3章 箸?これでいいじゃん
約束した時間の10分前。
詩(うた)は店に現れた。
花柄のワンピースに、カーディガンを着ている。
とても可憐だ。
そういえば、詩は昔から花柄を愛用している。
「涼(リョウ)、久しぶり。相変わらず早いね。」
そう言って笑うと、詩は席についた。
何も変わらない。詩が変わらないでいてくれる。
なんだかそれだけでとても嬉しくなった。
「何か食べる?」
僕は詩に問いかける。
詩は後でいいやと言って、ミルクティーだけ注文した。
しばらくして僕が頼んだ、から揚げ定食が届いた。
ここは喫茶店であるが、昼時は定食も出している。
これが中々おいしくて、詩も僕もはまった時期があった。
「から揚げ食べる?」
「うん、一口ちょうだい。
あ、でも箸ないね。」
「え?」
とても意外な一言だった。
そうか。もう、変だよね。
「もらえば?」
僕はこれだけ言うので精一杯だった。
詩は店員さんに箸をお願いした。
当たり前と言われたら当たり前なのだが、なんだかとても変な気がする。
僕が詩を好きになったのは、箸がきっかけで、後に詩もそのようなことを言っていた。
でも今は思い出してはいけない。
諦めた恋心が蘇ってしまうから。
詩が塾講師見習いをやっている期間だけで、僕たちは相当数遊びに行った。
というより、色んな先生が色んなことを企画して、詩を少しでも楽しませようとしていたのだと、今なら分かる。
ある時、1人の主婦の先生がバーベキューを企画してくれた。
春休みで息子たちを遊びに連れて行きたい、ということで、僕たちはバーベキューに赴いた。
メンバーはフットサルに行った際のメンバーで、加えて今回企画した主婦の先生とその息子たちだった。
彼らはそれぞれ、小学校低学年と高学年だったと思う。
思うというのは、申し訳ないが、彼らについてはほとんど記憶が無いからだ。
僕は本当に人見知りで、子供が大の苦手ということもあって、その先生の息子さんたちとほとんど、というか全く会話をしていない。
だから学年も名前も覚えていない始末だ。
本当にダメな奴である。
というより、詩に夢中になり過ぎていた。
と言う方が適切かもしれない。
ともあれバーベキューは順調に準備が進み、何事もなく始まった。
詩や主婦の先生があれこれ準備をしてくれて、僕が基本的に焼く担当になった。
子供たちには先輩の講師が肉を届けてくれて、教室長は僕が皿にうつした肉を満足そうに食べるのが仕事だ。
様子を見ていると、主婦の先生は子供たちの世話をしながら、自分も合間に肉を食べて、とても上手く立ち回っている。
さすが、こういう状況は慣れているのか、実に見事な立ち回りだ。
問題は詩である。
野菜を切ったり、飲み物を用意したりしてくれているのはありがたいが、全く食べていない。
食べたくないのかとすら思ってしまう。
「詩ちゃん、食べれてる?
お肉食べな?」
教室長が詩を誘う。
詩は「これだけー。」
と言いながら次から次へとあらゆる雑用をこなす。
見かねた教室長が無理やり詩を引っ張ってきて、肉を焼いている鉄板の前につれてきた。
すると教室長は先輩講師に呼ばれて、行ってしまった。
気まずくて仕方がないので、僕は詩に話しかける。
「詩ちゃん、お疲れ様。
これ、焼けてるよ。」
「熱いの無理。
あ、これ食べていいやつ?」
そう言って詩は、僕が差し出した肉とは別に、僕が食べるために、肉を置いていた皿を指差す。
「いや、別に良いけど。」
本当に良いけど。
「箸は?」
いや、そんなまさかな。
「箸?これでいいじゃん。」
そう言って詩は僕が使っていた箸で、次々と肉をほお張った。
「えー。ものぐさー。」
そう言いながら僕は肉を焼くのに戻ったが、内心で特大ガッツポーズをしたのは言うまでもない。
詩と急接近。
この間の休憩所といい、なんだかとても嬉しいイベントが起こっている。
その後も詩は雑用の合間に、僕が溜めておいた肉を食べに来た。
しかし、しばらくすると、僕が肉を焼く合間に食べているところを狙って、やって来るようになった。
それも口を大きく開けながら。
仕方なく僕はその大きく開いた、小さな口に肉を入れてやる。
詩は嬉しそうに咀嚼すると、教室長のところに行ったり、主婦講師のところに行ったりして、相変わらず動き回る。
詩が行った後、僕はその箸で、なるべく汚さないように、口をつけないように肉を食べた。
そんな事は無理なのだが。
でもやった。間接キスと思われたくなくて。
しばらくすると、皆のお腹も落ち着いてきた。
子供たちはゲームをしたり、先輩講師と将棋をしたりしている。
お母さんはその様子を眺めていた。
教室長と僕と詩は鉄板で焼きそばを焼きながら、談笑する。
詩はそこでも僕の箸で、いや、彼女の箸で肉を食べていた。
「あれ?詩ちゃん?それ山本先生のお皿じゃない?」
当然の疑問だ。僕は内心ウッと思った。
付き合ってもいないのに、この状況は絶対に変だ。
「そうだよ~。だってお皿無いし。」
「いや、いっぱいあるでしょ!
詩ちゃんものぐさすぎですよね?」
僕は必死に取り繕った。
「いや、どういうこと?」
ごもっとも。
教室長の顔は、娘が嫁入り前の父親のような顔をしていた。
何とも言えない顔だな。
多分、深堀りしたかったはずだ。
付き合ってるの?って聞きたいはずだ。
でも大人というか臆病というか、教室長はフッと笑って、それ以上何も言わなかった。
良いのかよ。
僕は、そんなことを内心で思っていた。
そんなこんなで、バーベキューは終わりを迎え、それぞれ解散となった。
帰りの方向的に、詩と先輩講師は主婦講師の車でそれぞれの家まで、僕は教室長に車で駅まで送ってもらった。
帰りの車で一言、
「詩ちゃんを大事にね。」
「あ、はー。」
間抜けな声しか出なかった。
そりゃあ、そんな誤解を生むよね。
「すみません。」
何故か謝ってしまった。
店員さんが持ってきてくれた箸で、詩はから揚げを一口。
「うん、おいひい。」
飲み込むよりも先に感想を言ってくれる。
詩のそんなところが大好きだった。
「箸?これでいいじゃん。」
そんなことも言えなくなった2人の関係の変化は、やはり寂しいものだと感じた。
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