第28話 夜湖

 その日、ジュノーンとリーシャはエルフの里で泊まる事になった。彼らの来訪知っていたイザルダが、来訪者用に料理を用意してくれていたのだ。心身ともに疲れ切っていた彼らが、断るはずもない。

 食卓には、兎のオレンジ煮や〝帰らずの森〟の植物から作られたエルフ風サラダ、デザートに青苺の盛り合わせなどが並べられている。どの料理もローランドでは食べた事ないものばかりで、ジュノーンは初めて味わうエルフ料理を楽しんだ。

 リーシャは終始、自らが過ごした七年間をヴェーダとイザルダに話しており、二人もまたそれを微笑ましく聞いていた。

 ふと、ジュノーンはエルフが外来者を嫌うという噂は嘘ではないかとも思った。二人のエルフがリーシャを見る眼差しは、まるで遠い親戚が遊びにきたような、そんな印象を受けたのだ。

 ジュノーンは、そんな団欒を邪魔するのも悪いと感じ、こっそりと席を立って表に出た。

 もう夜になっていて外は暗いはずだが、森の中でも見たランプ草や月光が照らし、思ったより明るかった。湖の水も青光しているように感じる。


「……綺麗だ」


 その神秘的な光景をみて、ジュノーンは心から安らぎを感じた。この二日間があまりに激動だった事もあるだろう。自分の立場もすっかりと変わっていて、一息吐く余裕すらなかった。

 今、ようやく姫君を連れた脱獄劇から脱したのだ、と実感できた。その途端、一気にぐったりと体に重みが伸し掛かる。緊張の糸が完全に途切れてしまったのだ。

 ジュノーンはそのままどさりと後ろに倒れ込んだ。

 侍女達は国から何も言われていないだろうか、不当な扱いを受けていないだろうか、看守の家族は上手く逃げてくれただろうか……そんな事に気を回し始めて、ようやく自分にも他人の事を考える余裕ができた事を実感する。

 今やジュノーンには、家族はいない。今回の謀反によって失ったものは、せいぜい土地と屋敷程度のものだ。ローランド帝国に手痛い報復をできた事を考えると、釣りがくる。

 今のローランド帝国に従う事はジュノーンにとって苦痛でしかなかった。親の仇の味方をしなければならないのは、苦虫を噛み潰すかの様な気分だった。今、それらからようやく彼は解放されたのだ。

 ジュノーンは靴を脱ぎ捨て裸足になり、足だけ湖につける。冷たくてとても気持ちが良かった。

 そのまま岸に座り、もう一度ごろんと寝転がった。エルフの里からも星空は綺麗で、疲れた体と心を癒してくれる。

 もしかすると、マフバルはイザルダの言う〝闇の蠢く力〟の一端なのだろうか。バーンシュタイン家が急襲されたのは、マフバルの出世の為だけでなかったとしたら、どんな意味があるのだろうか。

 今更考えてもどうしようもない事に想い耽っていると、聞き覚えのある声が背後から聞こえてきた。


「その湖、夜になると〝人喰魚〟が出るから足を喰い千切られるわよ」


 その声を聞いて反射的に目を開け、慌てて足を湖から引き抜く。


「──というのは、冗談よ」


 振り向くと、くっくっと笑う声と共にあったのは金髪で長身細身の美しいエルフ娘、ヴェーダだった。


「お前な……」


 ジュノーンはほっとした反面、からかわれた事を察知して苛立ちを露わにした。どうにも、このエルフ女がジュノーンは苦手だったのだ。

 ジュノーンは彼女を無視するように、視線を湖に向けた。


「どう? エルフの里は。人間の街に比べたら退屈かしら?」


 ヴェーダはジュノーンの横に腰掛け、同じように湖へと視線を向ける。


「いや……良い所さ。空気も綺麗だし、神秘的だ。エルフが里から出たくない理由がよくわかる」


 こんな場所があるなら、誰だって人に知られたくない上に、ひっそりと暮らしたいと思うだろう。

 他人が介入すれば必ず変化が訪れる。エルフはそれを嫌うのだ。


「そうかしら? 私は退屈だわ。エルフは寿命が長いからか、何かに一生懸命になるという事が滅多にないの。生き甲斐もなくて、退廃的な思考の持ち主が多いわ」


 そんなものか、とジュノーンは思った。

 だが、そう考えるとイザルダとヴェーダがあれほどまでにリーシャを歓迎する理由もわかった気がした。彼女は人懐っこい性格であるし、喜怒哀楽も激しいからエルフにとっては新鮮なのだろう。


「リーシャは?」

「あら、お月見の相手は私じゃ不満かしら?」


 美しいエルフがジュノーンの顔を覗き込む。

 ヴェーダはエルフの中でも美しい女性だ。ジュノーンの鼓動が跳ね上がったのは言うまでもない。エルフ族は基本的に長身細身で容姿も美しいのだが、集落の女の中でもヴェーダは群を抜いて美しかった。


「そういう意味じゃない。あいつがどうしているのかと思っただけさ」


 疲れていたしな、とジュノーンが付け足す。


「ふぅん?」


 ヴェーダはあまり信用していないという様な生返事を返すと、視線を湖へと戻した。


「リーシャは今、御祖母様と一緒に食器を洗っているわ。きっと、御祖母様にとっては私より可愛い孫みたいなものね」

「何でそう思うんだ?」

「さあ? なんとなくかしら……私は愛想も良くないから」

「それは確かにそうだな」


 疲れていたせいか、ついそのまま思った事を返事してしまった。

 彼女が黙り込んだ事で、初めて失言に気付いた。


「……今ウンディーネを召喚すればどうなるかしら」

「ヴェーダはとても愛想が良くて美しい子だと思うよ」

「あら、ありがとう。人間から言われても嬉しくないけど、一応御礼を言っておいてあげるわ」


 ヴェーダは冷たい笑顔で答えた。

 面倒な奴だ、とジュノーンは小さく息を吐いた。湖の近い場所で水の精霊〝ウンディーネ〟を呼ばれたら確実に溺死してしまうだろう。


「リーシャは御祖母様のお気に入りなのよ」


 ヴェーダがぽつりとひとりでに語った。

 ハイランドに住まう五大使徒マルファ=ミルフィリアの子孫は、代々その力に目覚めた時にエルフの長にその力の操り方や制御の仕方を教わりに来る慣習があるそうだ。

 ヴェーダも三代マルファ=ミルフィリアの子孫を見たそうだが、リーシャの才能はその中でも別格だったと言う。


「今にして思えば、世界がリーシャを必要としているからこそ、彼女にはあれ程の才能が与えられたのかもね」

「そんなに凄いのか、リーシャは」


 ヴェーダの年齢が気になったが、聞いたところでろくな目に合わない事は分かっていたので、ジュノーンは敢えて流す事にした。

 ただ、何となくヴェーダがリーシャに対して、羨望にも似た気持ちを持っている事がわかった。


「ええ、彼女は聖魔法としての使い手として既に頂点に近い領域にいるでしょうね。簡単に森の結界を解いた様に見えるかもしれないけれど、あんなの誰にもできないわよ」


 やっぱりな、とジュノーンは納得した。

 リーシャの言う『そのくらい』は『とてつもなく凄』かったのだ。


「それだけに、彼女が勝手に結界を抜けてローランドに捕まったと知った時は、私も御祖母様も卒倒しそうになったのよ。本当にあなたには感謝しているわ」

「そうかい、それはよかったよ」


 あまり感謝されているような待遇を受けていなかっただけに、ジュノーンもまた生返事で返す。

 家の方からは食器を洗う音と、リーシャの笑い声が聞こえてくる。そういえば、彼女の笑い声を初めて聞いた気がした。

 思い返してみれば、脱獄してから笑う暇などなかった。ジュノーン自身、こうしてゆったりとした気持ちになれたのは、ローランドを出てから初めてだ。本音を言うとジュノーンも身心の疲労が限界に達していたのだ。


「そうそう、これからは私もあなた達に同行するわ。御祖母様の指示でもあるし、リーシャも危なっかしいところがあるからね」


 精霊使いがいればあなた達も心強いでしょう、とエルフ女が付け足す。


「……そうか」


 ジュノーンは少し返答に迷った。

 ヴェーダと行動を共にする事に、若干の危機感を感じたからだ。


「何か不満でも?」

「いや、何も。宜しくな」

「ええ、宜しく。それじゃあ、私はこれで。明日は早いから寝坊しないようにね」

「ああ」


 ヴェーダは手で欠伸を隠して立ち上がり、後ろ向きに手を振って去って行った。

 エルフの老婆はとんでもないものを寄越してきたな、とジュノーンの疲労感が上乗せされたのは、言うまでもない。

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