第5話 脱獄
リーシャは下水道の梯子を降りてから、初めて会った銀髪の美しい青年に言われた通り、真っ暗の下水道を進んでいた。
(これは……夢じゃないんですよね?)
彼女は何度目かの自問をする。
まさか、あの牢獄から逃げ出せるとは少女も夢にも思っていなかったのである。これもローランド帝国の策略なのだろうか、泳がされているのだろうかと疑念を持ってしまう。
(いいえ。あのジュノーンという人は、そんな人じゃありません)
彼は綺麗な瞳をしていた。彼の真紅の瞳はどこか悲しげで、寂しさを帯びていた。あの手の瞳の人間は決して嘘は吐いていない事を、彼女は知っていた。
そして、この脱出への手順の良さである。これらから察するに、彼はもしかすると、今までに脱獄を補助した経験があるのではないか、とリーシャは考えた。脱出までの手順、行動があまりに速かったからだ。
彼にどんな目的があるにせよ、今のリーシャには彼に頼る他ない。このままでは確実に自分はハイランドにとって致命的な弱点になってしまう事は間違いなかった。ハイランドを守る為にも、彼女は何としても帰らなければならなかったのである。
「きゃっ」
足を滑らせて、びしゃっと尻をつく。
下水道に入ってから転けたのは、もう五度目だ。今や全身異臭に塗れていて、自分の鼻を否定したくなる臭いを放っていた。
「臭いです……」
異臭のあまり、少女の青い瞳からは涙が溢れてくる。だが、全ては生きて帰る為だ、と自身を叱咤激励する。
青年に言われた通り暫く歩くと、半分開いたマンホールを発見した。外の月光が僅かながら差し込んでいる。
リーシャはようやくこの地獄から生還できると思い、思わず走った途端──べしゃ、ともう一度転けてしまった。
マンホールの梯子を登ると、そこには銀髪の美しい青年の姿があった。彼の馬も近くにいる。
ほっと一息吐いて辺りを見回すと、城の城壁が少し遠くに見える。どうやら本当に城外に出たのだ。
「……大丈夫か?」
安心感に浸るリーシャとは裏腹に、ジュノーンは彼女を見てぎょっとしていた。先程とは打って変わってドロドロになっていたので、心配になったのだろう。
自分の姿を思い出し、途端にリーシャは顔を紅くする。
「だ、大丈夫です……」
彼女自身全く大丈夫ではなかったが、そう答えるしかなかった。じろりと抗議の視線を向けたのは言うまでもない。
「悪かったよ。ここを抜けるにはそうするしかなかったんだ。ほら、これ」
ジュノーンは大きめの織物をリーシャに渡した。
おそらく、彼女がこうなっている事を見越して、ここに来る途中でどこかで拝借してきたものなのだろう。彼のものにしては、柄がどことなく女物だった。リーシャは黙ってそれを受け取り、体を拭く。
「とりあえず、俺の屋敷に着くまでは我慢していてくれ」
リーシャはむすっとしたまま頷いた。
仕方がないのは解っているが、殿方に下水まみれの姿を見られていると思えば、恥ずかしくてつい態度も悪くなってしまう。この様な汚い姿を人に見られた事など、彼女の人生では初めてだったのだ。
「……私達の事が発覚するまでどれくらいかかるでしょうか?」
体を拭いた事により少し気分も紛れて冷静さも戻ってきたのか、彼女に冷静さが戻ってくる。無論、まだ全身から異臭を放っているが、それは気にしない様にした。
「遅くても明朝……おそらくリーシャ王女に朝食を持ってきた奴に気付かれる。早ければ見回りに来た奴にすぐにでもばれるかな。俺が来る前に最後に見回りにきたのはどれくらい前覚えているか?」
「三〇分前くらいでしょうか……?」
「よし、それなら少し時間はあるな」
言いながら銀髪の美青年は馬に飛び乗り、リーシャに手を差し伸べた。
「えっ……?」
「ほら、早く乗れ。ここから離れないと」
「でも、臭いがっ……!」
今の彼女は下水の汚物塗れである。とてもではないが、人様に触れられて良い状況ではなかった。
「我慢するから早くしろ」
「っ……! お願いですから、嗅がないで下さい……」
彼の物言いに、少女の羞恥心も減った暮れもなかった。
青い髪とは対象に、顔を真っ赤に染めたまま彼女はジュノーンの前に座らされた。
初めて会う男性と初めて密着して、その時の自分が糞尿まみれなどと一体誰が想像しただろうか。リーシャは恥ずかしさのあまり、耳まで赤くしていた。
二人を乗せた馬は夜の街を駆け抜けた。
リーシャは初めて見るローランドの街並みを黙って眺めていた。
夜の街には、浮浪者の姿が数多く見えた。ある浮浪者は食べ物を食い漁り、ある浮浪者は空虚を眺めている。まるで生かされているかのように、彼らの目には光がなかった。
彼女が目にした初めての異国の地は、自分の国とは全く様子が違っていた。貿易が盛んなローランドは、ハイランドより栄えていると考えていたのだ。
今が深夜という事もあるかもしれないが、あまりに物騒だと思えた。そんな街を抜けて、馬を駆けさせる事一時間──大きな屋敷が見えた。
「あれが俺の屋敷だ」
「綺麗なお住まいですね」
リーシャは率直な感想を言った。
彼の屋敷は、城下町で見た光景とは全く異なる程綺麗だったのだ。まだ夜ではあるが、おそらく夜が明けてもその感想は変わらないだろう。
「侍女がよく手入れしてくれているからな」
ジュノーンが微苦笑を浮かべて言った。
貴族が住む屋敷にしては小さく、建物自体もまだ新しいものだった。屋敷に着くと、馬を外に乗り置いたまま、家主は家を開けた。鍵は空いていたようだった。屋敷に入ると、エントランスにいた若い侍女が驚いた様子で二人を見た。
「ジュノーン様⁉ 一体どうなされたのですか……!」
茶髪の二十代半ばほどの侍女はジュノーンとリーシャを見比べて、驚きの表情を浮かべる。それはそうだろう。
主人がいきなり泥だらけで異臭を放つ女性を連れて帰ってきたら、誰だって驚くはずだ。少女は顔を赤くして、顔を伏せる。
「セシリーか、丁度良かった。とりあえずこの子を風呂に入れてやってくれ。あと、服も何かあれば貸してあげてほしい」
「承知しました。では、どうぞこちらへ」
セシリーと呼ばれた侍女はそれだけである程度事情を察したのか、何も聞いて来なかった。
リーシャは一礼して、「お邪魔します」と言ってセシリーに付いて行く。
そんな二人の様子を見て、ジュノーンは小さく嘆息するのだった。
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