信長・秀吉・家康
落木奥弘様から頂いたコメント
『ドラキュラのモデル・ワラキア公ヴラド3世は残虐か? 捕虜串刺しのパフォーマンス』へのコメント
残虐行為を働いたからと言って、その指導者が残虐な性格だったとは限らない。
織田信長は一向一揆を「根切り(徹底殲滅)」にしたが、それは彼らが正規軍とは違い、屈服させても戦力に取り込めず、逃がせばまた別の場所で蜂起してしまうから、そうせざるを得なかっただけ。
荒木一族の凄惨な処刑も、その頃は重臣の謀反が相次いでピンチだった為、それ以上の謀反を招かない為の見せしめだった。
ヴラドも信長も、彼らなりの論理があっての残虐行為だった訳だが、人々の解釈は違ったのか、どちらも非業の死を遂げてしまった。
『フビライ・ハンによる元寇』へのコメント
後に、豊臣秀吉が逆に中国大陸へ攻め込む訳だが、イエズス会の記録によれば「最終的に、渡海した日本軍15万人の内5万人が死亡、戦死者は少なく、ほとんどは疲労・寒気・飢餓・病気が死因。明・朝鮮側の死者はこれとは比較にならないほど多かった」と書かれている。
元寇の時の元・高麗軍も、或いは同じような惨状だったのかも知れない。
『源頼朝と恋愛結婚した北条政子 ニート夫を将軍に導き、権力者に』へのコメント
優れたトップが死んだ途端、配下に政権を簒奪された例は、古今東西、数え切れない。
トップが行うべき終活は、存命中に危険分子を処分しておく事。清盛はまさにそれで失敗した訳だが、頼朝も同じような失敗をしでかしたのは皮肉としか言いようが無い。
こうした歴史に学んだ徳川家康は、豊臣家にきっちりトドメを刺し、危険な大名を取り潰すシステムを構築して次代に引き継がせた為、江戸幕府は200年以上もの長期政権となった。
(落木奥弘様)
信長は死ぬまで一向宗に手こずり、豊臣家は朝鮮出兵で無駄にお金も兵力も削がれたように感じます。
秀吉は跡継ぎが生まれるのが遅すぎたと思います。
息子の秀頼は5歳で偉大な父である秀吉の後ろ盾をなくし、母親の淀殿の影響力が強く、有能な部下たちが潮目を読んで、離れて行ったのも大きな敗因だと感じます。
家康が天才だと感じるのは、人の心を読んで、微妙な人間関係を利用するのが上手いと思う点です。
本願寺の力を東西に分裂させて力を削いだのは凄い頭の良い作戦だと思いました。
外から攻撃して相手を力で捩じ伏せるだけではなく、相手方の仲間割れを誘導して内側から弱らせる。
人の気持ちを読んで利用するのが上手い人じゃないとできないことだと思いますm(__)m
落木奥弘様、いつも素敵なコメントをありがとうございますm(__)m
【頂いたコメント】
本願寺なんて、400年以上も経った今でも、西と東で仲が悪いですものね…。
人間のサガとは恐ろしい。
分断して統治せよ…というのは、元々イギリスのお家芸ですから、彼はウィリアム・アダムス(三浦按針 )あたりから、これを習ったのかも。
(白狐姫と白狐隊様)
いつもありがとうございますm(__)m
感謝をこめて♡
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