第16話 心叫
(ジュノーン様……あなたは、本当にバカです!)
ジュノーンが一人で下馬してから、リーシャは何度この言葉を心中で発したかわからない。
彼が自分の為に犠牲になろうとしている事は分かっていた。もしかしたら、他に自分を助ける策がなかったのかもしれない。だとしても、リーシャはその様な策を彼には採ってほしくなかったのだ。
これまで、自分の浅はかな行いのせいで何人もの人に迷惑を掛けていた。その中には命を落とす人もいるかもしれない。これ以上自分のせいで命を落とす人が現れては、彼女は自分の行いを悔やんでも悔やみきれなかった。
最悪はハイランドに帰らないという手もあったのだ。他の国境からローランド帝国から逃れられれば、広大なルメリア大陸の至る場所に逃げる事も可能だった。ハイランドには二度と帰れないかもしれないが、それでも自分の身代わりになられる方が彼女にとってはつらかったのだ。
(いえ……違いますね)
彼女は自らの中に浮かんだ欺瞞を自らで否定する。
(私は……彼に、生きていて欲しいんです)
そして、あわよくば彼と共に生きたい──彼女は心の中でそんな願望を抱く様になっていた。
彼がリーシャを助けたのは、自らの復讐を果たす為だと言っていた。
しかし、その復讐の為だけに、自らの命を捨ててまで彼女を救う意味がない。おそらくあの銀髪の美青年は、彼女の為に残って戦う事を選んだのである。
そうだとするならば、彼女の選択もまた、一つしかなかった。
「……止まって下さい!」
リーシャは声を張りあげて手綱を引き、馬に止まる様に指示する。しかし、全く止まる気配がなかった。
リーシャとて馬術には心得があるが、ここまで騎手の指示を無視する馬は初めてだった。いや、ジュノーンの指示以外は聞かない馬なのかもしれない。こうも無視をされると、その様にも考えられた。
騎乗人数がひとりになった事もあり、先程よりも遥かに速い。この速度で飛び降りたら華奢なリーシャなど骨折してしまうだろうし、彼の元に戻る算段もなくなる。リーシャは何としてもこの馬の騎手にならなければならなかった。
「止まって下さい、お願いします!」
王女の悲痛な叫びが児玉するが、それでも馬は止まらなかった。
そこで彼女はジュノーンが下馬する前、何か馬の耳元で話していた事を思い出した。
ルメリア大陸には『馬の耳に女神の祝福』という諺がある。馬にはどんな有り難い神の言葉を言っても無意味であるという意味なのだが、この馬はおそらく自らの主君の言葉を理解できるのだ。だからこそ主君の指示に従い、手綱を引いても速度を緩めないのである。
(そんな……諦めるしかないんですか?)
まだリーシャには、ジュノーンが自分の髪や頭を撫でてくれた感触が残っていた。とても心地良く、胸が暖かくなると同時にきゅっと締まる様な、それでいてもっと撫でて欲しいと想ってしまう様な不思議な感覚だった。あれが最後だとは思いたくなかった。
もっと彼に触れてほしいし、もっと触れていたい──リーシャが男性に対してそんな風に思うのは生まれて初めてだった。彼との別れを想うと、それだけで涙が浮かんでくる。
彼女の為に爵位や国を捨て、そして命まで捨てようとする人がいるにも拘わらず、自らは何も出来ない。彼女はそれが悔しくて堪らなかった。
(そんなの……そんなの絶対に嫌です!)
リーシャは頬を流れる涙を拭い、ジュノーンがしたように馬の耳元まで体を寄せる。速度が速いだけに馬上を動くのも恐かったが、今の彼女はその程度では止まらない。
リーシャは意を決して馬の耳に向かって叫びかける。
「聞いて下さい! このままだと、あなたのご主人様が死んでしまいます! お願いですから、止まって下さい!」
ジュノーンの愛馬は止まる気配がない。
しかし、リーシャは諦めずに言葉を紡いだ。
「あなたは彼と会いたくないんですか⁉ ここで止まってくれなかったら、もう一生ジュノーン様に会えなくなってしまいます……私もあなたも、もう二度とジュノーン様に会えなくなってしまうんです! 言葉がわかるなら、止まって下さい! あなたが本当にご主人様を慕っているなら、何でも言う事を聞かないで下さい!」
リーシャは馬の耳元で精一杯叫んだ。矢継ぎ早に、思いの丈をぶつけた。もうそれしか彼女には術が残されていなかった。
「お願いします……彼を助けられるのは、もう私達だけなんです……!」
青髪の王女は祈る様にそう呟いた。
すると──馬が急に走る速度を落とした。そして、遂には立ち止まったのである。
「……え?」
リーシャは信じられない、という様子で身を乗り出し、馬の顔を覗き見る。
「私の言葉、通じたんですか……?」
馬は何も応えないが、その大きな瞳にリーシャを映していた。
「私の言う事、聞いてくれますか……?」
ブルル、と優しく馬が鳴く。
それは、彼女の問いに対して承諾してくれたようにも感じられた。
「それでは……さっきの場所まで、一緒にジュノーン様を連れ戻しに行ってくれますか?」
王女が言うと、馬は彼女の言った通り、今まで走っていた道を戻り始めた。
まさか本当に自分の言葉が届くとも思っていなかったが、ひとまず彼女は胸を撫で下ろす。
(無事でいて下さい……ジュノーン様!)
リーシャは心の中で銀髪の美青年を思い浮かべ、彼の無事を祈った。
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