10章 僕の匂いと知らない香り

詩(うた)が大学を卒業した。


その頃には、僕も某学習塾の正社員になっていた。


彼女は社会人になってから、ますます綺麗になっていった。


詩のことは、高校生の頃から知っているから、垢抜けないかわいい部分もよく知っている。


しかし、そのあどけなさを残しつつも、詩は着実に大人の女性になっていった。


彼女と会える日。


僕はそれだけで胸が躍った。


彼女は少しずつ変化していった。


部活を引退して以来、伸ばせるようになったと喜んでいた髪の毛をばっさりと切った。


短く切りそろえられた髪は、詩の端正な顔立ちによく似合った。


「シャンプーがすごい楽になった。」


詩はそう言って、髪を切りにいく度に、嬉しそうに報告をしてくれた。


服装も少しずつ変わっていった。


詩は基本的に服などはネットで、じっくりと吟味して購入する。


衝動買いとはほとんど無縁だった。


自分でも、「私ってケチだから、少し高いものを買うのって躊躇するんだよね~。」


とよく言って、ネットで見つけた服を買うかどうかで、よく悩んでいた。


そんな彼女がほとんど衝動買いで買った花柄のワンピースは、お気に入りでよく着ていた。


僕は密かに詩のハンチング帽姿を気に入っていたのだが、ついに本人には言わずじまいだった。


詩はデートの度にかわいくいてくれようとした。


僕はそんな詩が愛おしく、大好きだった。


ある時、詩に言われた。


「ねえ、何でいつも頭撫でてくるの?」


「え?いや、そんないつも撫でてないよ?」


僕はそもそも、どうして詩がそんなことを聞いてくるのかすら分からなかった。


詩曰く、会った瞬間はもちろん、店で服を合わせている時、エスカレーターに乗っている時、スーパーで買い物をしている時でさえ詩の頭を撫でているらしい。


完全に無意識である。


しかし、それだけ詩という愛おしい存在を感じていたいという、僕の無意識の表れだとも思った。


「詩が可愛いからだよ。」


僕はそう言って詩を撫でる。


「ふーん、変なの。」


詩は興味無さそうにそう言って、前を向いて歩いたが、耳が赤くなっていた。


そんな詩の手を後ろから握った毎日は、今になってそれだけで十分だったと思わずにはいられない。


そういえば昔、よくおばあちゃんの家に遊びに行って、ご飯を食べていると、必ず頭を撫でられた。


僕は子供の時はそれがとても嫌で、ご飯くらいゆっくり食べさせてくれと思っていた。


だが、今なら分かる。


そういうことだったのね、おばあちゃん。











詩は基本的に僕がしてほしい格好を伝えても、してくれることはほとんど無かった。


なんか恥ずかしいらしい。


そんな2人の関係の中で、唯一僕の願望が叶ったのが、匂いだった。


僕が正社員になってから住み始めたアパートの近くに、金木犀きんもくせいが咲いていた。


毎年秋口になると、きれいに咲いて、とてもいい匂いを放っていた。


そんな秋の1コマが大好きで、詩も同意だった。


ある時、詩と待ち合わせをして会った時、詩からフワッと金木犀きんもくせいの香りがした。


「詩、この匂いさ・・・」


「そう!分かる?金木犀きんもくせいの香水買ったんだよね!

つけてみたの!

どう?」


そう言って、詩は手首を僕の鼻に近づけた。


甘い匂い。


僕の大好きな香りだった。


どうやら詩も気に入っているようで、僕と会う予定の日はよく金木犀きんもくせいの香水をつけていた。


詩がいない時もその匂いでハッとすることがある。


同じような匂いを探して、街を歩いたこともあったが、どれも詩の匂いではない。


詩に頼んで同じ香水を嗅がせてもらったが、これも詩の匂いではなかった。


匂いとは奇々怪々で、同じ商品でも人によって、少しずつ匂いが違うのだ。


あの人の匂い。


だから好きなんだと気がつくのは、いつも側にいなくなってからだ。









「ごめん、ちょっとトイレ行ってくる。」


詩がそう言って席を立つ。


座っている僕の横を通り過ぎた。


風に纏われてフワッと舞うその香りは、僕の知らない香りだった。


詩からは、もうはしない。


彼女はあの匂いを忘れた訳ではない。


寧ろ忘れさせようとしている。


時間が僕の知らない詩を作り上げたと、理解していても、僕の気持ちを伝えない訳にはいかなかった。

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