Ch.1-3
明くる日、私はいつも通り『フローラ』のお手伝いに向かいました。いつもの時間、いつもの道、いつもの曇り空。特に変化のない私の日常。
けれど、昨日までと違うところが在りました。歩くたびにまるで馬の尻尾のように弾む私の後ろ髪。そう、私は髪型をポニーテールに変えたのです。揺れる尾を結えているのは勿論ヴァイオレットがくれた髪留め。今朝の私はご機嫌でこの髪型をチョイスしました。お父さんお母さんには少し驚かれたけど、すぐに笑顔になって送り出してくれました。
今日もいい日になりそうな予感がしていました。
けれど、そんな幻想は『フローラ』に到着して間もなくで打ち壊されました。
「探したぜ、お嬢ちゃん」
私が他のお手伝いさんたちと一緒に開店の準備をしていると、突然その下賤な声が私の耳に届きました。振り返ってお店の入り口を見ると、そこには昨日のチンピラたちと、彼らに捕まったグラシアさんが店内に入ってくるところでした。
「グラシアさん!」
私が急いで駆け寄ると、チンピラたちは乱暴にグラシアさんを解放しました。私は彼女を抱き止めて、「大丈夫⁉︎」と声をかけます。頬や腕には真新しい傷跡や痣が多数あり、その青白くなった顔色からも察するに明らかに彼らから暴行を受けたようでした。
「ハ、ハイビス。私は大丈夫だから、それより早く……」
「大丈夫じゃないわ! こんな酷いことされて」
私の声かけに返答したグラシアさんですが、その声も弱々しく聴いていられません。私たちの周りには続々と他のお手伝いさんたちが集まり、皆がチンピラたちを睨みつけています。
「おうおう、怖いお姉様方たちだ。しかし申し訳ねえが、俺たちが用があるのはそこのお嬢ちゃんだけなんだ」
チンピラの一人で長身のリーダーらしき男が、私たちの怒りの視線に臆することなく前に進み出てきて、そして私を指差しました。彼らの望みは分かっています。だからこそ私は一層強くチンピラたちを睨みつけます。
しかしそんな私の威勢には目も暮れず、男は私の予期していた言葉を口にしました。
「お嬢ちゃんも分かってんだろ。昨日貰いそびれたルビーのネックレス、今ここで頂くとしようか」
やっぱり、彼らの狙いはあのネックレスでした。何故そこまで執着するのか、私には分からないし分りたいとも思いませんが、しかし彼らにとってあれには特別な意味があるのでしょう。
けれど、私にも私なりの執着があのネックレスにはあります。絶対に引き渡すわけにはいきません。お祖父ちゃんのためにも、そして昨日私とネックレスを守ってくれたヴァイオレットのためにも。
「ありません」
私はグラシアさんを別のお手伝いさんに預けて立ち上がり、チンピラたちへ高らかに宣告しました。
「は?」
「私はいま持っていませんし、どこに置いてきたかも言いません!」
胸を張り、声を大にして彼らに言ってやりました。昨日と違って威風堂々とした佇まいの私に彼らは目を見張ります。驚け慄け、そして回れ右してささっと帰ってしまえ。昨日までの私と思って侮るなよ、それだけの気概をもって私はチンピラたちに立ち向かいました。
しかし、先頭の男は見開いていた目を細め、その中に冷酷な温度を携えながら私にこう告げます。
「そうかい、ならこの店とお嬢ちゃんの親父の工場がどうなっても知らねえな」
男の思わぬ発言に、今度は私が目を見張る番でした。
「え?」
「実はな、俺らの親分がたまたま偶然お嬢ちゃんの親父さんの働いてる工場に用があってな。多分そろそろ到着する頃合いじゃないかねえ」
そう言って目元に冷ややかな狂気を湛えたまま、私に向かってほくそ笑む男。その表情が、彼の発言の信ぴょう性を如実に物語っていました。急に臆病風が吹いて一気に血の気が引いてしまった私を見て、腰巾着二人もニタニタと笑っています。
「ひ、人質なんて卑怯よ!」
「人聞きの悪いお嬢ちゃんだな。単なる偶然、偶然。ほんのご挨拶だよ、ご挨拶。まあ、お嬢ちゃんが昨日素直にネックレスを渡してくれてたらこんな事にはならなかったかもしれないけどな」
のらりくらりとした口調の端々に、男の持つ確かな残虐さが垣間見えます。私はどうにか打開策はないかと必死に考えますが、すでに真っ白な私の頭はそこに至る筋道すらかき消してしまっています。
「なぁお嬢ちゃん、分かったろ? お嬢ちゃんがどうすべきで何を言えばいいか」
嗜めるようで脅している男の声は、私の震えて縮こまっている心を少しずつ、けれど着実に押し潰そうと迫ってくるようでした。跳ね除けようと躍起になってもびくともしません。
そこではたと気が付きました。
今日はいい日なんかじゃありません。いい日になる筈もありません。それはきっと昨日から決まっていて、つまりは昨日もいい日なんかじゃなかったんです。
全ては私の勘違い、気の迷い、妄想でしかありませんでした。何も持ち得ていない私の壮大な夢物語だったのです。
そうならば、この物語の顛末はすでに決まっています。これ以上、私のわがままに周りの人たちを巻き込むわけにはいきません。
『分かりました』
その一言でこの残酷な現実にけりを付けられるのならお安い御用、端金です。私はその言葉を放ろうとなけなしの気力を奮わせて唇を動かそうとします。
しかし、震えるのは唇ではなく心で、むしろその振動は強く深くなって仕方がありません。どうにか恐怖を拭い去ろうと心の中を整理しますが、この上なく頑丈に固めたはずの物事が次から次へと崩れていきます。それをまた持ち上げて組み直しても、なぜか余計にごちゃつく始末で自分でも訳が分かりません。
そうして私が口籠もっていると、男が先ほどよりも鋭利な物言いで、
「あぁ、怖くて喋れないってか、え? それとも、まだ俺らに歯向かうってのか?」
一歩また一歩と近づきながら尋ねてきます。
違う。やめて。これ以上、私の大切な人たちを傷つけないで。
そんな切実な願いとは裏腹に、震えが唇へと伝達される気配すらありません。意気地がない訳ではない筈なのに、何かが私の気概を阻んで通そうとしません。失うものなど何も持っていないというのに、持っていたとしても怖いなんて絶対に言わないのに、その何かはただ厳然と私を見つめているようでした。
「なんとか言ったらどうだ、お嬢ちゃん。なぁ、なあぁ!」
あからさまに怒りのボルテージを上げてにじり寄ってくる男を、怯えて蛇行した視線で見つめる私。自分の内から外から迫ってくる脅威にもはや立ち向かう勇気を失くしてしまった私は、動き出すことも蹲ることも出来ずそこに立ち尽くしていました。
男が私の目の前まで行きつき、上から蔑むような目線で見つめます。工場地帯に立ち込めているような煙臭い空気が男から漂ってきました。そして、その手をゆっくりと伸ばして私の頭部を掴もうとします。より濃い悪臭とこれから行われるであろう惨事が過ぎって、私は思わず目を瞑りました。
そのときでした。
「ぎいやあぁぁ‼︎」
「ぐわあぁぁ‼︎」
突然、野太い悲鳴が響いたと思えば、瞬間的な豪風が私のポニーテールを後方へ靡かせました。
ぱっと目を開いて後ろを振り返ると、お店の角で重なって倒れている腰巾着二人がいました。
「ま、またお前か!」
チンピラリーダーが急に声を引き攣らせて叫びました。まさかと思って今度は前を向くと、そこにはヴァイオレットがお店の入り口に立っていました。
「ヴァイオレット! な、なんで」
「理由は後よハイビス。まずはこいつらを対処することが先決だから」
喜びと迷いの入り混じった声で呼びかけた私に対して、彼女はいたって冷静に受け答えます。
「は! 対処とはご大層な。昨日はちょろまかされたからな、こっちもそれ相応のもてなしをするのが礼儀ってもんだよな!」
ヴァイオレットの登場に多少驚いていたものの、男は先程と変わらない余裕と狂気性をもって彼女を挑発します。それと同時に、男は徐に右手を挙げると握り拳をヴァイオレットに向けました。見ると、その手首には昨日は身に付けていなかった重々しい鉄製のバングルが巻かれていました。
『All Correct.』
男がそう呟くと、手首のバングルが鈍く輝いたように見えました。私がその怪しい光に一つ瞬きをした次の瞬間、男の手には御伽話にでてくる龍の尻尾でも切り裂けるほどの刀身をもった剣が握られていました。その光景を目の当たりにした人たちは軒並み目を見張り、その無骨な剣から溢れる殺気に肩を震わせました。
ただ一人、金髪の彼女を除いて。
「やっぱりね」
まるで知っていたかのような口振りのヴァイオレット。余裕と威圧を備えた眼差しが真っ直ぐに男を捉えています。そんな彼女の毅然とした態度に、男は剣を構えたまま一歩後退りをしました。
その一瞬の怯みを彼女は見逃しませんでした。
コッとヒールが地面を叩く音がしたのとほぼ同時に、鋭い金属同士の衝突音がお店の中に響いたのち、遅れてそのモーションに要した分の空気が勢いよく私の横を通り抜けていきました。
見れば、あの一瞬で男の数メートル手前まで近づいていた片足立ちのヴァイオレットと、いつの間にか剣を失っている男が相対しています。私はぐるりと辺りを見回します。すると、先程まで男の手元にあったはずの鉄剣がお店の天井に突き刺さっていました。
そして私が視線を二人へ戻すよりも前に、
「ぐわあぁぁ‼︎」
野太いうめき声が私の横を中々のスピードで通過していき、私が前を見据えたころには右脚を振り切ったヴァイオレットが背中を向けて着地していました。
彼女のあまりの早技に、私は口をあんぐりと開けたままゆっくりと後方を確認します。そこにはお店の角で三人仲良く蹲っているチンピラたちが居ました。
「ハイビス」
しばらく呆然とチンピラたちを見つめていた私でしたが、ヴァイオレットの呼びかけではっと目が覚めました。振り返ると、私の肩に手を添えてこちらを伺っている彼女の澄んだ目がありました。
「ヴァ、ヴァイオレット」
「大体の事情は察したわ。お父さんがあいつらのボスに捕まっているかもしれないのよね」
彼女が言ってくれたことでようやく自分の置かれている現状について理解した私は、噴き出した焦燥感を宥めることで精一杯でした。なので、言葉の代わりとして首を縦に振って応えました。
「なら早く行ってあげた方がいいわ。私もあいつらを処理したらすぐに追いつくから。さぁ早く行って」
彼女の尽力に対して全力の首肯で感謝を伝えつつ、私はすぐに立ち上がって走り出そうとしました。
しかし、
「待゛て゛や゛あ゛ぁぁ‼︎」
自らの怒気を濁点にして込めた弾丸のような言葉が飛んできました。声の主はもちろんチンピラのリーダー。腰巾着の二人は痛みからかまだ苦い顔をしていますが、リーダーの男だけは顔を真っ赤にして明らかな殺意とともにこちらを据わった目で凝視しています。
『All Collect.』
男がそう唱えると、天井に刺さっていたはずの剣がまた彼の手元に戻ってきました。そして何やら、先程よりも刀身の部分が大きくなっている気がします。男はその剣を、今度は両手で握りこんで臨戦態勢へと移行し、ヴァイオレットの動きをまるで蛇のごとく観察し始めました。
「これは厄介ね」
ヴァイオレットはそう呟くと、後ろ手に私に対して早く父の元へ向かうよう合図を送りました。私はそれに応えるべくくるりと翻って、お店の出口へと駆け出しました。
「逃がすかあぁぁ‼︎」
男の怒号が私を追いかけるように響いてきました。けれど、それに怯むことなく私は足を前へ前へと運びます。再びの金属同士の衝突音が私の耳へ届いたとき、私はドアを開けて外に出ました。
私の横を逆走していく風に紛れて、細かな水滴がいたずらに頬を掠めます。上を見ると空は色のトーンを下げて覆い被さるような雨雲で埋め尽くされていました。徐々に『フローラ』の喧騒から遠ざかり、それに乗じて少しずつ強くなっていく雨音が介入してきます。
「ヴァイオレット、ごめんなさい」
そんな不穏な空の下を、私は無我夢中で父の待つ工場へと直走りました。
Hello, Violent Violet. 葉城真琴 @mu-me
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