願いだから、どうか、抵抗しないで」

 秋葉はこんなことを口にするタイプではないから定かではないが、兄に対する想いは誰よりも強かったのだろう。それを今、秋葉自身が十分に物語っている。

 彼女に同情はできる。ただ、だからこそ行動に起こさせてはいけない。


─彼女を止めなければ─


 勢いよく相談室内に飛び入った。秋葉が刃物を強く握って片山に向かう姿が目に映った。彼女に松井の姿は見えていないようだった。混乱する片山を尻目に、彼女めがけて力強く身体をぶつけた。

 思ったよりも彼女の体は軽く、ナイフを落として床に倒れ込んだ。その一瞬を逃さず、松井は彼女の身体を背中から締め押さえた。松井は高校時代、柔道部だったのだ。

「やめてっ、離してっ」

彼女は抵抗した。

「だめだ。君の気持ちは十分わかるが、これでは君が報われない。こんなことで人生を潰すのかっ」

彼女は泣いていた。必死の抵抗は続いた。

「いいのっ、お願いだからっ、離してっ」

 彼女の力の強さに松井は驚いた。一瞬離してしまいそうになる程だった。体をぶつけた時のフィジカルからは考えられない。

 これは強い殺意によるものなのか、だとしたら松井は今までの人生で目にした中で、最も強い意思だと思った。その意志は彼の妨害によってさらに膨れ上がったように思われた。

 激しく藻掻くことで長い髪は乱れ、制服も畝っていた。

「お願いだから、こいつを、こいつをっ」

秋葉の顔は見えなかったが、恐らく悔しさで顔を歪めているのだろう。

松井は言葉を失った。

「こいつをっ」

泣いて訴える、その声が響いた。まるで、魂を吐き出しているかのように。

 その間、片山は顔を真っ青にし呆然と立ち尽くしていた。心理カウンセラーには共感力が高い人が多いと聞いたことがある。片山自身もまたショックを受けている。あるいは後悔かもしれない。


 片山が心理カウンセラーを目指すきっかけは高校二年生。家庭科での調理実習の時だった。

 分けられた班ごとにそれぞれ調理を進めていく訳で、片山の班にはもう一人男子生徒と、恭子きょうこという女子生徒がいた。

 実習中、家庭科教師の梶谷かじやが見回りに来た。そして、恭子の手首に傷跡があるのを見つけた。彼女は所謂、リストカットを試みたのだ。梶谷は即座に問い質した。

「何があったの?」

「辛いことは言葉にするの」

「誰にも言わないから、もうやらないこと。約束できる?」

違う。違う。片山は思った。ただでさえクラスメートの見つめる中、詰問するのは非常識にも程がある。

 そして何より、一人自傷しておきながら、今学校に来て、片山にとって何よりも輝かしい笑顔を見せている。

 少なくとも、今に至るまで数え切れない自分との闘いや、苦悩があった筈だ。一日二日の話ではなく、誰かの力を借りながら、それでも最後は自分自身でまた歩くことを決めたのだ。

 その決意を、勇気を今、梶谷は根本から無慈悲に壊している他に無い。彼女の言動はただ、悪意にしか見えなかった。

「もういいですから、やめてください」

そんなことを繰り返していた恭子は次第に、俯き、泣き出してしまった。保健室に連れて行かれた彼女は、その後すぐに早退した。

 そして、学校に来なくなった。片山自身、あれから恭子の姿を見ることは一度も無かった。後にどうなったのかさえ知らない。

 片山は彼女の気持ちが分かっていたにも関わらず、間に入ってやれなかったことを激しく後悔した。そのやりきれない思いが、臨床心理士という道に導いたのだ。


 鈴谷彩人が自殺した。片山はもちろんショックだった。その現実から、絶望から逃げたくて、その日の夜は酒に溺れた。

 だが自分は他に何ができたかを考えた時、答えは結局見つからなかった。職業柄、あり得ない事ではないのだ。

 しばらくして、片山は決心した。スクールカウンセラーとしてこれ以上、この世から無くなる事のない悲しみを、心の鉛をそのままにしてはいけない。何より仕事にやりがいを感じているのだから、前を向くしかないのだと。

 違う。それは単に自己満足でしかなかった。誰しもが、生きていればどこかに心の拠り所がある。

 人が一人死ぬ、それが自殺だったなら尚、後悔として身近な人の心も同時に死んでいる。その事実に、片山は向き合わなくてはならなかった。

 また彩人の死に自分が深く関わっていた、それをもっと早く、自分から知らなくてはならなかった。普通であれば知らせを受けた時、カウンセリングに来たことを報告するべきだ。だが片山は、事実に背を向けた。結果的に遺族を振り払うように見捨てた訳だ。全てが自分中心だったと言わざるを得ない。

 それだけでない。元々彩人は、カウンセリングの時必死に叫んでいたというのに、心の状態を、深刻さを軽視していた。一本のちぎれかけていた糸を、結んであげることができなかった。それが仕事だというのに。

 片山はまた、失敗した。


 次第に秋葉の抵抗は弱まっていった。だが身体を離しても、泣き声はいつまで経っても止まなかった。

 訴える声も、その時には声ではなくなっていた。彼女の背中は小さく、今は何よりも弱く見えた。

 胸が締め付けられた。自分は何か取り返しのつかないことをしてしまった気分に陥った。甘く見ていた。彼女を、その心の傷の深さに。また、鈴谷兄弟の絆の強さにも。

 鈴谷彩人が自殺した時、調査を受けた生徒の中で、噂を知っていた者は、死に追いやったのは自分達なのではないかと心のどこかで思っていた筈だ。

 噂が立っていたことを告白しても、仮に周りの人間が黙っていたとしたら、自分は疑いの標的になってしまう。

─自分が言わずとも、他の誰かが喋ってくれるだろう─

その個々の意識の連鎖が、真実に蓋をしたのだ。

 鈴谷兄妹は、この悲しみは、言わば学校という小さな社会が生んだ被害者だった。

 辛かったんだな。優等生である彼女の、今は弱々しいその姿を見て松井は思った。兄を失った絶望は計り知れない。それが救い得たものなら尚更だ。

 その傷が治らない限り、彼女にとってどんなに学校で名声を得ようと、これからどれだけ成功しようとも、輝かしい未来なんて無かったのかもしれない。そして、その傷は癒えない。少なくとも、片山が生きている限りは。


 復讐で人を殺めることは決して許されることではない。今は亡き、愛する人はそんなことは望んでいないかもしれない。

 しかし、その復讐が自分のためだとしたらどうだろうか。その後の人生を棒に振ってでも晴らしたい無念があるとするならば、それを裁くのは法律だろうか。

 これは彼女に限ったことではない。世の中はいつも、悲しみの声で溢れている。人は誰もが、生きていれば悩みを抱えているものだ。

 自分のしたことが、まるで偽善のように思えてきた。秋葉の心は、また、死んだ。

 いつの間にか夕日はさらに沈み、放課後の薄暗い生徒相談室には茜色の光が差し込まれていた。それを背に受けながら、松井は自分に問いかけた。

 これで本当によかったのか、と。

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