第29話 月絆
「やれやれ、先が思いやられるな」
ヴェーダの背中を見送ると、ジュノーンはもう一度溜め息を吐いた。
エルフという種族がそうなのか、ヴェーダがたまたまなのかは解らないが、どうにも恫喝思考がある。彼女と行動を共にすると、色々と気苦労が増えそうだ。
そんな事を考えながら濡れた足を織物で拭っていると、ヴェーダと入れ替わる様にリーシャがイザルダの家から姿を現した。手には飲み物らしきものが乗せられた盆がある。
転けるのではないかと心配しながら見ていたが、リーシャは予想外にもしっかりと盆を運んできた。
「イザルダさんが淹れた紅茶です。一緒に飲みませんか?」
「ああ、頂くよ」
ジュノーンの返事を聞くと、リーシャはにっこりと微笑んでから、青年の横に腰掛けた。そして、紅茶が入った木杯をジュノーンに渡す。
「これ……紅茶なのか?」
木杯の中を見て、ジュノーンは怪訝そうに首を傾げた。
月明かりだからなのかもしれないが、どう見てもこの茶が『紅色』をしていない事は間違いなかった。青い透明色の液体にしか見えず、あまり飲みたいと思う色ではなかった。
「エルフの森産の茶葉なので、とっても貴重なんですよ? 色は気にしてはいけません」
リーシャは少し得意気に言ってから、その紅茶に口をつけた。
ジュノーンもそれに倣って、恐る恐る木杯を口に運んだ。全くどんな味なのか、想像がつかなかったのだ。
ほんの少しだけ口に含んで舌の上で味を確認するが、味は悪くない。鼻の中にすっと抜けるような、爽快味や冷涼感がある珍しいお茶だった。
紅茶の良し悪しは詳しくないが、趣のある味だと言えよう。
「あの、ですね……」
リーシャが若干躊躇しながら、こちらの様子を伺う様に切り出した。
「うん? どうした?」
「あの……この度は本当に、ありがとうございました」
青髪の王女はこちらに向き直ったかと思うと、ジュノーンの瞳をしっかりと見て御礼を言った。
月夜に照らされたリーシャの頬は、紅く染まっている。
「俺も怪我を治してもらってるからな。そこは言いっこなしだ」
「いえ、そうではなくて……」
リーシャは
「御礼を言うのは無事にローランドを出てからにしろ、とジュノーンは言いました。なので、改めて今、御礼を言いたかったんです」
そういえばそんな事を言ったな、とジュノーンは思い返す。
確か、下水道へ彼女を降ろす時に彼女は一度御礼を言った。だが、その時ジュノーンは礼は国外に逃げて言え、という旨の返答をしたのである。
「もう二度と、こんな素敵な夜を過ごせないと思っていました。ジュノーンには感謝してもし切れません。本当にありがとう、ございました……」
じわりと彼女の青い瞳に涙が浮かび、彼女はそれを隠す様に俯いた。
リーシャにとっておそらく先程のイザルダとの会話や、姉のように接していたヴェーダとこうして会えるとは夢にも思わなかったのだろう。そこでようやく彼女は以前の日常に戻れたと感じたようだ。
「感謝するなら、俺の気まぐれに感謝してくれ」
ジュノーンは照れ隠しでぶっきらぼうに答えた。
ただ、リーシャはそんなジュノーンの言葉に首を横に振る。
「そうじゃないんです……私は今、こうしてジュノーンと当たり前に話せている事も嬉しいんです」
「俺と? 俺となんて、いつでも話せ──」
「そんな事ありません!」
リーシャが強い語気でジュノーンの言葉を遮った。
視線を逸らしていた青年が驚いて正面を見ると、そこには頬から涙を零す王女の姿があった。
「あの時、もう会えないと思いました……!」
リーシャは零れる涙など気にも留めず、ジュノーンをしっかりと見つめていた。
あの時、とはもちろん彼の記憶にも思い当たる事がある。愛馬に耳打ちし、彼女だけ逃がそうとした時の事だろう。
「リーシャ……」
「もう、絶対にあんな事はやめて下さい……! あんな想いは二度としたくありません。お願いですから、もうしないで下さい……」
リーシャは肩を震わせて、嗚咽を漏らす。それでも彼女は彼から視線を逸らさなかった。
銀髪の青年は、彼女の瞳に射抜かれる様に見られるのが苦手だった。目を逸らせず、直視してしまう。そして、危うく吸い込まれてしまいそうになってしまうのだ。
「もう、しないで下さい……!」
念を押す様にしてそう言うと、彼女はジュノーンの肩に額を押し付けた。リーシャの鼻を啜る音が肩口から聞こえる。
ふと、自分が馬から降りた時のリーシャの表情を思い出した。
最初は状況が上手く理解できずに困惑しており、それを理解するにつれて、絶望色へと顔色を変えていった。
彼女がどれ程あの時絶望し、悲しんだのか、この時改めて実感したのだ。
「……わかった。約束するよ。もうあんな真似はしない」
リーシャの震える肩をそっと抱いて、その青い髪を優しく撫でて、彼女に誓う。
彼女は何も応えずに暫くすすり泣いていた。その間ジュノーンはずっと彼女の髪を撫でて、その肩の震えが治まるまで抱き締めていた。
月夜に照らされた二人に、新しい絆が生まれた瞬間である。
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