Ch.1-2
「いらっしゃませ~、ってハイビスちゃんじゃない」
出迎えてくれたのはグラシアさんでした。いつも私と一緒にこの酒場『フローラ』を働いているお手伝いさんの1人です。
「どうしたの、今日はお休みの筈でしょう?」
「それがねグラシアさん、今日は事情があって人を連れてきたの」
そう言って私は少しだけ左にずれました。私の後ろから顔を出したのはブロンドポニテの彼女でした。私の摩訶不思議なお誘いはなぜか成功し、私と一緒にこのお店へ来てくれたのでした。
「初めまして、ヴァイオレットと言います。ハイビスさんに誘われて付いて来てしまいました。お邪魔ではないでしょうか」
そして、その道中に名前も教えてくれました。ヴァイオレット、その服装とにじみ出る気品高さにぴったりな名前だと思います。
ヴァイオレットが軽く会釈をしながら挨拶をすると、少し驚いた様子だったグラシアさんははたと我に返ったように笑顔になって、
「あらあら、ハイビスちゃんのお友達なら大歓迎よ。お好きな席に座って待っててね、いまメニューボード持ってくるから」
とすごく嬉しそうに店奥へと駆けだして行ってしまいました。
私は急いでその背中に向かって、
「グラシアさん、メニューは大丈夫だから紅茶を頂戴!」
と投げかけました。結局その言葉が届いたのかは微妙ですが、グラシアさんは後ろ手に手を振りながら店奥へと消えていきました。
取り残された私たちはとりあえず近くの席を選んで座り、グラシアさんの帰りを待つことにしました。
ランチタイムも過ぎてお客さんも疎らですが、それでも酒場なだけあって活気があり、お店の中には心地よい朗らかな話し声が木霊しています。
「とても賑やかなところなのね」
私の対面に座った彼女は、無表情ながらぐるりと店内を見渡していました。それはまるで子どもが初めて来た場所を興味深そうに眺めているようでした。私はそんな彼女の反応がなんだか嬉しくて、
「でしょ、私の大好きな場所なの」
と笑顔で返しました。
「はーいお待たせしました。こちら当店おすすめ『フローラ』特製スペシャルティーでございます」
なんて会話をしていると、グラシアさんが思ったよりも早く片手にお盆と紅茶セットを乗せて帰ってきました。そのまま流れるようにヴァイオレットの前へ紅茶セットを配膳するグラシアさんに私はお礼を言います。
「ありがとう、グラシアさん。ちゃんと聞こえてたのね」
「これハイビスちゃんお気に入りのメニューだものね。さっき後ろから何言われたのか分からなかったけど、きっとこれだろうっていう勘がビビッと働いたの」
聞こえてはなかったんだ。自慢げな顔のグラシアさんに私は苦笑いしました。
「これがおすすめ?」
そう言ったのはヴァイオレットでした。確かに私たちの目の前に広がる光景は、酒場というワードとはあまりに合致しないものです。白地に青の染料で装飾されたティーポットとソーサーの上に乗ったティーカップ、そして辺りに広がる豊かな茶葉の香り。私たちのいるテーブルだけが薔薇咲き乱れる優雅なお庭の一角に移動してしまったみたいです。
「酒場なのに紅茶って思ったでしょう? でもね、一口飲めばおすすめしている意味が分かるわよ」
無言でティーポットを見つめるヴァイオレットに対してグラシアさんが鼻高々に語ります。私もおすすめした身として黙っているわけにはいきません。
「私が淹れてあげるね」
私はそう一言告げてから、立ち上がってヴァイオレットの傍らへ行き、慣れた手つきでティーポットをゆっくりと円を描くようにして回します。こうするとさらに風味が増して紅茶がもっと美味しくなるのです。御まじないみたいなものです。
その様子を黙って見守る二人。ヴァイオレットはこのお店の勝手を知らないし仕方がないけれど、グラシアさんが静かにしているのは反則です。いつもセカセカと動き回っているような人だから余計に。危うく御まじないが途切れてしまうところでした。
やけに厳かな儀式を終えて、私はティーポットの口をカップに近づけ、最初は低い位置でちょろちょろと、次第に口を離して高いところから大胆に紅茶を注ぎます。すると、御まじないのお陰もあって茶葉の香気がぱっとお店全体に広がりました。お花が開いたような優雅な香りに、お店にいる他のお客さんやお手伝いさんたちがこちらへ振り返ります。
澄んだ赤茶色に満たされたティーカップからは仄かに湯気が立ち込め、それとともに絶えず豊かな香りが湧き上がってきます。私はそれをソーサーをすっと押してヴァイオレットの前に差し出し、
「お待たせしました」
とわざと畏まった言葉で促しました。
彼女は少しだけ物色するようにティーカップと中の液体を観察したのち、そのまま黙ってカップを持ち上げて口をつけ、ゆっくりとそれを傾けました。私とグラシアさんはその傍らで、ソワソワしながら彼女の一挙手一投足を見届けていました。
口に含み、鼻がピクリと動いて、唇をふっと離し、ゆったりと嚥下する。
まるで生まれたて赤ん坊を見ているかのごとき眼差しの私たちを尻目に、彼女は静かにカップの中の紅茶を見つめます。そして再度カップを傾けます。嚥下したのち、今度はカップの中を見ることなく紅茶に口をつけます。
それは見るからに、紅茶を気に入ってくれたようでした。戦々恐々としていた私とグラシアさんは見つめ合って、通じ合ったようにお互いに頷きました。
しばらくして、ヴァイオレットはカップをソーサーの上に戻しました。見ると、その中に紅茶は残っていませんでした。私は思わず笑顔になって、少しだけ身を彼女の方に乗り出して尋ねていました。
「ど、どうだった?」
まだ飲み終えたばかりのお客様に対して感想を催促するなんて大変失礼なことなのですが、それでも自分の中のワクワクに歯止めを利かせられませんでした。そんな若干鼻息の荒い私にも彼女は全く怪訝な表情を見せることはありません。
「そうね……」
ただ静かに私の問いに対する返答を考えてくれます。本当に優しい人だなと思いました。暫し顎に手を当てて黙考していたヴァイオレットでしたが、やがて何かを思い出したかのようにくるりとこちらに顔を向けて、そしてこう答えました。
「悪くなかったわ」
私とグラシアさんは再度向き合って、今度はお互いに首を傾げました。
悪くなかった。その言葉はなんだか空虚で、感情が乗っかっていない気がしました。まるで良いか悪いか、そんな二つの単純な判断基準で測ったかのような感想。私が彼女から感じていた優しさからは程遠い、むしろ少し棘を感じる返答でした。
私は恐る恐る彼女に問いかけます。
「あのヴァイオレット、もしかして紅茶あまり好みじゃなかった?」
人にはそれぞれ口に合う合わないがあります。確かに少しガッカリはしてしまいましたが、それは勝手な私のエゴです。私が好きな味や風味が、他の人にとってはそうじゃないことなんて珍しくありません。押し付けてはダメなのです。
私の問いかけに対して、ヴァイオレットはその凛々しい瞳でこちらを見据えたまま再度口を開きます。
「いや、そんなことはないわ」
私はその反応にまた首を傾げました。
「え、じゃあさっきの『悪くなかった』っていうのは?」
ヴァイオレットは三度応えます。
「そう、『悪くなかった』からそう答えたのだけれど」
私も三度首を傾げました。加えて、ヴァイオレットも首を傾げました。
どうやら私の耳がおかしいわけでも、彼女の言い間違いというわけでもありません。その点が解消できたのは喜ぶべき事なのかもしれませんが、しかし解消してしまったせいで余計に私の中のモヤモヤは濃くなってしまいました。意図せずして、私と彼女との間に不穏な空気が流れていました。
しかし、
「つまりは、ヴァイオレットちゃんにとってこの紅茶は悪いものではなかったんでしょう?」
その空気を軽やかに切り裂いてくれたのはグラシアさんでした。
「で、ヴァイオレットちゃんにとってこの紅茶は良いものではなかったの?」
グラシアさんの問いかけに、ヴァイオレットはまるで的を得た言わんばかりに食い気味で受け答えました。
「あ、そうです。良い、良かったです」
「そうよね、だと思った。今日やっぱり私冴えてるかもしれないわ」
グラシアさんはわざとらしく胸を張って自慢げな笑顔を見せたあと、私の方を見てウィンクをしました。それが彼女なりのフォローだと気づいて、私は曇りかけていた表情を瞬時に切り替えて朗らかにヴァイオレットへ話しかけました。
「ほんと、良かった。てっきり口に合わなかったんじゃないかって心配しちゃった」
「そんなことないわ」
私の安堵した声に彼女は食い気味で答えます。
「ごめんなさい、私あまり美味しいという感情が分からなくて」
「え、美味しいが分からないの?」
「分からないというか、表現できないというか」
表情は変わらないけれど、彼女の口調が幾分たどたどしいことから、彼女の内側にあるものを丁寧に言葉を選んで私へ伝えようとしている意思が見えました。美味しいが表現できない。どういう感じなのか、私にはさっぱりですがそれが彼女という人、彼女の個性なのでしょう。理解はできませんが、一度飲み込むことにしました。
言い終えた彼女は空になったカップを持ち上げて、しげしげと装飾の一つ一つを観察しています。
「このカップも、そのポットも、本当に悪くないわ。いや良い、良いと思うわ」
どこまでも無表情だけど、その口から紡がれる言の葉はたしかに優しさで彩られています。そのミスマッチがどうにも可笑しくて、私は耐え切れずに吹き出してしまいました。
「私また変なことを言ってしまったかしら……」
涙でぼやけた視界の先でヴァイオレットが表情を変えずにこちらを窺っているのが分かります。それがまた可笑しくて、私は声をあげて笑いました。それに釣られたかのように横でグラシアさんも笑い出しました。私たちの笑い声はどのテーブルよりも大きく、そして良くお店の中に響いていました。
***
「ただいま~」
私がいつものごとく玄関の戸を開けると、
「おかえりなさーい」
「おかえりハイビス」
キッチンで夕食の支度をしているお母さんと、椅子に座って新聞を読んでいるお父さんがこちらを向いて出迎えてくれた。
「遅かったわね、もうご飯できるから装うの手伝ってちょうだい」
「はーい」
お母さんの言葉に何げなく返事をして自分の部屋に向かおうとするとと、お父さんが何故かこちらをじっと見つめていることに気が付いた。
「どうしたのお父さん?」
もしかしてゴミが付いてるのかな。私はキョロキョロと自分の身体を見回しながら両手で服の上をさっと払います。そんな私を見て、お父さんの表情が一気に崩て破顔しました。
「いや、何か嬉しいことでもあったのかと思っただけなんだけど。その様子だと予想は当たっていたみたいだね」
「え、なんで分かったの?」
「だってハイビスの動き一つ一つが軽やかだったからさ」
「あら、確かに心なしか雰囲気が明るいような気がするわね」
戸惑う私を二人はまじまじと観察しながら、互いに見つめあってニコニコ笑っています。お父さんお母さんが笑ってくれることはとっても喜ばしいことだけど、その理由がなんだか歯がゆくて素直に喜べません。むしろ頬が赤く熱くなっている感覚が伝わってきて恥ずかしさの方が前面に出てきてしまいます。
私は耐え切れなくなって、頬を手で押さえながら自分の部屋へと駆け出しました。
扉を閉め、一息おいてから部屋の灯りを付けます。橙色の暖かな光が部屋の中を包み込むように照らし、その光は私の心にも安らぎを届けてくれました。肩掛けのバッグを布団の上へ置いて、自分も一度ベッドに腰を下ろすことにしました。
少し長めの溜息を吐きます。この溜息は決してネガティブなものではなく、今日在った色々を整理するためのものです。お出かけ日和で久しぶりに街へ出かけたこと。途中チンピラに襲われて必死で逃げたこと。窮地に追いやられたところでヴァイオレットが助けてくれたこと。そのお礼としてヴァイオレットに私おすすめの紅茶をご馳走したこと。
どれもこれも本当に一日で起きた出来事なのかと、自分の記憶を疑いたくなるほど急展開な一日でした。そこで私ははたと気が付きました。これほどの出来事を受けてなぜ私は一貫して冷静でいられたのか。その答えは、
「まるで夢みたい」
そう、あまりの出来事の多さに私は夢見心地だったからです。冷静だったのではなく、起きる出来事すべてに身をゆだねて流されるまま今日という一日を過ごしていたからです。
私はベッドに寝ころびました。そして、徐に右手をあげて灯りにかざしました。暖色が手のひらから零れるのと同時に、手首から異なる色の光が差し込みます。そこにはキラキラと輝く紫色の髪留め。ヴァイオレットから、お礼のお礼だと言って渡された彼女が着けているものと同じ髪留めです。
今日ずっと夢見心地で、起きたこと全部私の妄想なんじゃないかと疑ってしまうけれど、この髪留めがたしかな根拠を持って今日という日を証明してくれています。
「ハイビスー、お手伝いして頂戴」
扉の向こうからお母さんの声が響いてきました。私はベッドから起き上がり、髪留めを着けたままリビングへ歩き出しました。新しいお友達ができた。そんなハッピーな思いも一緒に身に着けたまま、部屋の灯りを消し、食卓へと向かったのでした。
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